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立憲政友会 と立憲民政党など

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御来訪ありがとうございます。
 
そう言えば、分類が、もう一つありました。
 
(引用開始)
 
 
 
立憲政友会(りっけんせいゆうかい)は、戦前日本最初の本格的政党政治の政党。1900年明治33年)9月15日に結党された。1939年昭和14年)に分裂して中島派と久原派の並立状態となり、1940年昭和15年)7月16日に久原派が解散し、同年7月30日に中島派が解散したことにより解党となった。略称は政友会(せいゆうかい)。
 
1900年(明治33年)9月15日超然主義の破綻と政党政治の必要性を感じた伊藤博文が自らの与党として組織した。伊藤自身が初代総裁となり、伊藤系官僚憲政党(旧自由党)・帝国党・民党関係者の星亨松田正久尾崎行雄伊東巳代治西園寺公望渡辺国武金子堅太郎片岡健吉大岡育造江原素六元田肇渡辺洪基原敬らが中心となって創立に動き、紅葉館で創立発会が行われ、帝国ホテルに事務所を設置した。
 
 
大正時代の政友会は、原敬を核として山本達雄水野錬太郎高橋是清ら伊藤博文系の政治家や非山縣有朋官僚等を中心にして当時議会の多数派を占めていた大政党であり、「積極政策」を政策の目玉とし、地方利益の獲得を党勢拡大の梃子にしていた。ただ、原敬の歿後、党内で党人派=総裁派(高橋是清、尾崎行雄、野田卯太郎横田千之助小泉策太郎小川平吉岡崎邦輔ら)と官僚派=非総裁派(山本達雄、床次竹次郎中橋徳五郎元田肇ら)の対立傾向が先鋭化し始めていた。原敬の暗殺後、急遽新総裁に迎えられた高橋是清を支持する横田千之助と、それに反対する床次竹二郎の2派に分裂、床次らは分離して政友本党を結党する。横田らは第二次護憲運動にも参加し、加藤高明護憲三派内閣に参加。
 
 
昭和に入って数年は民政党と交替で政権をになったが、1930年(昭和5年)の浜口雄幸首相遭難事件や1932年(昭和7年)五・一五事件での自党の犬養毅暗殺を政党政治の危機とはとらえず、民政党追い落としを画策して、親軍的保守的性格を却って強めたため国民の信を失い、1936年総選挙では総裁の鈴木喜三郎が落選するなどの大惨敗を喫し、民政党、社会大衆党の躍進を許した。その後は1937年(昭和12年)浜田国松のいわゆる「腹切り問答」に代表されるような反ファッショ姿勢に一時的には転換したものの、盧溝橋事件に端を発する日中戦争の拡大以後は戦争に協力する姿勢に戻った。さらに1939年に次期総裁をめぐり久原房之助中島知久平の2派に分裂する(後述)。1940年(昭和15年)に両派とも解党して新体制運動に参加、大政翼賛会に合流した。
 
 
 
また参議院議長を務めた松野鶴平は娘婿(娘・タキノの夫)にあたり、松野頼三農林大臣)は孫・松野頼久内閣官房副長官)は曾孫にそれぞれあたる。
 
 
 
日立製作所創立の基盤となった久原鉱業所日立銅山)や久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取った。義兄の鮎川義介と共に「政界の黒幕フィクサー」と呼ばれ、右翼に資金を提供して二・二六事件に深く関与した。戦後はA級戦犯容疑者となり、公職追放となった。
戦後は日中・日ソ国交回復議長などを務めた。
 
 
 
 
立憲民政党
 
立憲民政党(りっけんみんせいとう)は、日本昭和時代における政党。通称「民政党」。
1927年6月1日憲政会政友本党が合併して成立した。濱口内閣第2次若槻内閣を組織して、立憲政友会(政友会)との二大政党制を実現させたが1940年8月15日に解党して立憲政友会とともに大政翼賛会に合流した
 
1927年、政友会の田中義一内閣に対抗する形で前政権(第1次若槻内閣)の与党であった憲政会と、内部対立から政友会を離党した床次竹二郎らによる政友本党が合併して成立。6月1日上野精養軒にて結党式が開かれ、濱口雄幸総裁とし、若槻禮次郎(前首相・憲政会総裁)・床次竹二郎(政友本党総裁)・山本達雄武富時敏を党顧問、櫻内幸雄を幹事長、安達謙蔵町田忠治小泉又次郎斎藤隆夫ら10名を総務とした。
 
 
 
大政翼賛会と民政党解党[編集]
その頃、党内には2つの流れが存在した。一つは二・二六事件直後のいわゆる「粛軍演説」に代表される斎藤隆夫の軍部と対決してでも党是である議会政治を擁護しようとする立場と、もう一つは町田の元で幹事長を務めていた永井柳太郎に代表される軍部や革新官僚と結んで政治の主導権を確保する事を優先すべきだとする立場である。
 
 
 
のち明治の政商として活躍、藤田組を創業した藤田伝三郎は父・庄三郎の実弟にあたる。なお、庄三郎は伝三郎が「藤田伝三郎商会」(後の藤田組、現在のDOWAホールディングス)設立の際には共同経営者として名前を連ねている。
2回結婚しており(最初の妻が鮎川義介の妹・キヨ)、妾腹の子を含めると3男10女計13人の子に恵まれた。長女は元衆議院議長石井光次郎に、三女は大隈重信の孫・信幸に、四女は元東京急行電鉄社長・五島昇に、八女は元スタンレー電気社長・北野隆興に嫁ぎ、九女と十女は米国人と結婚している。孫にシャンソン歌手石井好子と元東急建設社長の五島哲、スタンレー電気社長の北野隆典がおり、曾孫に詩人フランス文学者朝吹亮二が、玄孫に小説家で第144回芥川龍之介賞を受賞した朝吹真理子がいる。
 
 
 
 
1872年(明治5年)越後屋呉服店を三井の本流から切り離し、1876年(明治9年)三井銀行を創業。また同年に益田孝井上馨によって設立された先収会社・貿易会社を合併させ、三井物産を創設した。政府は1880年(明治13年)頃から官営工場を三井や三菱などに安く払い下げた。そのため紡績業などが盛んになり、日本の産業革命を担う事になる。三井の転機は、明治十四年の政変で下野した慶應義塾出身者が多数経営に関わったところである[3]。旧来商業派の益田孝に対し、工業派の中上川彦次郎によって『家』から『企業』に変革した三井は、不良債権問題に立ち至った三井銀行の建て直しをはかり、私鉄経営にも意欲を見せた(山陽鉄道箕面有馬電気軌道)。1893年(明治26年)には三井鉱山が設立され、1909年(明治42年)三井家の出資により持株会社・三井合名が設立され、参加の中核企業を有限会社から株式会社へ移行した。第一次世界大戦の好景気で産業が伸びていくさなか、財閥批判により團琢磨血盟団員によって暗殺される。財閥攻撃の嵐の中で三井財閥を防衛し、その改革を託された池田成彬は、大胆な財閥転向施策により、紆余曲折を経験しながら日本最大の財閥へ拡大する。また、政界にも多くの幹部を送り込み、立憲政友会は三井財閥が、立憲民政党三菱財閥が資金をまかなっていた
 
 
 
 
 
2012年12月20日木曜日
 
 
そう考えると、後者(民政党系=三菱)のバックには恐らくオバマ米政権が控えているのだろう。

各保守系政党に散らばる政友会系(三井系)勢力は今後、オバマ米政権によって排除されて行くのではないかと俺は睨んでいる。維新の会の党首となった石原慎太郎の立ち居地については今のところ明確ではないが、もしかしたら民政党系(三菱系)勢力から送り込まれたスパイなのかも知れない。

とは言え、此れも所詮は“三井と三菱のプロレス”に過ぎないのだけどな
 
 
 
 
期日本IPRを背負ったのは日本近代資本主義の父・渋沢栄一
(評議委員会会長)、井上準之介(初代理事長)、そして新渡戸稲
造(二代目理事長)である。その発祥にYMCAの存在があったこ
ともあり、活動の中心は新渡戸の一高時代に影響を受けた新渡戸人
脈の高木八尺(一時クエーカー)、前田多門(聖公会からクエーカ
ー)、鶴見祐輔(晩年クエーカー)、高柳賢三、那須皓らに委ねら
れることになる。

 樺山愛輔も第3回京都会議に参加しており、樺山の弟子とも言え
る松本重治や牛場友彦、樺山の女婿の白州次郎がIPRに送りこま
れた。IPRは新渡戸、渋沢、樺山の弟子達の集会場所のような存
在となっていた。
 
 
樺山も満州事変直後に険悪となった日米関係の修正を図るべく渡
米、訪問先には米国エスタブリッシュメントが一同に集まるボヘミ
アン・クラブも含まれていた。また、グルーを通じて米国金融史に
輝かしい実績を残したモルガン家とつながる。グルー自身がモルガ
ン家と姻戚関係があり、グルーの妻アリスの大叔父は黒船を率いて
来航したペリー提督にあたる
。しかも、井上準之助亡き後、モルガ
ン家が築いたJ・P・モルガンの社史に残る名会長として知られる
トマス・ラモントとの親交を引き継いだのも樺山であり、戦後樺山
の長男である丑二はモルガン銀行東京支店顧問に就任している。
 
 
樺山の人脈はロックフェラー家にも及ぶ。樺山は薩摩の松方正義
の孫にあたる松本が携わった国際文化会館事業を通じてジョン・D
・ロックフェラー三世と親密な関係になる。松本とロックフェラー
三世はIPRで出会う。そもそもIPRはロックフェラー財団がス
ポンサーとして名を連ねており、その意味ではロックフェラー家が
今なお深く関与するトライラテラル・コミッションやウィリアムズ
バーグ会議の前身とも言える。このロックフェラー三世人脈は後に
吉田茂へも引き継がれることになる。
この日本IPRのメンバーは近衛文麿のブレーンにもなっていた
が、近衛自身も新渡戸の講演を聞いて非常に感激し、一高入学を決
心したという裏話も残されている。そして近衛の最期に立ち会った
のも彼らだった。
このIPRにはコミンテルン工作員や共産党員も暗喩し、米国I
PRの容共・ラディカル・グループが対日非難を繰り広げていた。
このグループの存在がマッカーシー旋風に巻き込まれる原因となり、
IPRは解散へと追い込まれることになる。
 
 

■クエーカーと象徴天皇制をめぐる因縁(3)

 そして、彼らは大洪水の中から「象徴」によって昭和天皇を救い
出した。これこそ最大の功績である。日本国憲法における象徴天皇
制への新渡戸の影響はもはや疑いようがない。確かに諸説あるが、
すでに研究者の間では「象徴」が新渡戸の英文著作『武士道』もし
くは『日本』に依拠していたとする説が有力になっている。

 
(引用終わり)

 
 
 
 
 

 引用 松本重治 ジョン・ケズウィック など 

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(引用開始)
 
 
 
アメリカ研究の泰斗高木八尺を生涯の師と仰ぎ、戦後は国際文化交流のプログラムと世界的な知識人達を招待する民間の知的交流機関を運営。会館に一生を捧げた彼は自らを「宿屋のオヤジ」と呼び、趣味のパイプを咥えた姿で世界中のブレインの信用を集めた。親日派とされた歴史家のアーノルド・J・トインビーロックフェラー財団ジョン・ロックフェラー3世は松本を無二の親友とよび、会館の運営に協力している。文化交流と若者の道を拓くためフルブライト委員会やユネスコ国内委員会の委員、国立西洋美術館評議員にもなったが、吉田茂鳩山一郎池田勇人からの、駐米大使、駐英大使、国連大使の公職は断っている
 
坊ちゃん気質で、会った人間の人柄で惚れる(反面、嫌う癖もある)為に、戦前は近衛文麿に協力している。近衛自身が心ならずも周囲の波に押し流される時でさえ、この友情だけは動かなかった。中国の要人・ジャーナリスト・学者との深い交流を持ち、この事が西安事件の独占スクープとして世界を激震させる要因となる。1930年の京都における第3回太平洋会議以来、新渡戸稲造の薫陶を受けていた。
 
本業では里見甫を手伝い満州国通信社の設立に貢献した帰りに川島芳子を見かけている。また、後に「ロイター」の社長となる中国支配人クリストファー・チャンセラー(Christopher Chancellor)とはライバルであり友人であった。チャンセラーやジャーディン・マセソン商会当主のジョン・ケズウィックらの人脈[2]により日本人が入れなかった「上海クラブ」に加入、クラブとして親米派の最長老の樺山愛輔(○)を招待して樺山に誉められている。
 
 
 
 
松本は『上海時代』(中公文庫)や『われらの生涯のなかの中国』(みすず書房)で、原爆をも視野に入れた満州爆撃を止めさせたのは19世紀にアヘン貿易で巨大な富を築いた香港の英国系大財閥ジャーディン・マセソンのオーナー一族の一人、ジョン・ケズウィックだと書いている。ジョン・ケズウィックが満州爆 撃の中止を求めて当時のクレメント・アトリー英首相(労働党)をワシントンに飛ばせた。そして、この事実はジョン・ケズウィック自身も認めていたと書いて いる。

 ジョン・ケズウィックはその理由として「中国人民がこれ以上の戦禍に巻き込まれることは堪えられなかった」としているが、明らかにビジネス上の計算があったはずだ。従って、マッカーサーを間接的に解任に追い込んだのはジョン・ケズウィックだったということになる。

 ケズウィック・ファミリーと日本との繋がりも深い。長州ファイブを支援したのもジョンの祖父・ウィリアム・ケズウィックだった。松本は共同通信の前身で ある同盟通信上海支局長時代にまたデービッド、トーニー、それにジョンのケズウィック3兄弟と出会い、このジャーディン・マセソン人脈を頼りに英国紳士が集う「上海クラブ」に入会する。松本の招きでこの上海クラブのゲストとして優遇されたのが樺山愛輔であった。松本はケズウィック3兄弟の親友となり戦後も その親密な関係は続いた。

 このジョン・ケズウィックはビジネスマン以外にもう一つの顔を持っていた。英国が中国に送りこんだ工作員だったのである。すでに紹介した英国特殊作戦執 行部(SOE)の中国での活動指揮にあたっていたのがジョン・ケズウィックだった。そして、ジョンはコミンテルンや中国共産党、それに満鉄調査部の工作員も出入りしていた国際問題研究所(IIS)とその下部部門の資源調査研究所(RII)を活用して、巨大なスパイ網を掌握した。さらに42(昭和17)年に独立した連絡事務局を設置し、自由フランス代表団や内務人民委員部(NKVD、KGBの前身)、米戦略事務局(OSS、CIAの前身)、インド方面軍司令 部から送りこまれた英国各機関との関係を密にしている(『日・米・英「諜報機関」の太平洋戦争』リチャード・オルドリッチ・光文社)。このスパイ活動の目 的は日本と戦う中国をどうやって援助できるかであった。

 松本がジョンの裏の顔を知っていたのかどうかは不明であるが、二人の間で極めて深刻な情報のやりとりが行われていた可能性が高い。このジャーディン・マ セソン人脈の中に吉田茂もいた。むしろ、吉田こそがその元祖と言える。吉田の養父である吉田健三はジャーディン・マセソンの横浜支店支配人であった。ただ し、ケズウィック3兄弟を吉田に結び付けたのは松本である。吉田が戦後初めて訪英した際、松本がケズウィック兄弟を通じてお膳立てしていたのである。

 
■靖国神社をめぐる因縁(1)

 結局戦争を回避できなかったのは戦前期の(太平洋問題調査会(IPR)などに集う日本の自由主義者グループが非力だったのである。『日米関係史3』(東 京大学出版会)に収められている『国際主義団体の役割』と題する論文には「自由主義的民間団体の敗北は、組織的に行動し得なかった自由主義者の政治行動の敗北でもあった。」と結んでいる。この論文の筆者は国連難民高等弁務官として世界的に名を馳せた緒方貞子(現国際協力機構理事長)である。

 緒方貞子はIPRのロックフェラー人脈を受け継ぐトライラテラル・コミッション(TC)のアジア太平洋委員会委員を務め、その夫・緒方四十郎がアジア太 平洋委員会副委員長を務める。グローバリストが集うTCには富田メモを掲載した日本経済新聞社の専務取締役や論説主幹を務めた小島明も委員として名を連ね ている。従って、富田メモの公開が、日米間、日中間の摩擦回避に向けたグローバリスト達の組織的な政治行動であったとする見方も成り立つ。

 今や緒方貞子は麻生太郎やTCの小林陽太郎・アジア太平洋委員会委員長とともに日本のカトリック人脈の代表格である。靖国神社とカトリックとの関係は、 特に『諸君!』を中心に右派系言論誌で今や大流行で、長州系宮中グループの血を引く安倍晋三も『美しい国へ』で軽々しく取り上げている。

 当時マッカーサーは軍の意向や米国プロテスタント側の考えから靖国神社を廃止する計画だった。マッカーサーは意見を聞くためにカトリックのブルーノ・ ビッター(ビッテル)神父(当時駐日ローマ法王庁代表、バチカン公使代理)とメリノール会のパトリック・バーン神父を招いた。

 
■自民党をめぐる因縁

 「近衛上奏文」によって反戦信任状を手にした薩摩系宮中グループは、「反ソ・反共」が追い風となって米国との強い絆を生みだした。首相の座についた吉田 茂は、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約を締結、米国と二人三脚で「経済優先、日米安保重視、軽武装、改憲先延ばし」を軸にした吉田ドクトリン を掲げて、保守本流として揺るぎない地位を築いて行く。しかし、この吉田ドクトリンは、皮肉にも自らも関与した「昭和天皇=平和主義者工作」を通じて生み落とされた憲法九条によって、その限界も明らかになる。

 この吉田の限界を見抜いた岸信介も不死鳥の如く復活する。A級戦犯容疑を解かれた岸は、満州人脈や巣鴨人脈を再結集させ、仕返しとばかりに吉田一派を「ポツダム体制派」とするレッテル貼りを行い、鳩山一郎と共に反吉田旋風を巻き起こす。「政治優先、対米自立、再軍備、自主憲法制定」を柱とする岸ドクト リンを掲げた。 

 岸は防共協定の日独を打倒した米国に対する不信感を抱きつつも、吉田の元祖「反ソ・反共」に対抗するために、後に反共から勝共へと発展させていく。米ソ冷戦を利用することで、日本の真の独立を勝ち取ろうとしたのである。

 しかし、岸政権も日米安保条約改定は成し遂げたものの、結果として見れば、素振りだけで自主憲法制定はおろか憲法改正までも見送った。狸と狐の騙し合いによって憲法九条を楯にする戦略が今まで受け継がれてきたのである。

 
 岸も国内経済の再建を重視せざるを得ず、軍事費と軍備水準を飛躍させようとはしなかった。満州に端を発する社会主義的な官僚統制経済システムによって日 本株式会社を完成させたかに見えるが、吉田の経済復興路線の継承の上で成立し得たものである。現実に直面した岸ドクトリンはやがて吉田ドクトリン化してい く。その評価は長く保守傍流に追いやられた。

 この岸が一年生代議士時代に反吉田勢力の同志40名を虎の門「晩翠軒」に集めたことがある。これが後の岸派の母体になった。保守合同前に鳩山一郎と岸が中心となって結成された日本民主党には晩翠軒メンバーも参加している。その一人が小泉純也、つまり小泉純一郎の父である。薩摩出身でありながら岸に合流し た小泉純也の異端ぶりは、その息子にも引き継がれた。

 保守本流を自負した宏池会は、池田、大平、鈴木、宮沢と4人の首相を輩出してきたが、加藤の乱を経て現在は丹羽・古賀派、谷垣派(谷垣禎一)、河野派 (麻生太郎)に分裂し、往時の勢いを失う。元祖「反ソ・反共」の吉田がまいた種から飛び出てきたのは意外にもハトだった。弱ったハトによってバランスを欠いた中で登場したのが小泉である。

 この小泉が掲げた改革路線も実は原点回帰に過ぎない。宮崎正義が描き、岸が満州国総務庁次長として満州国という実験場で実行に移した「満州産業開発5か年計画」も「小さな政府」を目指した行政機構の抜本的な改革であった。内閣の規模を三分の一に縮小しつつ、中央集権体制の中心機構として総務庁が新設され る。その下で経済各部門の国家管理を提唱した。

 「官から民へ」も行政機構の大改革となった中央省庁再編で旧自治省、旧郵政省、旧総務庁が一緒になった総務省などの巨大官庁が誕生、その下で中央集権体制を維持したまま小泉改革が実行される。郵政も含めてそもそも完全な民営化などできるはずがない。
 
(引用終わり)

責任を回避するプロ

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御来訪ありがとうございます。
 
(引用は 管理人コメントは青)
 
 
● ファシズムは平等
 
 これは、たまたま読んでいた、橋本治さんの「90s ナインティーンズ」に出て きた言葉です。
 
 「ファシズムって、平等なんですよ。独裁者以外は、全部平等。
 みんな平等に弱いのね」
 
 こんなのもありました。
 
 「共産主義って、全体主義なんですよ」
 
 
 
 
 ファシズムというと独裁者 ヒットラーとか思い浮かべますけど、その
 「独裁者」のところに 「共産党」を入れれば、立派に 共産主義もファシズム になる。
 
 中国の、「地方での毛沢東回帰の動き」のニュースをやっていて笑いました。
 
   
 「毛沢東時代は、貧乏だったが、みんな等しく貧乏で、今のような格差は
  なかった」
 
  だそうです。(苦笑)
 
 
  ワーキングプアより、生活保護が高い。
  年金より、生活保護が高い。
 
  とかで、煽られて、公務員などの共済年金の上乗せはそのまんまで一元化  されないことなんてスルーされちゃう どこかの国もおんなじで、 「見える平  等、身近な平等」を求めちゃうわけですね。
 
 
 
 ひとつの枠組み(国とか、地域とか、会社でもなんでも)の中で その構成要員 の多くが支持しちゃうような 「何か」があり、それを押さえれば、その枠組み 全体が、支配できる。
 
 
 いろんな「国」という枠組みで、見えない「全体主義」を作り出してしまうのが
 国をコマとして使うほうにとっては 楽なんでしょう。
 
 
 そして、ロシア、中国という地域で、「共産主義」が「独裁者」として使われたの は、「効率の良さ」でしょうね。
 
 ロシアも、中国も 「強い皇帝」の国でした。恐怖で支配する。 ロシアにはギ リシャ正教もある。
 
 国土も広い。
 
 そういうところは、イズムを浸透させて「平等幻想を煽って支持者を増やして
 自国内で、革命を起こしてもらって、「強権で、何もかも国有化してもらって
 おいしいところだけタダ同然で、払い下げしてもらう」方が、手っ取り早い。
 
 
 そうして、二極化をクローズアップして(アカ狩りとか。。) 軍事費を膨らませ
 代理戦争をさせるみたいな感じだったのかな?
 
 
 だから、昭和天皇の体制を続けると決めていた人達が 「反共」であったのも
 少しも矛盾しないし、GHQ民生局が、「共産主義者」とか言われることも少しも 矛盾しない。
 
 結果、どういう形が、乗っ取る時に、その地域の多数を納得させやすく、さら に、「仕掛けているほうの正体を隠してくれるか」の違いに過ぎないわけです。
 
 日本の場合は、「民主主義」でも、充分、「全体主義」が作れるはず。
 
 だって、国民は12歳だし。。(苦笑) 権利の乗っ取りは簡単。
 
 反共の砦に調度いいけど、平和憲法で、軍事に参加できなくした。
 
 「虚空と君の間に」の方が
 
 
 政治はロックフェラー
 
 経済はロスチャイルド
 
 とお書きになっているのがなんとなくうなずけます。
 
 護送船団で、経済やっている中国も、そうなんでしょうかね?
 
 
 
 
 
● 裂けていたのは支持者の願望
 
 
 
 
首相の座についた吉田 茂は、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約を締結、米国と二人三脚で「経済優先、日米安保重視、軽武装、改憲先延ばし」を軸にした吉田ドクトリン を掲げて、保守本流として揺るぎない地位を築いて行く。しかし、この吉田ドクトリンは、皮肉にも自らも関与した「昭和天皇=平和主義者工作」を通じて生み落とされた憲法九条によって、その限界も明らかになる。

 この吉田の限界を見抜いた岸信介も不死鳥の如く復活する。A級戦犯容疑を解かれた岸は、満州人脈や巣鴨人脈を再結集させ、仕返しとばかりに吉田一派を「ポツダム体制派」とするレッテル貼りを行い、鳩山一郎と共に反吉田旋風を巻き起こす。「政治優先、対米自立、再軍備、自主憲法制定」を柱とする岸ドクト リンを掲げた。 

 岸は防共協定の日独を打倒した米国に対する不信感を抱きつつも、吉田の元祖「反ソ・反共」に対抗するために、後に反共から勝共へと発展させていく
 
 
 孫崎享さんの本でも、吉田茂は 「従米」 岸は「反米」みたいに出て来ま  す。
 
 しかし、それは、片面でしかないように思えます。
 
 むしろ岸さんの方は、今のブレジンスキーなどが提唱する 米国の軍事の
 アウトソーシング先としての日本 という観点に近い気がする。
 
 戦前に、ソ連に繋がっていたとしても、その共産主義には、英米も援助してい たのですから、思想的な対立じゃない。
 
 一方、吉田茂の方も 米英の繋がっていたという話でしたが、双方が
 CIAを 作ろうとするほうの 「国より上」に繋がっていて、それをふまえて
 どうするか?になっていたのだと思います。 
 
 
吉田茂の前に 緒方竹虎という人がいるんですが 皇族にお出まし願って東久邇宮内閣を作るんですが、この内閣、GHQに 内務省解体を命じられて 抗議して総辞職しちゃうんですね。 重光葵とかもこの内閣の人なんですが、緒方竹虎の持論は、「憲法改正」「二大政党制」だったんだそうで、孫崎さんの
本でも重光葵は、「対米自立派」として出てくる。緒方は、保守合同のあと、
急死しています。
 
 
対米自立派というけれど、何のために自立するかというと、けっこう自分たちのためだったりするんじゃないか? 天皇制を守ると言いながら、ホントは、天皇に近いということで持っていた自分たちの既得権を守ることの方が大事だったんじゃないでしょうか?
 
白洲次郎は、民生局(共産主義者といわれる人たち)を、謀略をしかけてまで
追い出したようですが、共産主義は、「共産党以外は平等」なんですからそれまでの既得権は、雲散霧消します。
 
吉田茂や、白洲次郎がNHKで、礼賛されちゃうのもそのあたりを守ったから
かもしれません。
 
 
岸の日米安保の学生運動のとき、学生に資金援助をしていた人たちがいるというのを読みましたが、その辺の人たちじゃないのかな?
 
吉田茂は、天皇への通訳を、「統治機構を変える」をそのまま通訳しないよう な人を送るなどして、「官僚体制」を守ります。
 
また、その官僚体制とつながった、財閥解体も、徹底的にやらない方が
 商売がしやすいという欧米企業の話もあったようです。
 
米国のバックキャッチャーにならない。
 
韓国にアイゼンベルグさんを入れない。
 
CIAにも、アメリカ政府にもこういうことを許す人達がいたわけです。
 
 
 
岸さんは、官僚でありながら、満州派で、交差点のような人なんですね。
 
 
 
今は、さきの選挙のときに 「日の丸」が並んだ不気味な応援を見ればわかるように 「憲法改正、再軍備、自立」というのは、軍産複合体の一の子分になる
こととイコールになっているから、ネトウヨは決して、米国の悪口は言わない。
 
 
一方、対米従属といわれる方達がいます。
 
思い浮かんだのは、国会議員が亡くなって、息子は全然乗り気でないのに、後援会が、「出てくれなければ困る」といって、立候補させちゃうハナシです。
 
 前の安倍内閣のときの絆創膏大臣がそうだったということです(笑)
 
 
後援会の人たちにとっては、自分たちが地元で、大きな顔ができるのは、センセイと繋がっているおかげで、センセイが、別の系統になってしまったら大きな顔ができなくなる。だから、本人の意思も適正もあったもんじゃないです。
 
 
それと同じで、アメリカと繋がっているのは、自分たちだけ という過去の遺物を既得権にしている人たちは、表向きでも 独立っぽくなっては困るのですね。
 
 
 で、安部政権の、というか、野田政権から 明確に
 
 「日米同盟の深化。 尖閣は日米安保の範囲(ただし島嶼部は日本で守る。実効支配されたら、もう助けない。)」 
 
最近では、日中の問題は、米国に悪影響を及ぼす。。」(爆笑)
 
 
つまり、対米従属派と、自立派(両方お題目ですが) 双方の顔が立つように手を打っちゃった。
 
 TPP反対を掲げて選挙に勝った自民党を 批判しながらも、その土着体質と
 不正選挙によって得た大勝で、TPPをかわしてくれるのではないか?
 
 と、期待した支持者もいたように思いますが、そんな根性あるわけないですよ ね。
 
 
 裂けていたのは、支持者の期待だったんですね。
 
 
 麻生さんは竹中が嫌いというのも、単なる手柄を取られたくないだったかもし れないし、小泉、竹中の時は、国会議員はもちろん、一部の官僚まで、締め 出して 郵政民営化法案を作ってしまった。 そういうやり方が、官僚の取り  分を減らすことから、竹中が嫌いなのかもしれません。
 
 先日、竹中氏がいる産業ナントカ会議で、参加委員が多すぎてまとまらない
 とかいう週刊誌を読みましたが、今度は、官僚が自分たちの利益を守れるよ うにしているのでしょう。
 
 
 もっとも、郵便事業を取り返し、55歳以上は昇給なし (ただし、短期間公務員になった者には、退職金を出す)法案が通ったので、 アメリカのように企業と公務員を行ったり来たりしてそのたびに退職金を貰って、55歳より前に、
 「能力を買われて」(苦笑) 民間企業に天下りするんでしょう。
 
 
 アイゼンベルグさんが、憎んでいるという官僚障壁。
 それを明け渡しても、大丈夫というところまで、官僚は体制を整えたのです。
 
 
 
 
● 銀行屋と戦争屋
 
 今まで、銀行屋さんの方は、戦争以上に儲かることを提示できれば
 戦争屋より交渉の余地はあるかも?つまり軍事費をふくらませてご機嫌をと りながら戦闘は、よそでやってもらう 。。
 他国がやっていることですよね。 
 なんて考えていましたが、
 
 
2013年03月03日
 
   
 2013年03月15日
  
 
 2013年03月17日
  
こういうのを読んじゃうと、どうしよーか と、途方にくれますね。
 
オバマの左は、大統領の権力
 
 
なるほど、合衆国大統領は、暗殺されたり、急死するわけですね。
 
 軍拡がエスカレートして、放射能を出すものが不可避となり、商売と、エネルギーで縛ることと、脅しも兼ねて、原発を売りまくるみたいですけど、そうやって
地球を汚し続けて望みどおり人口は減ったとしても、いつかは自分たちの子孫にも健康被害は及ぶと、思わないんでしょうか?
 
 他国の過去の失敗が伝わらないように、自分たちが誰なのか伝わらないように、ネットを制限、世界中を監視するとしても、地球の汚れは落とせない。
 
 その近視眼に、驚きます。
 
 
 
 
●責任回避のプロ
 
 
冒頭に上げた橋本治さんの「90s ナインティーンズの巻末には、傑作な年表が出て来ます。
 
 ユダヤ人は、今まで何回も迫害を受けていますが、その追い出される時の文 章がいつも同じなのです。
 
 
「ユダヤ人が、泣き叫ぶ子どもとわずかばかりの荷物を持って、〇〇を追われる」
 
 
 世界地図と、マーケットを眺めて、次はどこで戦争を起こしてやろうと
 考えて相談している人たちは、責任を追及されて、あるいは押し付けられて
 再び、〇〇を追われることを何よりも恐れているように思います。
 
 
 しかし、イスラエル建国にしろ、ホロコーストにしろ、同じ民族を、同じ目にあ  わせたのです。
 
 他の民族なんて、誠天調書様の言う 「蟲」以下なんでしょう。
 
 
 
 まあ、「一寸の虫にも五分の魂」です。
 
 
 
まだまだ、調べたりませんし、認識も不足していると思いますが、管理人なりに
過去とのつながりが、自分では、納得できるカタチにはなりました。
 
 勘違い、知識不足、理解不足なところをご指摘いただくと嬉しいです。
 
 なにしろ、本百冊分のご意見を、見られるのがネットの良さなのですから。。
 
 
御来訪ありがとうございました。
 

グローリー NTTジェトロニクス オリベッティ

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御来訪ありがとうございます。
 
velvetmorning blogさまが、ムサシとともに不正選挙にかかわったと思われる グローリーについて調べてくださいました。
 
(引用開始)
 
 
グローリー、ムサシよりも、あるいは、もっと大物かもしれません。。
 
 
 
 
しかし、調べてみると、ものすごく狭い人脈で全てが決定されていく現実が見えてきますね。
 
 
 
株式会社 NTTデータ関西
グローリー
スーパーのレジつり銭機や銀行の両替機、街角のたばこ販売機やコインロッカーなど、グローリー株式会社様は、お金を主体とした物や情報を正確かつ高速に認識・識別する製品の開発・販売・アフターサービスを一貫して行う、世界でも類まれなオンリー・ワン企業です。
 
 
 
 
グローリーの大株主/役員
 
 
 
(引用終わり)
 
牛尾さんという役員がいたり。。NTTとも関連が深いようです。
 
内容は読んでいただくとして、私は検索に引っ掛かった会社に興味を持ちました。
 
(引用開始)
 
 
 
エヌ・ティ・ティ・データ・ジェトロニクス株式会社(NTTデータ ジェトロニクス、NTT DATA Getronics Corporation)は、東京都千代田区にある、日本のシステムインテグレータ。1961年に伊オリベッティ社の22番目の同系会社として設立され、現在ではNTTデータジェトロニクス社の傘下に入っている外資系企業である。
 
 
 
パートナーアライアンス
 

ソリューション

ソフトウェア

ソフトウェア&ハードウェア

ハードウェア

通信キャリア

 
 
プレスリリース
2012年11月21日
NTTデータ ジェトロニクス、新日銀ネットに対応する日銀ネットCPU接続ゲートウェイ「B-FEP7.0」(ビーフェップ7.0)を販売開始
 
(引用終わり)
 
日銀、いっちゃうそうです。。
 
オリベッティといえば。。
 
 
(引用はじめ)
 
 
大戦後、イタリアの自動車メーカーであるフィアットの再建に尽力した。1964年、請われてオリベッティ社の会長に就任した。
1970年ローマクラブを設立、初代会長となる。
 
二十一世紀への警鐘(池田大作と共著、読売新聞社1984年
 
 
 
 
 
2007-09-23
 
ローマクラブ(※後述)の創始者アウレリオ・ペッチェイが
「人間は虫のようなもの。あまりにも増えすぎる」
と、1982年にパリの会議で発言しました。
この人は、一見紳士で、そんなことを考えているようにまったく感じられない人物です。

ビルダーバーグ・グループの初代会長のプリンス・バーナードも、そんな「闇の権力」に関わっている気配は微塵も感じられません。

イギリスの哲学者であり平和運動家として知られるバートランド・ラッセルは、良識派とみなされていますが、実は闇の世界で高い地位にある人物で、人口削減案の推進論者です。

彼が戦争に反対の立場を示していたのは、単に方法として戦争より人工的な感染症(伝染病)のほうが望ましいと考えていたから似すぎないといいます。
ビルダーバーグ・グループの戦略に基づいて、行動していたのです。

この他、文化人類学者のマーガレット・ミードやアメリカのマスコミ界で絶大な影響力を持っていたウォルター・リップマンなどもビルダーバーグ・グループ配下のタビストック研究所が送り込んだ人達です。

また、イギリスの経済学者マルサスは、その著書「人口論」で、
次のような論理を展開しています。

1,人間の存在には食糧が必要である
2,人間の情欲は不変である。
3,食糧は算術的にしか増加しないのに対し、人口は幾何級数的に増加する。
4,人口は絶えず食糧増加の限界を超えて増加する傾向がある。
5,このようにして増加した「絶対的過剰人口」は「貧困と悪徳」によって「積極的抑制」がなされるべきである。

つまり、マルサスはその名著「人口論」の中で、堂々と
「増加しすぎた人口は貧困などによって抑制されるべきだ」と論じているのです。
 
 
 
浮世風呂
 
「 地球温暖化CO2犯人説 」のシナリオライター
その名は、モーリス・ストロング。 アル・ゴアのボスとして、教師として環境保護の大合唱を演出したこの人物は、アウレリオ・ベッチェイ(フィアット、オリベッティ会長)と共にローマクラブの創設者1972年にローマクラブから発表された「 成長の限界 」で、石油は後20年で枯渇するとされ、オイルショック = 石油価格の暴騰となり、先進国は原子力発電へと一気に舵を取ることになる。まさに「 不都合な真実 」は『 成長の限界 vol,2 」とも云えそうだ。なんと云っても石油は20年で枯渇しなかったし、温暖化は二酸化炭素が原因ではなかったし、双方とも原発を煽る内容となってる。
モーリス・ストロングはカナダの石油王として「 成長の限界 」をリリースしたのである。同様にアル・ゴアはウラン・ビジネスに深く関わる立場で「 不都合な真実 」をリリースした。
 
モーリス・ストロングは、若き日からナチスの地政学を学び、 ナチスの「人口論」の研究者であった。1963年、ストロングは自己のナチス思想 = 人口理論を「教育・宣伝」する目的で、アメリカのハーバード大学に人口研究センターを創設し、そこで適時、教鞭を取る様になる。このハーバードの「 弟子 」が、アル・ゴアだった。
 
 
 
アル・ゴアの長女:カレナ・ゴアは、このクーン・ローブの経営者ジェイコブ・シフの曾孫アンドルー・シフと、結婚。  アル・ゴアの環境保護の「自己宣伝」=ノーベル賞を「買い取った工作資金」、そして環境保護ギャンブル投機会社の経営資金も、クーン・ローブから出ている。

ちなみに、このクーン・ローブ商会の現在の社名を、リーマン・ブラザーズと云う。
って、これも消えてしまって、大半の残滓は野村証券が抱え込んだが、主力精鋭部隊は、ブラックウォーターと云う新しい投機ファンド会社を設立してそちらに移動している。
傭兵殺人会社のブラックストーンに、金融ロケット詐欺工学会社のブラックウォーター。
よく出来たジョークである。
 
 
 
 
2004年11月、ロンドンに「ジェネレーション・インベストメント・マネージメント」という名の投資ファンド会社が設立された。
この投資ファンドは「排出権ビジネス」への投資が目的だが、この投資ファンド会社は元アメリカ合衆国副大統領アル・ゴア氏とゴールドマン・サックス系企業の経営者だったD・ブラッドが組んで設立したものだという「噂」がある…。
 
(引用終わり)
 
 
知らなかった。。
 
 ゴールドマン リーマンブラザース ローマクラブ 創価学会 。。。
 
 
 個人的にすごくウケてしまったのがこれ
 
  ↓
 
 
(引用開始)
 
NTTデータジェトロニクス
2013年2月14日
AMLコンファレンス2013 -改正犯罪収益移転防止法施行に向けて-
 
AML(アンチマネーロンダリング)における今後の取り組みの一助としていただくべく、関係当局、アカデミズム、金融機関、コンサルティング、ITベンダー等の各界からの識者を招いて開催する本コンファレンスに協賛します。
当日は、AMLソリューション「Oculus®」の使い方などをよりわかりやすくデモンストレーションを交えてご紹介します。
 
(引用終わり)
 
マネロンの極意は、まずマネロンをさせない方法を熟知してから。。
って、ことなんですかね。
 
 
御来訪ありがとうございました。
 
 
 
 
 

グローリー NTT AT&T バンクオブアメリカ 

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御来訪ありがとうございます。
 
グローリー NTTジェトロニクス オリベッティ
 
選挙不正に関連していそうなグローリーが、NTTと 一緒にお仕事をしているのはわかりました。
 
(引用開始)
 
環境保護運動家の欺瞞を、優生学(人種問題)と「持続可能開発」(資源問題)の文脈で暴く
 
 
「バカとバカを掛け合わせて、アホウを大量生産する」のではなく、優秀な人類を作ることが目的であった。優生学は優秀と云う定義も遺伝的根拠もないままに、イデオロギーとして人種差別へ向った。これを「積極的優生学」という。1927年「優生学協会」をつくり、1989年には「ゴールトン研究所」に名前を変えた。これに対してダーウインの息子でレオナルド・ダーウインは弱者が子供を生む事を禁止する「消極的優生学」を唱えた。
貧民街で看護師として働いた女性解放運動家マーガレット・サンガーはアメリカバースコントロール連盟と国連家族計画IPPFを設立し、貧困者の原因は劣勢遺伝にあると確信し、非健康者には子供を生ませない運動をおこなった。スウェーデンでは1935年人種選択法が生まれ、強制断種がおこなわれ、米国では1924年移民制限法が施行された。
ナチスは優生学的実験を行いユダヤ人虐殺を大々的に実施した。第2次世界大戦終了まで世界は人種ヒステリー状態であった。これだけ人(非戦闘員)を殺した時代は無かった。戦後には優生学とナチズムとのつながりを隠すため、彼らは沈黙した。
そこで「優生学秘匿作戦」が「優秀な頭脳」で考えられた。
「人々にあなたは遺伝的に劣っていると云うのは止めよう。本人には気が付かないように自発的淘汰システムを構築しよう」と云うものだった。
 
「本人は気が付かないように自発的淘汰システム」とは「選択の自由」という耳に心地よい言葉をあみだした。「子供の数を少なくしたら、良い生活ができますよ。どうするかはあなたの選択の自由です」。こういう考えは戦後の日本の生活を一貫して流れている。そしてその効果として2006年より日本は人口減少社会に突入した。1952年サンガー女史を会長として国連家族計画IPPFが発足し、経口避妊薬と避妊器具開発、宣伝活動をおこなっている。IPPFや人口会議には旧優生学協会の役員がそのまま黙って設立者になっている。資金提供者にはロックフェラー、フォード、メロン、デュポン、スタンダード石油、シェル財閥が優生学協会の時と同じく入っている。
 
 
 
 
 
ベルはアメリカでの優生学運動とも関わりがある。1883年11月13日、米国科学アカデミーMemoir upon the formation of a deaf variety of the human raceと題した講演を行い、その中で両親が先天的に聾者だった場合に聾者の子が生まれる可能性が高いので、そのような婚姻は避けるべきだと提唱した[138]。それとは別に家畜の繁殖を趣味として行っており、それが高じて American Breeders Associationの保護下にあった生物学者デイビッド・スター・ジョーダンの優生学委員会の委員に任命された。この委員会は明らかに優生学をヒトにも拡張適用した[139]。1912年から1918年まで、ニューヨークのコールド・スプリング・ハーバー研究所の優生記録所の科学諮問委員会委員長を務め、定期会合に出席していた。1921年、アメリカ自然史博物館が後援した第2回国際優生学会議の名誉議長を務めた。これらの組織はベルが「不完全な人種」と呼んだ人々の断種を法律化することを提案した(一部の州では実際に法律になった)。1930年代後半にはアメリカの半分の州が優生学的な法律を持っており、カリフォルニア州のそれはナチス・ドイツが手本にしたほどだった
 
 
  
 
良レス奉行【20090918】
 
そそ、ホロコーストというユダヤ人に出て行っていただく政策をした人なわけで、グラントリアン=フランス系メーソン=ロスチャイルド側である。
 
 
ガイドライン
ロスチャイルド系
企業 コカコーラ ルノー フィリップス デュポン AT&T ロッキード
石油 ロイヤル・ダッチ・シェル BP
銀行 ロスチャイルド銀行 (ロンドン・パリ・チューリッヒ)
  モカッタ・ゴールドシュミット銀行(英国)
  クレディ・スイス(スイス)
  J・P・モルガン
証券 ゴールドマン・サックス
保険 ロイズ保険(英国)
マスコミ ロイター通信 ニューヨークタイムズ ワシントンポスト
 
 
なわけです
 
 
ね、ホロコーストが、アシュケを中心としたユダヤをユダヤ人が追い出したって言うのも、理解できるでしょ?
で、アシュケ追放→上海で、アシュケとくっ付いてたのが、当時の旧日本軍の陸軍です。
戦後のロスチャの都合のいいように裁判では、「海軍=善」「陸軍=悪」という論調になるわけです。
 
 
早稲田社会科学総合研究 第7巻第2号(2006年12月)
冷戦のメディア、日本テレビ放送網
一正カマイクロ。ウェ-ヴ網をめぐる
米国反共産主義外交。情報政策(3)
有馬 哲夫
 
 
このように吉田や電電公社がベル・システムにこだわったのは、電電公社自身も独自にベル・システムを使ったマイクロ・ウェ-ヴ網を計画していたので、二重投資を避けるという意味からも、それとの互換性を重祝したのだ。
しかし、正力は、この点に関しては、言葉を濁してベル・システムにすると明言しなかった。というよりできなかった。正カテレビ構想のときから日本テレビはホールステッドの設計したユニテルのマウンテントップ方式をとることを決めていたが、これは山脈の稜線に送信所を作って日本海と太平洋の両側の広範囲に電波を届けるというもので、人口密集地を縫うようにネットワークしようとする電電公社の考える低地方式とは異なっていた。
使用する機器の違いはもっと深刻で、ユニテルは電電公社が強くこだわったベル・システムではなく、軍事通信やレーダーや航空管制にも使うことを考えて、現に駐留アメリカ軍が使用しているフィルコとGEを採用することにしていた
 
 
 
 
関連会社であったクロスウェイブコミュニケーションズ及び同社の子会社会社更生手続開始による経営の悪化に伴う第三者割当増資によって、NTTグループが合計30%超を出資する株主となっている。
 
2010年9月1日 - AT&Tジャパンのネットワークアウトソーシングサービス事業をIIJに売却、IIJグローバルソリューションズとして子会社化
 
 
NTTとAT&Tが業務提携を発表
1999年4月28日
 
AT&Tは4月25日、英ブリティッシュ・テレコム(BT)と共に、日本テレコムへの出資を柱とする包括提携合意を発表したばかり。
 
 
 
 
ウォールストリートジャーナル
2011年 8月 15日
 AT&T、資産売却アドバイザー起用でTモバイルUSA買収に前進
 
バンカメメリルは最近、少なくとも6社との指名競争で勝ち残り、事業売却のアドバイザリー業務を獲得した
 
 
 
DMA米国ダイレクトマーケティング協会

 

 

 

 

DMAとは・・・
ニューヨークに本部を置くDMA(米国ダイレクトマーケティング協会)は、
1917年設立以来、世界のダイレクトマーケティングの中心として業界を牽引し続けてきました

ジェネラル・モータース、シティグループ、IBM、ファイザー製薬、
モルガン・スタンレー、
マイクロソフト、メリル・リンチ、ウォルト・ディズニー、AT&T、
アメリカン・エキスプレス、
フェデックス、ゼロックス、AARPなど、・・他多数。
 
 
 
AT&Tジャパン、NPO法人リビング・ドリームスの「デジタル・
ネイティブ・プロジェクト」を支援
~都内11カ所の児童養護施設をインターネットで接続し、
子どもたちにIT環境とデジタル体験を提供~
2009年6月16日
また、同プロジェクトには、その趣旨に賛同したバンクオブアメリカ・
メリルリンチ証券株式会社、デジタルアーツ株式会社、
フュージョン・システムズ・ジャパン株式会社も協力しています。
 
 
 
国民が知ったら? そりゃ怒るでしょうね」 財務省前事務次官 勝栄二郎
 
 
 
February 3rd 2013
 
勝栄二郎・前財務省事務次官がバンク・オブ・アメリカが新たに設置した
グローバル・アドバイザリー・カウンシルの委員に就任した。グローバル・
アドバイザリー・カウンシルは13名で構成され、バンク・オブ・アメリカのグローバル
事業の経営戦略について助言を行うという。選ばれた他のメンバーは、アルサード・
クウェート投資庁CEO、アーガス・元ナショナル・オーストラリア銀行CEO、
ハチソン前米国上院議員、ウェスティン・元ABCニュース社長などで、
3月初旬に香港で初の年次会合を開催するという。
 
 
 
補正予算500億
 
 
(引用終わり)
 
勝氏の1500億予算は、マイナンバーのためといわれています。
マイナンバーの目的が透けて見えましたね。
もちろん、優生思想だけでなく、DMという商売ですけど。
 
 ムサシ、グローリー、ゴールドマンサックス、NTT, AT&T 。。
御来訪ありがとうございました。

資料 我が国の核融合研究開発の現状について

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御来訪ありがとうございます。
難しくて、理解できないのですが、気になったところを引用します。
ぜひ、原文をご覧下さい。
 
少なくとも、あの大震災で、計画を見直すつもりは全くなかったようですね。
 
(引用開始)
 
我が国の核融合研究開発の現状について
平成24年4月10日
文部科学省研究開発局
研究開発戦略官付(核融合・原子力国際協力担当)
 
 
 
 
ITER(国際熱核融合実験炉)計画等の実施
 
平成24年度予算額: 9,335百万円
(うち復興特別会計: 4,189百万円)
(平成23年度当初予算額: 11,395百万円)
(平成23年度4次補正予算額: 12,182百万円
 
 
ITER計画
 
○協定:2007年10月24日発効
(建設期間中は脱退することはできない)
○参加極:日、欧、米、露、中、韓、印
○建設地:フランス・カダラッシュ
○核融合熱出力: 50万kW(発電実証はしない)
○ITER機構長:本島修氏(2010年7月28日就任)
○各極の費用分担(建設期):
欧州、 日本 、米国、 韓国、 中国、 ロシア、 インド
45.5%   9.1%  9.1%  9.1%  9.1%   9.1% 9.1%
○計画:35年間
運転開始:2020年(予定)
核融合反応:2027年(予定)

平成24年度予算額:51億円(54億円)
※平成23年度4次補正予算額:122億円
○ITER機構の分担金23億円(26億円)
○ITER機器の製作や試験、国内機関の活動、人員派遣等 28億円(28億円
 
 
 
幅広いアプローチ(BA)活動

○協定:2007年6月1日発効
○実施極:日、欧
○実施地:青森県六ヶ所村、茨城県那珂市
○総経費:920億円で半額は欧州が支出
(2005年5月時点で換算)
○計画:10年間
○実施プロジェクト
①国際核融合エネルギー研究センター
・原型炉設計・研究開発調整センター
・ITER遠隔実験センター
・核融合計算機シミュレーションセンター
②国際核融合材料照射施設の工学実証・工学設計活動
③サテライト・トカマク計画(予備実験等の実施によるITER支援
 
平成24年度予算額:42億円(60億円)
 
○国際核融合エネルギー研究センター12億円(16億円)
○国際核融合材料照射施設の工学実証・工学設計活動
5億円(8億円)
○サテライト・トカマク計画25億円(35億円)
 
 
 
日本が調達を担当する
主な機器製作のスケジュール
 
超伝導トロイダルコイル
炭素繊維複合材ダイバータ
遠隔保守機器
高周波加熱装置
 
2020年に初プラズマ (管理人注 予定)
 
 
TBM試験計画について
 
日本では、原子力機構を中心に固体増殖水冷却方式の検討を 進めている。2012年度より概念設計を開始し、2021年ITER 据付を目指す。
(各極の状況)

現在のTBM持込予定極: 欧州(2体)、中国、インド、日本。

韓国は1月に極としてTBM持込宣言し、次回TBM計画委員会 での承認を目指す。

米国は大学等で検討中であるが、極としてはTBM持込の意思 表明なし。

ロシアはTBM持込の予定なし。
 
 
 
 
IFERC事業(青森県六ヶ所村)
 
○六ヶ所村の国際核融合エネルギーセンターにおいて、
以下の研究活動を実施する。

原型炉概念設計に向けた研究活動
原型炉の共通概念を確立すべく、安全性等に関する検討を行う。

核融合計算機シミュレーションセンター
プラズマ挙動や材料開発等に関連するシミュレーションを行う。

ITER遠隔実験センター
ITERの実験条件の提案や実験データの収集、解析等を行う。

原型炉R&D(研究開発)活動
原型炉に関する以下の5つの研究開発を行う。

SiC/SiC複合材

トリチウム技術

原型炉ブランケット用材料工学

原型炉ブランケット用先進中性子増倍材

原型炉ブランケット用先進増殖材
ITER遠隔実験センター
ITER遠隔実験センター
原型炉設計、R&D調整セ
ンター
原型炉設計、R&D調整センター
核融合計算シミュレーショ
ンセンター
核融合計算シミュレーションセンター
IFERC Project
○欧州が調達した高性能計算機の本格運用を開始。
○日欧共同の原型炉設計作業を開始するとともに、5つのR&D活動も本格化
 
 
 
IFMIF/EVEDA事業(青森県六ヶ所村、茨城県大洗町)
 
○ターゲット系のリチウムループが完成するとともに、欧州で六ヶ所に搬入予定の加速器からのイオンビームの引き出しに成功するなど、各活動は順調に進捗
(ただし、リチウムループは震災で被災しており、復旧後に試験を開始する予定)
 
 
 
サテライト・トカマク事業(茨城県那珂市)
 

超伝導トカマク装置(サテライト・トカマク)を建設し、ITERの運転前に予備的実験を行ってITERでの効率的な運転に資するとともに、原型炉を建設する場合に必要な安全性、 信頼性、経済性の実証のため、様々な条件下で実験を実施する。
 
 
 
世界のヘリカル型核融合の研究開発の状況について
 
ドイツ
マックスプランク・プラズマ
物理研究所
ベンデルシュタイン
7-X装置(W7-X)
 
スペイン
エネルギー環境科学技術
センター
TJ-Ⅱ装置
 
オーストラリア
オーストラリア国立大学
H-1NFヘリアック装置
 
米国
ウィスコンシン大学
HSX装置
 
 
世界のレーザー核融合の開発状況について
 
米国
ローレンスリバモア国立研究所
( LLNL )
国立点火施設(NIF)
 
 
フランス
CEA研究所(ボルドー)
レーザーメガジュール
 
 
中国
レーザー核融合研究所(綿陽)
神光III
 
 
EU
(計画段階: 11カ国が参画)
HiPER
 
(引用終わり)
 
 

闇ドル操作

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御来訪ありがとうございます。
 
(引用開始)
 
 
2011年08月04日
闇ドル操作 (4)
 
29年1月に 千葉県の参議院補欠選挙があって 改進党系から 加納久朗が 吉田自由党から伊能繁次郎が立候補した ところがだ 関西 九州の遊説から羽田に帰り着いたとき 開口一番 吉田はなんといったと思う 加納君は残念だったねといっているんだよ そして 加納を破って当選した自党の伊能繁次郎のことは おくびにもだしていない これには新聞記者たちも不審に思ったらしい
つまりこうなんだ 河野一郎の語るところによれば 吉田側近の最近の主なものは 彼らが極秘裏に操作している闇ドルの利益から出ているというのだ その中心になって動いているのが岡田外相の長男太郎 吉田の女婿麻生多賀吉や白洲次郎らしい 闇ドル操作であげた利益が円貨で約三十億円というから大変な額だ その一部の一億五千万円が 加納久朗の応援資金として贈られたというんだ 加納久朗は麻生の叔父だし 吉田とはロンドン時代に 吉田は大使 加納は正金支店長だった 吉田の娘の和子と 麻生の間をとりもったのも 白洲と加納だそうだ だから 千葉の補欠選挙に 加納久朗が改進党系として立候補した自体 吉田一派の陰謀でああったともいえる 麻生から加納へという名目で 改進党買収費を贈る手段だとみることもできるわけだ 河野一郎がアドバルーンをあげるだけの演出効果はあったのだ
小説 日本列島 吉原公一郎より

バンク オブ アメリカからドルを調達する
担保には 金やダイヤを当てる
利息分は随時 担保を売却して当てる この方法をとれば 貴金属の相場に影響を与えにくくできる
利益額の根拠が不明ですが 闇ドルというものが 額からすると当時はかなりおおきなものだったようです
元ネタは 真相からであろうとおもいますが ほんとかどうかはべつにして 風聞はあったかと思います
 
 
 ↑
 
【誠天調書】
2013年03月02日
 

違うな、
其の闇ドルという話の実相は 担保が米国債の現物 という事じゃないのかな?

最後は 高度成長で溶かす 所得倍増計画で溶かす で良いんだから。

今ですら米国債の現物でのマネロンなんてモノが発覚しづらいんだから
まさに当時は濡れ手に粟の錬金術だったでしょうね。
 
 
 
 
 
 
ジャーナリスト達が言っているワールドトレードセンターが狙われた根拠について、一番鋭いと思ったのは、ベンジャミン・フルフォードが言っている『70年ものの債券』の話だ。


満州事変のきっかけとなった柳条湖事件が起きたのは、1931年の9月18日。

1931/09/18,昭和6/09/18
奉天の郊外、柳条湖で、関東軍の陰謀により満鉄の線路が爆破される(満州事変の発端)。
歴史データベースより抜粋


この事件に絡む債券が発行され、その満期が2001年の9月18日だった。
その1週間前に、その債券の元本やデータが、ビルごと破壊されたというのである。


この説はなかなか鋭い。
ワールドトレードセンターには、世界中の主要な金融機関が入居しており、様々な債券の元本やデータがあったはずであり、そのことを知っているエリートの人々も通っていたはずだからである。


しかし、鋭いとは思ったものの、管理人は、この説は『どこか腑に落ちない』と思ったのも確かである。

そう、『70年もの』という中途半端な期間がおかしいと思ったのだ。
 
では、管理人が腑に落ちる長さ、つまり、50年ものの債券が発行されたとしたらどうだろう??

2001年9月11日の50年前は、1951年9月11日である。


その周辺に何かが起きていたのではないか?


これが、管理人が閃いた仮説である。


で、調べてみると、こんなことがあったのである。


1951/09/08,昭和26/09/08
対日講和条約に49ヵ国が調印する。北方4島を千島列島に含めないと主張する基礎となるが、ソ連はこの条約の調印を拒否する。
1951/09/08,昭和26/09/08
日米安全保障条約が調印される。

歴史データベースより引用


50年前に、日本の講和条約が結ばれ、日米安全保障条約が調印されていたのである。

 
当然のことながら、この講和条約と安全保障条約の締結の際に、日本が持っていた資金が、債券として担保になった可能性が極めて高いのである。


そして、日本陸軍や海軍が持っていた秘密資金、そして天皇が所持していた国家予算規模の天文学的な資金の一部が、その債券になっていた可能性もまた極めて高いのである。


それらは、実際には無いことになっているお金なので、表には出て来なくて、秘密裏に債券になっていたと考えられるわけだ。


その債券の満期が50年後だったと考えると、ものすごく辻褄が合うわけである。

管理人の考えでは、今の資産でいう数百兆円規模の財産が、秘密裏に債券化され、その債券の元本やデータが、911によって破壊されたのではないか?と考えている


 
2009/03/23 10:41
 
神奈川県大磯町の旧吉田茂元首相邸が全焼した火事で、県警と消防が23日午前、出火原因を調べるため計約40人態勢で現場検証を始めた。
 県警によると、寝室や居間があった母屋の2階部分の燃え方が激しいことから集中的に調べている。
 出火時、母屋内は施錠され、敷地内の警備員室にある母屋の漏電を知らせる警報器が作動していたことから、県警は漏電の可能性もあるとみて、警備員らからあらためて出火時の状況を聴いている。
 
 
 
 
2008年06月19日
外為特別会計の発足

昭和24年3月に、「民間所有外貨の政府移管指令」というものが
発令されたそうです。こういうことの様です。
   ↓
国立国会図書館より、
『外国為替資金特別会計の現状と課題 渡瀬義男』
 1ドル=360円の単一為替レートが設定され、(略)
 外貨事務が日本に移管された直後の昭和24年12月には、 (略)
 それまでの外国為替資金は新設の外国為替特別会計に
 引き継がれた。

 輸出により獲得した外貨はすべて特別会計に持ち込まれ、
 民間は円貨を入手する。
 その円貨需要を満たすために、 特別会計は常に日銀に外貨を持ち込ん で 円を引き出さなければならない。
 
 
当時,米軍は米ドル軍票を軍組織内で使用することとしていたが、
「円ドル交換回転基金」は米ドル軍票と日本円との交換を任務としていた。

日本銀行による「円ドル交換回転基金」への資金として,
「違合軍口座」に対して,1948年8月14日~49年9月24日の間に
6回にわたり、40億円が払込まれたが,1950年7月15日付SCAP覚書
(SCAPIN-7213A)を以て,以降回転基金への払込みを廃止し,
残高は外国為替特別会計円資金口座へ振替えられた。

 ※軍用為替レートの推移
   
   1945.09.23以降 1ドル= 15円
   1947.03.12以降 1ドル= 50円
   1948.07.06以降 1ドル=270円
   1949.04.25以降 1ドル=360円
▼上手く説明できないのですが、なんかこれ怪しいにおいがするなあ。

 
 有無を言わさず、アメリカの軍票を流通させることは、
 当時のGHQ(SCAP)なら容易なことだったはずです。

 それを、日本側が難色を示したからといって、
 あっさり撤回したというのは、やはり何か見返りorメリットが
 あったことを容易に想像させます。
 
 
ドレーパー使節団 
腕利きの経済再生屋ジョセフ・ドッジを口説いて
日本に送り込んだのも彼(ウイリアム・ドレーパーJr.陸軍次官)である。

一九四八年(昭23)三月に来日した、ドレーパー米陸軍次官、
ジョンストン元ニューヨーク・ケミカル・バンク会長などを
メンバーとする使節団で、日本経済の実情を視察して
対日占領政策を方向転換させる報告書をまとめた。
 
 
 
1851年にはケミカル・バンクが親会社から独立し、以降は合併・買収を進めて業容拡大を続ける。特に大型の買収に1954年のコーン・エクスチェンジ・バンク、1988年のテキサス・コマース・バンク、1993年のマニュファクチャーズ・ハノーヴァー・トラストなどがある。買収の過程で幾度か総資産・預金シェアで米国トップになった。
1996年、チェース・マンハッタンを買収したが、新社名には買収先を残した。さらに2000年、チェース・マンハッタンがJPMと経営統合するが、現在もその本社機能はケミカルのものを引き継いでおり、また法定手続上の直接の前身である。
 

 
 
 
「占領 1945~1952 ― 戦後日本をつくりあげた8人のアメリカ人 ―
 
日本経済復興のための三角貿易構想
 
引用ジョンストン報告は 【中略】 アメリカの原綿を日本に売り、日本の綿織物をオランダ領東インド諸島に輸出する三角貿易方式を提案していた。オランダは綿織物の代金を、アメリカの戦略的備蓄計画にとって必要な錫などの原材料の売却代金であてるのである。
 
 
 
 
 
(引用終わり)
 
 数字、計算、金勘定弱いので。。(苦笑)
 
 でも、管理人も、スゴく 怪しいと思います。
 
 御来訪ありがとうございました。


memo 渡辺武日記 対占領軍交渉秘録 など

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御来訪ありがとうございます。
 
(引用開始)
 
 
 
 
GHQ相手のロビー活動によって大蔵省解体を免れさせたとも云われているが、米軍駐留費捻出の必要性から大蔵省を残存させた米軍による間接統治、さらに東西冷戦勃発から日本経済建て直しが急務であったことがその背景にあった。米軍発行の軍票法定通貨となっても、実際にはを流通させるなど、この時期に解体された内務省に替わって大蔵省が諸官庁の中で事実上トップの座につくこととなった。
 
 
同時期に、GHQ内部の先鋭的理想主義者の一群であるニューディーラー日本経済の舵取りをきっていたが、その政策により大蔵省も振り回されることも多かった。最も恐れていたインフレの防止のため均衡予算を主張し、GHQ経済科学局も支持したが、米軍駐留費増額に絡んだGHQ内、及び国内の党派対立などに振り回されていた。
 
のち、これらに代わって日本経済の安定・引締のために米国から現実主義者のジョゼフ・ドッジが招聘され、招聘の実質的な責任者の一人となった。
その間の経緯は『占領下の日本財政覚え書』など以下の書籍に詳述されている
 
池田勇人蔵相時代にドッジ・ラインが実行され、池田、宮沢喜一蔵相秘書官、渡辺の3人でドッジらと緊密な連携をとっていた[4]
 
1951年9月、サンフランシスコ平和条約日本が締結した時、側面からサポートし、さらにIMF世界銀行日本を代表してオブザーバーとして出席し、加盟準備をする。1952年7月、駐米公使に着任。戦前からの日本の対外債務処理問題や日米二重課税防止協定締結にあたり、IMF・世銀加盟及び日本からの理事選出に対処した。1956年、初代の湯本武雄の後を継いでIMF・世銀理事に就き、外資の借り入れ交渉や対日融資の増加に尽力した
 
 
祖父は伊藤博文内閣蔵相逓信相を務めた渡辺国武、父の渡辺千冬司法相を務めた。弟に物理学者渡辺慧。伯父に渡辺千春。その子に渡辺昭、孫に渡辺允。なお千春は日銀ロンドン駐在時代に少年期のネルー初代インド首相が同じアパートに住み、遊びに来ていた仲
 
 
るいネット
 

206978天皇と戦争資金
 
 
1945年.第2次世界大戦に敗北した日本に.米軍が上陸して来る。今後の日本を.どうするか.米軍の指揮官ダグラス・マッカーサーとの交渉を担当したのが.当時の大蔵省事務次官.池田勇人(後に首相)の部下.渡辺武であった。渡辺の自伝である「渡辺武日記 対占領軍交渉秘録」東洋経済新報社.によると.渡辺と米軍の最初の「大きな交渉テーマ」は.米国の銀行ディロン・リードに対する日本と天皇一族の借金返済問題であった。

 明治憲法第11条により.日本の陸海空軍.全ての指揮権は天皇にあり.政治・軍事の全責任は天皇にあった。米軍が天皇の戦争責任を問題にせず.真っ先に銀行ディロンの代理人として借金の取り立てを行った事は.戦争の目的が金であった事.そして米軍が.米国政府の代理人などでなく.銀行ディロンという私的機関の「代理人」である事を良く示している。

 
しかも奇妙な事に.日本は戦争のための兵器購入資金を.敵国の米国ディロンから「借り入れ」ていたのだ。さらに.貸し付けた側の銀行ディロンの社長が.米国の戦争省長官ウィリアム・ドレーパーであった。米軍の陸海空軍.全ての指揮権を持つ戦争省長官ドレーパー本人が.敵国・日本の陸海空軍.全ての指揮権を持つ天皇に戦争資金を貸し付けていた。

 
ディロンの親会社が.現在のブッシュ大統領一族の経営する軍事産業専門投資会社カーライルであり.そのブッシュの経営する.ハリマン銀行の取締役ロバート・ラヴェットが.戦争省次官として.自分の経営する兵器会社から米軍に武器を納入していた。

 米軍の兵器と.日本軍の兵器購入資金は.同一のハリマン=カーライル=ディロンから出ていた。日本軍と米軍が「殺し合えば殺し合う程」.この銀行が儲かる「仕組み」になっていた。この銀行の私的利益のために.日本と米国の軍人は「殺し合い」をした。

 
この金儲けシステムの米国側にドレーパーが居り.日本側に天皇が居た。ドレーパーの銀行ディロンは.戦争で莫大な利益を得た。天皇も日本軍の兵器購入資金の一部を私物化し.スイス銀行に莫大な財産を蓄積した(マーク・ゲイン「ニッポン日記」筑摩書房.アダム・レボー「ヒトラーの秘密銀行」ベストセラーズ)。

 天皇が戦争責任を問われなかったのは.当然である。日本人と米国人に「殺し合い」を行わせ.金儲けする.ディロン=ハリマン銀行の日本支店長が.天皇であった。最初から.天皇は「日本と日本人の命」を「敵国に売り渡して」いた。

 
なお天皇は.スイスに莫大な蓄財が出来た.感謝の印に.「敵国の戦争指揮官」ドレーパーに.勲一等瑞宝章(くんいっとう.ずいほうしょう)を与え.表彰している。
 
 
 
戦争屋=ディロン=ハーバードが株売却【20100818
 
 
 
反共もディロン家、政府紙幣でのアンチロスチャもディロン家。
戦争屋もディロン家。アングロサクソン至上主義もディロン家。
 
Dロックフェラーの黒幕はハリマンというより、このディロン家だね。
 
 
ロックフェラー系の企業の中枢に、ディロン・リードというものがある。
このディロン・リードという企業は、主に3つの支配家系より出来上がっている。
企業名にもなっているディロン家、オーガスト・ベルモントのベルモント家、そしてペリー提督の末裔にあたるペリー家。
 
ペリー家は、この両者に深く血縁関係を持ち、どちらとも一体化してるわけで単純に分類は出来ない。
だが、ベルモント家とディロン家には明確な違いがある。
ベルモント家=ロスチャの手先であって、スコティッシュライト、ブナイ・プリスなどの単語が続く、ヤングアメリカ運動。
逆にディロン家は、アングロサクソン至上主義の親玉といっていい。
 
反共、戦争屋、反ロスチャイルド、全ての部分で常にディロン家を見つけることができる。
単純に、ベルモント家=米民主党であるし、ディロン家=米共和党でもある。
ペリー家を含めたこの両者が重なってる部分=ディロン・リード銀行であり、3家の綱引きの歴史でもある。
 
 
・まず、戦争屋(戦後の天皇の資産とその銀行の系譜)。
第二次世界大戦、「敵国」である日本に対して、ハリマンとともに戦費を貸し付けていたのが、このディロン・リード社長、米国の戦争省長官ウィリアム・ドレーパーである。
「渡辺武日記 対占領軍交渉秘録」によると戦後、占領軍(米)と最初の交渉テーマが、ディロン・リードに対する日本と天皇一族の借金返済問題であったそうだ。
ドレーパーは敵の司令官とも言えるわけだが、勲一等瑞宝章を与えられている。
 →天皇の銀行、横浜正金銀行の話へ(次回の記事)。
 
 
 
 
・安保と反共(岸信介)
 
お花畑、平和主義ともいえた日本国憲法なのに、戦争屋として舵をきった事のきっかけがウィリアム・ドレイパーの日米安保である。
1960年、期限10年からの延長として新安保条約が締結されるが、その時の米国代表がダグラス・ ディロン国務次官。
日本は言うまでもなく岸信介である。
 
そもそも逆コースにおける「反共」という旗印も、陸軍次官という役職であったウィリアム・ドレイパーによりマッカーサーが説得された事による物である。
彼は、逆コースの日本におけるアドバイザーというポジションを得た後、1948年末に、ディロン・リード証券へと戻っているわけです。
戦争屋としての日本の仕立て人なわけね。
 
 
 
ロスチャっぽいのにロックフェラーはなぜ?【20100819
 
 
擬似的に考えるとこうなる。
 
ベアリング家= P&O汽船 =ベアリングズ銀行 = BP、
 
天皇家  = 日本郵船 =三菱UFJ  =ゆうちょ銀行
 
で、油田じゃないけど、ゆうちょ銀行は(金の成る木)&民営化=身売りされる=昔のBPと一緒だから。
 
1839年イングランド銀行が窮地におちいる。
それを救ったベアリング商会は、英国の支配強化とともに「地球の支配者の一族」ともいえる地位をロスチャイルドとともに築き上げた。
なのに、ベアリングズ銀行は潰れた。
 
リーマンだってそうだ。FRBの株主、支配者のメンバーであったはずが、ああなった。
その影には、ロスチャイルドというもっと大きな支配者の影が見える。
 
 
BPと日本郵政の比較。
ベアリング家と日本の皇室(ベルモント家+ディロン家+ペリー家)
 
ただ言えることは、ベアリングズ銀行が潰れた、いや潰す事が出来たのは、ロスチャイルドがあったからである。
 
日本の郵政、郵貯に一極化しすぎて肥大化しすぎた日本では事情が違う、代替するものがない以上、「郵貯崩壊からの経済破局はありえない」と考えるかもしれない。
 
 
1987年 BP(ベアリング家)の完全民営化開始
1991年 クローマー伯爵の死去による反ロスチャへの舵取り
1995年 ベアリング銀行の破綻
 
これを日本郵政に置き換えると・・。
 
2007年 郵政民営化開始
2011年 というか2010年(現在)から既に、政治が反ロスチャ、ロックフェラー系の支配の一層の強化=乗っ取られた民主党となってるわけで・・・。
 
となると、この流れをベアリング銀行と重ねてみると。
2015年=郵貯の崩壊。
あとは、国家破綻→IMF統治へ・・・・になっちゃうだろうなぁ~。と。 
 
 
 
ロスチャイルド系と言われる中のアングロサクソン至上主義。
 

 
 
 
この911やロックフェラー系の李嘉誠とも関係するHSBC(香港上海銀行)は、もともとはロスチャイルド自身と、サッスーン、ジャーディン・マセソン商会、ベアリング家が合同で作った阿片貿易のための銀行である。
 
ベアリング銀行が潰れたのは、ロスチャイルドがあったからである。
ベアリング=ロスチャイルドでもあったのである。
 
これから基軸通貨の交代に伴う戦争が必ずある。
戦争屋(ロックフェラー系)が儲かってしまう話だ。
それを快く思わない経済屋=ロスチャ系への配慮として「アジア共同体思想」を落としどころ、つまり戦争とセットにする可能性は十二分にある。
 
その時は、ゆうちょ銀行を含む日本経済が結果的に破綻し、天皇家はベアリング家以上に衰退し、日本の郵貯やら金融機関の変わりに、香港上海銀行が「アジアの中央銀行」という土台となって、アジア共通通貨に突き進む。
 
ま、可能性としては十分ある話だ。
「香港上海銀行の存在」があれば、郵貯は食いつぶすだけだし、日本金融機関の再起を考えなくてもよくなるボーナスタイムになり・・・。怖!
 
ベアリング銀行を潰してINGがでて来たように、日本経済破綻→IMFと同時に香港上海銀行→アジア共通通貨ってなるわけね。
あらやだ、ロスチャの東アジア共同体思想。
 
その時は、ロックフェラーとロスチャの争いは、文字通り血で血を洗う戦いになりそうだが・・。
上海閥とロックフェラー系(石油系などの)客家と、ロスチャ系の争いという形になって戦争することになるわけね。
 
 
文字通り中央銀行の勢力図を争う陣取りゲームのようにね。
すぐ宗教紛争に繋がりそうな、イスラエルの方が状況証拠として揃ってきてるが、俺はこっちの戦争の方が可能性高いと思っていたのだが・・・果たして。
 
 
 
ロスチャとロックの争いにもなるが、ディロン家などの「反ロスチャイルド」の思想は「反共」という旗印を冷戦以前は掲げる事によって、ここまで進んで来れた。
 
しかし、今は戦争屋は、次の旗印をずっと探してるんだ。
 
(引用終わり)
 
 

 

memo 住友  通商司開設 人脈図 矢板玄  ドッジライン

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住友人物列伝:総理事と呼ばれた人たち
広瀬宰平 その二 1
 
年、広瀬は別子近代化資金を得るため、わが国最初の銀行であった大阪為替会社に出資し、融資の引き出しに成功した。しかし、この会社は政府と大阪の豪商たちが出資した半官半民の会社であり、明治6(1873)年には早くも多額の不良債権を抱えて倒産してしまう。広瀬は、同社の出資者に清算事務を懇願され、明治10(1877)年までにかなりの債権を回収して出資者に分配している。
 
 
系図で見る近現代
 
第44回 明治・大正の世に隆盛を誇った高田商会とは?
      創業者・高田慎蔵、そして、その末裔・高田万由子 (08.5.26記)
 
その本では、高田慎蔵の孫に当たり、戦後、フランスに渡り、カメラマンののち、
ピエール・カルダンの店に入り、専務(当時)を務めた女性、
高田美(よし/2009年没)へのインタビューが、掲載されている。

また、日露戦争に関して、

「くわしいことは知りませんが、高田商会はヨーロッパで武器を買いつけ、
日本に送ると同時に、ロシアの革命軍の方にも武器を密売していたらしいんです。
つまり、日露戦争の後方撹乱ですね。
当時のことは最高の国家機密でしょうから、
どんな記録に出てくるか想像もつきませんが、(中略)

いまの天皇様(昭和天皇)が皇太子の頃にヨーロッパに来られたときは、
高田商会パリ支店がご案内した、というような話もきいたことがあります。」



まさに、政治的にも、経済的にも、非常に大きな存在であったという事であろう。
 
当時の模様を、同年に高田商会の筆頭重役・石川慎一の次女・直子を
妻にもらった、のちの三井銀行社長・会長、佐藤喜一郎は、「私の履歴書」で、


「関東大震災が、日本経済に与えた打撃は非常なものだった。
第一次大戦の蓄積は大部分ははき出された。
これに大戦中の好況の反動もあって、私が帰国したころから
日本経済はおかしくなってきていた。
外国課にはいってしばらくすると、高田商会が破産した。
高田商会は海軍に物資を調達する会社で有名な老舗だった。
破産の直接の原因は内閣が更迭したため、
海軍が出すはずだった金を出さなくなったことにあったが、
この高田商会とは池田成彬さん(三井銀行筆頭常務)が懇意だった関係で、
三井銀行はかなりの融資をしていた。
そして当時の金で約四百万円というコゲつきを生じたのである。
けれども三井銀行は決算でこれを一度に償却した。それはりっぱなものだが、
われわれのボーナスまで半減されたのには、さすがに驚いた。(後略)」


と記している。
 
 
 
「話せばわかる」の真実!?原田熊雄日記「西園寺公と政局」(03.2.10記)
 
原田熊雄と言っても一般的には、あまり馴染みはないでしょうが、
彼は、戦前期、近衞文麿、木戸幸一、有馬頼寧ら、宮中グループが組織した
「十一会」に参加、革新華族の一人として宮中で活躍した。

西園寺公望の秘書だった彼は住友本社4階に部屋を持ち、
報酬等は住友財閥から出ていた。

そして、木戸幸一は西園寺の信任厚く、S15年内大臣となり、
西園寺に代わって天皇側近ナンバーワンとして重臣会議や後任首相の奏薦に大きな影響力を終戦まで持ち続けた。
 
 
田熊雄の母、すなわち、原田豊吉の妻・照子は、ドイツ人と日本人のハーフ
 
妻・照子はドイツ人貿易商ミカエル・ベアと日本女性・荒井ろくとの間に生まれたハーフであった
都留重人(しげと)の名前が縁者にある
 
 
 
 
 
初代・芝川又右衛門 ~通商司開設・通商会社と為替会社~

memo アブダビ利権

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(引用開始)
 
2008年01月07日
 
 
 

日本貿易保険、アブダビの政府系ファンドと協力協定の覚書調印

【アブダビ=加賀谷和樹】独立行政法人の日本貿易保険(NEXI)は6日、アラブ首長国連邦(UAE)アブダビの政府系ファンドであるムバダラ開発公社と協力協定の覚書(MOU)に調印した。主にアジアでの資源開発などでNEXIが紹介する日本企業とムバダラが共同出資で取り組む事業を増やす狙い。

共同事業にはNEXIが貿易保険を提供。豊富な石油マネーを持つアブダビと、事業に必要なノウハウを持つ日本企業の連携を促す仕組みだ。

NEXIの今野秀洋理事長、ムバダラのハルドゥーン最高経営責任者(CEO)がアブダビで調印。式典には甘利明経済産業相らが同席した。


※ カーライルとリバーストーン・ホールディングスは、メキシコ湾油田の開発でジョージ・ソロスと組んでいる。

ジョージ・ソロス メキシコ湾油田開発に1億ドル投資
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1155923836/
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Lord John Browne(リバーストーンに掲載されているブラウンの経歴)
http://www.riverstonellc.com/team/TeamMember.aspx?id=47
リバーストーンのPierre F. Lapeyre, Jr.(Co-Founder)はゴールドマン出身
http://www.riverstonellc.com/team/TeamMember.aspx?id=2
もうひとりのDavid M. Leuschen(Co-Founder)もゴールドマン出身
http://www.riverstonellc.com/team/TeamMember.aspx?id=3

Lord Browne's Renewable Career
http://www.businessweek.com/globalbiz/content/oct2007/gb20071017_608755.htm


リバーストーンを創業したのはゴールドマン出身のバンカーで、BP出身者を数名経営陣に加えたリバーストーンはカーライルと密接な関係にある。そして、リバーストーンはジョン・ブラウンを送り込んでマスダルとの提携を探っている。

マスダルとはアブダビが進めるプロジェクト全体の名前(呼称)で、その親会社がムバダラ・デベロップメントであり、ムバダラはカーライルの大株主(7.5%)でもあるが、ムバダラのカーライルへの出資比率はカルパース(5.5%)を超えている。シティグループがアブダビ投資庁から75億ドルの出資を受け入れると発表したのは最近のことだが、コスモ石油の筆頭株主にアブダビのSWFがなると明らかになったのも最近のことだった。

アブダビ政府所有のムバダラが1月6日に調印した相手が、甘利経済産業大臣が率いる日本の訪問団。

福田総理は丸善石油(コスモ石油)出身。20日ほど前に来日していたアブダビ皇太子は、コスモ石油や丸紅との事業契約に署名したが、その署名式は官邸で行なわれている。民間事業の署名式に日本の総理大臣が同席したのであった。

石油さえ得られるなら…福田首相、官邸で民間事業署名
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=93952&servcode=A00§code=A00

アブダビが巨額の出資をするシティグループが中心となって設立を模索したSIV基金に、日本のメガバンクに協力の要請があったのも同時期で、日本の銀行がSIVへの協力を断ったことでSIV基金の構想は破綻した。このSIV構想では、アメリカからはポールソン財務省などの金融当局だけではなく、シティグループが福田総理に接触していた。

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【福田日誌】12月4日
6時11分、執務室を出て、13分から16分、閣僚応接室前で報道各社のインタビュー。17分、官邸発。27分、東京・紀尾井町の日本料理店「福田家」着。シーファー駐日米大使、ベーカー前駐日米大使、塩川正十郎元財務相。9時11分、同所発。37分、私邸着。
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/071205/plc0712050346002-n1.htm
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塩じぃがシティグループの外部諮問会議の会長に
http://d.hatena.ne.jp/HEAT/20070711
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福田総理は12月4日18時半ごろから21時過ぎまで、シティグループの外部諮問会議の会長(塩じい)とベーカー(同副会長)と、紀尾井町でSIVについて話し合っていたのであった。日本の銀行がSIVへの協力要請を断ったのが、紀尾井町での密談からおよそ2週間後で、それとほぼ同時にアブダビ皇太子が来日している。

日本の銀行にへの協力要請、そしてそれを日本側は拒否、日本とアブダビの最近の動向、SIVを決算に組み込む必要性に追い込まれたシティグループにアブダビが巨額の出資‥‥これらは全て同時に進行していた。そしてこれらの中心にいるのが、アブダビなのであった。

福田総理がコスモ石油(丸善石油)の出身なのは有名だが、コスモ石油に関係する人物をここでもうひとり挙げるとしたら、その人物は資源エネルギー庁長官を務めた豊島格である。豊島は、資源エネルギー庁長官からコスモ石油に天下りした石油業界の大物。

豊島格の名前ではピンとこないかもしれないが、豊島の妻は小泉隆子である。隆子は小泉純一郎の姉である。

ブッシュ政権は石油に近いことで有名だが、ブッシュのためならなんでも差し出そうかという小泉首相自身の背後にも、石油が見え隠れしていたのであった。

9月にコスモ石油がアブダビで業務提携を発表した際、現地(アブダビ)にいたのがコスモ石油会長の岡部敬一郎だった(
http://www.business-i.jp/news/for-page/kouho/200711220004o.nwc)。この岡部は石油連盟の会長を務める重要人物だが、福田総理と親しいのは当然として、「小泉首相を囲む会」のメンバーだったことから、小泉純一郎にも近い人物なのであった(http://www.yorozubp.com/0406/040601.htm)。

福田赳夫の自宅で書生となり、秘書をつとめたのが小泉純一郎なのだから、小泉政権と現在の福田政権が共に石油利権と密接な“石油政権”なのは少しもおかしなことではないといえるだろう。

上記、福田総理とアブダビの皇太子が同席した官邸での調印式、実はこの調印文書には政府系の国際協力銀行がアブダビ石油公社に30億ドルの融資をする契約が含まれていた。

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> 政府系金融機関の国際協力銀行は、アラブ首長国連邦
> (UAE)のアブダビ石油公社に30億ドル(3400億円)
> 規模の資金を融資する。
> 返済には、コスモ石油など日本の石油会社が支払う原
> 油の購入代金が充てられる。
http://www.bloomberg.com/apps/news?pid=90003017&sid=acRSMyTl2I7U&refer=jp_japan
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アブダビがシティグループに75億ドル出資するけど、その金利はなんと年11%、国際協力銀行の貸付利率は低いから、ここで大きな利ざやを抜けることになる。そして、アブダビが日本に返済する原資は、コスモ石油などがアブダビから購入する石油代金。つまり、石油を日本に売ることで得る日本のお金が日本に返ってくる仕組みといえそう。日本には石油を渡すだけで、融資金は利息も含めて返済の心配がないというもの。しかも、アブダビがコスモ石油の筆頭株主になったわけでしょ。

穿った見方をすれば、アブダビがコスモ石油に出資する資金を国際協力銀行が提供(融資)したとも受けとれちゃう。アブダビがコスモから引き受ける第三者割当は約900億円だから、国際協力銀行が融資する3300億円(30億ドル)からこれを差し引いても2400億円も残る。この2400億円をシティグループへの出資、利率11%に回すことができる。

そもそも石油のおかげで外貨が増えつづけているアブダビが、わざわざ日本から融資を受ける必要などないはずなのに、それなのに日本から資金を調達するってことは、それはその融資金が運用に回るって意味でしょうに。日本からすると、これは石油購入代金の前払いって位置付けなのかもしれないけど…。

国際協力銀行って、もうすぐ統合されるんじゃなかったか?小泉純一郎の姉の夫である豊島格は、コスモ石油に天下る前は日本輸出入銀行にいた。この日本輸出入銀行が現在の国際協力銀行なんだけど…。

日本とアブダビが親密な関係に接近すること自体はいいことだと思うけれど、相手のほうが一枚も二枚もうわてだと見えなくもない。シティグループやカーライルの大株主だしねぇ。

国際協力銀行とコスモ石油を結ぶ豊島格。その豊島格の義理の弟にあたる小泉純一郎の周辺。小泉政権の官房長官でコスモ石油出身の福田総理。そして、コスモ石油会長で石油連盟の会長もつとめる岡部敬一郎。どうやらこれらの人物とその周辺が、“アブダビ利権”の中核なんじゃないかな。
 
 
2008年01月03日
http://blog.goo.ne.jp/hardsix/e/b515b6ad55530b34aaa96ab242e54e35
 
 
 SIVとは、CP(コマーシャルペーパー、1年未満の短期債)などで資金を調達し、その資金でサブプライムローンを裏付けにした債務担保証券(CDO)や住宅ローン担保証券(RMBS)など長期証券を購入する仕組みである。通常、期間が短い借り入れ(調達)は金利が低く、期間が長い証券は利回りが大きくなる。この調達コストと運用利回りの差額を狙うのがSIVの事業である。ところが、運用していた保有証券がサブプライムローン問題で値下がりしたことで、SIV各社の資金繰りが一気に悪化した。
 このSIVを7社も傘下に収めているシティは、SIVに対する資金融通や、SIVが発行した買い手のつかないCPの買い取りなどを迫られているのである。しかしシティは傘下のSIVを連結対象としておらず信用リスクの規模が不透明なために株価が急落した。その対策として7社を連結対象に組み入れることにしたのである。
 
 
 
この状況を救済するために考えられたのがサブプライム救済基金構想(Super-SIV)だ。これは「シティグループ」「バンク・オブ・アメリカ」「JPモルガン・チェース」の大手3銀行による共同構想で、SIVから関連証券を買い取って金融信用不安を解消することを狙ったものであった。ところがシティが傘下のSIVを連結対象に加えると発表し構想はあっけなく頓挫した。背景には、バンカメとモルガンが結果としてシティを救済することになることを嫌ったことや、基金に参加を要請された日本の3メガ銀行が参加拒否したことがある。言い方を変えるならば、日米の大手5行がシティを見限った、とも言える。

 11月26日、シティはアブダビ投資丁から8000億円の出資を受け入れた。市場はこれを歓迎したが、SIVを含めたシティグループ全体の信用不安から見れば、はした金である。
 
 
 
 
 
 
(引用終わり)

メモ グルー  ハリーカーン

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(引用開始)
 
橋問叢書 第四十九号]  一橋の学問を考える会

アメリカの対日戦後政策   一橋大学経済学部教授    中村政則
      ― グルー元駐日大使を中心として ―
 
 
グルーと「穏健派」
 じゃ一体どういう人々を彼は穏健派と見ていたか。牧野伸顕、西園寺公望、幣原喜重郎、浜口雄幸、若槻礼次郎、近衛文麿、樺山愛輔、吉田茂、出淵勝次、これは駐米大使ですけれども。新渡戸稲造、こういった人々がグルーにとっての穏健派なんです。この穏健派というのはいずれも欧米に留学、あるいは勤務した経験があり、品位と威厳を備え、謙虚で教養の高い紳士であるというのがグルーの穏健派イメージであります。

 いま言った宮廷グループ、外交官のはかに三井、三菱とか、そういった財閥系の指導的実業家、あるいは海軍将官とグルーは接触を保っておりました。これはアメリカの学者のウォルド・H・ハインリックス教授の書いた『日米外交とグルー』から取ったのですが、グルーの交際範囲というのは、一が海軍将官、二が大実業家、三が宮中グループと分けております。その中でも最も重要な情報源は宮中側近グループでした。
 それから、もう一つは、彼の外交スタイルが宮廷外交のスタイルでありました。つまり戦後のライシャワーの民間外交、学者外交、あるいはマンスフィールドの議員外交とか、そういう外交スタイルと違うわけです。まさに宮廷外交のスタイルでありまして、ともかく牧野伸顕とか、特に樺山愛輔 ― 先ほどダッシュで名前が消されていると申しましたが、消されている人物は樺山愛輔、吉田茂、出淵勝次、そういったような人なんですが、彼らが重要な情報源なんです。
 
 
 
グルーの戦後対日構想

 グルーは五月八日ごろ、ということはドイツの無条件降伏の翌日でありますが、ヤルタ秘密協定と原爆開発計画をスティムソンから知らされているんです。ご承知のように、ヤルタ秘密協定で、スターリンはナチスドイツが降伏してから三ヵ月後に対日参戦することを米英首脳に約束したわけです。そのかわりにチャーチルとルーズベルトは千島列島をソ連に引渡すと言った。まったく大国同士の取引でして、いまだに北方領土問題で尾を引いています。

 このヤルタ秘密協定にもとづいて、もしソビエトが対日参戦して戦後の日本に大きな影響力を持つということになると、つまり軍事的な勝利を勝ち取る上でソビエトの軍事力が物すごい意味を持つことになると、戦後の日本に対するソビエトの影響力が強くなり過ぎるのではないかということで、グルーはヤルタ秘密協定の修正を国務長官に進言したのですが、これは事実上拒否されてしまいます。

 もう一つはS1計画と言いまして原爆開発計画です。東京が三回にわたって猛爆撃を受けている。宮城も焼けた。そのうえ、また原爆を落とすようなことになれば、和平交渉の主体となる穏健派も焼き殺されるかもしれない。そうなれば日本を早期に無条件降伏に引き出すことはますます困難になる。しかも原爆の完成まであと三カ月だと聞かされている。もはや一刻の猶予もならないというのがグルーの判断でありました。グルーは日本に無条件降伏の呼びかけをやれば必ず天皇問題を持ち出してくると読んでいたのです。これは後にそのとおりになりました。

 日本がポツダム宣言を受諾するにあたって、御前会議で最後までもめたのが一条件でいくか、四条件でいくかにありました。結局、一条件、国体護持だけでポツダム宣言を受諾するということに決まったわけですけれども、グルーは何らかの形で天皇制を残す、あるいは戦後の日本の政治形態は国民の自由な意思によって決められるんだということを言ってほしいとトルーマンに何度も言ったわけです。

 なぜグルーはそれほどまでに天皇制を残すことにこだわったか。これは単に天皇が平和主義者だとか好きだからとか、そういうのでは全然ありません。アメリカ人の日本観とか天皇観を見るときに思うことは、非常に合理的というか、ドライというか、戦後になってくると冷戦の論理と納税者の論理、タックスペイヤーの論理で動いていくと私は見ていますが、この段階でグルーが天皇制を残した方がいいと言った理由を幾つか挙げておきますと、第一は、日本には戦争を終結させることのできる人物は天皇しかいない。

 第二は、中国、フィリピン、香港、インドシナ、タイ、マレー、シンガポール、ビルマ、ボルネオ、スマトラ、こ
ういう地域、南方地域に百万-普通三百万と言います。満州に百万、中国本土と朝鮮に百万、それから南方に百万。三百万の日本軍がいたわけです。この日本軍を一掃することは長くかつ犠牲の多い戦いを必要とする。しかし天皇が詔勅を出して日本軍に武器を捨てよと命ずれば数十万のアメリカ兵の命は救われるはずだ。
 第三に、もし天皇制を廃止すると声明すれば、アメリカ軍が東京を占領したとき日本人の敵がい心は一層強まりゲリラ活動は頻発するであろう。ここでも多くのアメリカ兵の生命が失われることであろう。
 
 
 
第四に、日本に民主主義を接ぎ木することはできない。それは日本に適さないし、うまく機能しない。したがってもし日本人が天皇崇拝を維持したいというならそのようにさせるのがよい。軍国主義を一掃すれば天皇制はむしろ日本にとって資産となろうと、こういうことなんです。

" American Council on Japan "と対日占領政策の転換
 
大急ぎで最後の部分にはいりますが、実は日本がポツダム宣言を受諾した八月三日にグルーは国務次官を辞めます。これで自分の任務は終わったというわけです。国務次官辞任後バーンズ国務長官からマッカーサーが占領軍最高司令官として日本に行ったから、あなたが政治顧問としてマッカーサーを補佐してほしいと頼まれたのですけれどもグルーは断ります。

 三つほど理由を挙げていますが、第一に、マッカーサーは日本占領の第一歩を立派に踏み出した。それにマッカーサーという人は人の意見を聞くような人ではない。

 第二に、十年以上も日本に住み多くの友人を持っている者が、征服者の顔をしてまた日本へ戻りたいと思うだろうか。私にはできない。第三に、胆石がしばしば私を悩ませている。日本に行けるような健康状能ではない。こういったようなことを挙げまして、そのかわりにユージン・ドウーマンを推薦するんですが、実際に来たのは対日強硬派のアチソンです。

 戦後の日本は、簡単に言うと天皇制を残し穏健派を中心とした、そういう日本をつくるというのがグルーの構想でた。ところがこのグルーの構想は結果的に言いますとそのとおりになったわけですが、その間に幾つものジグザグがあるわけです。どういうことかと申しますと、実際にマッカーサーがやった占領改革というのは、グルーが考えていたよりもはるかにラディカルな改革をやったわけです。それは軍隊機構の解散、政治的自由の承認、農地改革等々、要するに皆さんが経験してきたことですから、もう私が言う必要はないと思いますけれど、結局グルーは、この初期改革というのは行き過ぎているということで、一九四八年にアメリカ対日協議会というのをつくりまして、いわば日本占領政策の軌道修正を図る方向で動くんです。アメリカン・カウンスル・オン・ジャパン。言ってみれば日本ロビーでありますけど。一九四七年の夏ぐらいからアメリカは明らかに対日占領政策を転換したわけです。
つまり初期は非軍事化、民主化。ディミリタライゼーション、デモクラティゼーションそれにディセントラライゼーショをくわえれば、スリーDということになりますが、地方分権化と言いましょうか、そういう戦後改革を推進したわけですが、ソビエトとの冷戦状態が顕在化する。さらには中国革命が現実的な日程に上ってくる。アメリカの対アジア政策が根底から修正を迫まられた。そもそもヤルタ会談のときでも、蒋介石を中心とする中国、これをアメリカのアジア政策の要としていたわけですから、その構想が崩れたわけでして、日本に対する占領改革を言ってみれば和らげて、非軍事化、民主化から経済復興へスイッチする。場合によったら再軍備を進める。普通「逆コース」と呼ばれる占領政策の転換がじょじょに進行します。このアメリカの占領政策の転換を公的に確認したのが一九四八年十月に出されたNSC13ー2文書です。ナショナル・セキュリティ・カウンスルつまり国家安全保障会議の13-2号公文書。
これにトルーマンがサインしたことによって、アメリカの占領政策は公的に転換したと言っていいでしょう。

 
この占領政策の転換をリードしたのは陸軍次官のドレイバー、あるいはジョージ・ケナンでありますけど、そのほ′かにカウフマンとかパケナムとか、『ニューズウイーク』の記者であったハリー・カーン、そういったような人々が後で動いて対日政策の転換をおしすすめたわけです。グルーはグルーの前の駐日大使であったウィリアム・キャッスルとともに対日協議会の名誉会長として、先はどのNSC13ー2の政策文書を引き出すように動いたり、あるいは四九年のいわゆるドッジラインを敷いて経済復興に持っていく。こういった政策転換の背後にグルーがいたということにご注目願います。
 
裏政治史
 
ドーマン機関は1945年11月ニューヨーク・マンハッタンの「真珠商会」で結成された。ACJの発起人でもあるドーマンの名を冠したこの組織には、彼のほかに、カーン、カウフマン、そして「真珠商会」の経営者である日系二世ケイ・スガハラといった面々が名を連ねていた。彼らは、日本における「天皇制」の維持、軍の再構築、財閥の復興を掲げて団結したのだった。
戦時中OSS(戦略情報局、CIAの前身)に属していたスガハラは、戦後、ドーマンの下で働くようになり、旧児玉機関を再編成して、中国本土に隠されていた500トンのタングステンを市価の半値以下で、密輸した。これを市価の6割で国防総省に売却したCIAは、そこで得た差額を対日工作の資金に充てたという。このあたりのいきさつは萬万報の園田義明氏の記事Wの衝撃に詳しい。
注目すべきは、彼らの活動の中心には、必ずといってよいほど、オーガナイザーとしてカーンの姿があったことである。
 
 
この声明を紹介したうえで、著者のワイナー記者は、次のように書いている。「CIA、国務省、及び国家安全保障会議関係者と私が行ったインタビューによれば、4件目は岸に対する支援である。」――。
第2次岸政権下の58年総選挙で、岸信介元首相がCIAから秘密資金援助を受けたと断じているのだ。
同書では、岸の他にも、東条英機内閣の蔵相を務めた岸の盟友、賀屋興宣もまた58年総選挙で国会議員に選出された直前もしくは直後からCIAの協力者であったこと、さらに賀屋は59年2月にワシントン郊外のラングレーにあるCIA本部を訪れ、アレン・ダレスと面会している事実を明らかにしている。
 
 
ニッポン維新(132)民主主義という幻影―18
 
 
 
パケナムの日記によれば、鳩山一郎政権も岸信介政権も誕生の背景にはハリー・カーンらの画策があった事が分かります。特にA級戦犯だった岸信介氏とハリー・カーンの関係は密接です。ハリー・カーンはニューズウィーク誌を辞めた後、中東産油国のコンサルタントになりますが、その頃日本は自国の石炭産業に見切りをつけ、遠い中東の石油に依存するようになります。それもハリー・カーンの影響ではないかと思わせるほど、カーンは日本の政治に介入していました。その存在を初めて国民に知らしめたのがグラマン事件でした。
 
(引用終わり)


memo メタンフェタミン 優生学 ドッジ

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「引用開始」
 
国策捜査ならぬ国策操作【20090307
 
 

信じられないかもしれないが、覚せい剤は、政府おすみ付きの商品だったのである。GHQの占領してた時はね。
メタンフェタミン、名前は聞いたことあるだろう、商品名ヒロポンである。
 
 
麻薬を規制して、覚醒剤を野放しにした、この意味は何か?
戦時備蓄の軍事目的の興奮剤を含めて、覚せい剤をGHQ占領軍最高司令官(SCAP)がばら撒き、その際、麻薬を規制したのだ。
つまり、それは製薬会社を儲けさせるためにやったことである。
日本の製薬会社の基盤はここにあるんだよ。だからミドリ十字みたいなのが出てくるわけ。
IGファルベン、731部隊、説明は要らないよね。
 
 
戦後直後の麻薬、それはマリファナやヘロインなどを意味する。
戦中に麻の繊維生産は軍部に推奨され生産されていたわけ。日本でも簡単に手に入ったからだ。インド大麻はそれ以前の麻薬禁止法で禁止されていたけどね。
それで、麻薬の規制(1945年の指令98号)なんだけど、軍部が備蓄してたのには覚せい剤だけではなく麻薬もあったので、その分だけは、指令363号と配給制度を通して、日本中に美味しく配られましたがね。
 
 
1951年の覚醒剤取締法で、物事が綺麗に終わったわけではない。
むしろ現在までも続いている問題である。
もう少し補足するなら、1951年の覚醒剤取締り法以降も55年のこの法の改正まではエフェドリンの輸入は禁止されていなかった。
このエフェドリンからメタンフェタミンを製造したのである。
1キロのエフェドリンから注射器でいうと20万本のメタンフェタミン溶液が製造できた。
こうなると、もう違法かどうかさえわからなくなってくるが、ドイツの親会社メルク社の系列であるマークアンドカンパニーはアメリカにある会社で、52年だけで年間50キロのエフェドリン塩酸塩を輸出している。
 
 
そして戦後に日本人をシャブ漬けにしてくれた奴等の手先みたいな人達が、旧厚生省管轄の麻薬取締官なわけです。
薬害エイズも覚醒剤もそういうわけです。ここにきて自分は日本の杉の植林まで、製薬会社の思惑であることを確信していますが。
ちなみに農林水産省と厚生労働省はロックフェラー系の色が強いと俺が以前から感じていた理由もここらへんだろうね。
 
ただ、サッスーンと阿片のようにロスチャ系も麻薬に関しては真っ黒だろうけど。これは日本でもね。
 
 
 
08.3.3
【さてはてメモ帳】
米農務長官 ダウナーカウ完全禁止を拒否 + 生物・化学兵器の強制的人体実験の歴史
 
 
5. 731部隊の指導者、内藤良一は過酷な人体実験の「成果」を使用し、戦後、製薬企業ミドリ十字を創立する。ミドリ十字は、汚染された血液製剤を平然と販売し、薬害エイズ事件、C型肝炎事件を起こした。ミドリ十字の実態が731部隊であれば、事件は当然とも言える。
 倒産したミドリ十字の「科学者」は全員、731部隊の武田製薬に再就職している。


6. 内藤良一は戦中1930年代、米国ニューヨーク・シティ64~68番地にあるロックフェラー研究所にBC兵器の情報収集に来ている。
 ロックフェラー研究所は米国のBC兵器開発の中心だった。石油王ロックフェラーは、その石油の運搬をブッシュ一族の鉄道王ハリマン銀行に行なわせていた。ブッシュ一族は、ロックフェラーから仕事をもらい事業家として成功した。
731部隊とモンサントの協力関係の背後には、ブッシュ一族とロックフェラーのバックアップが存在した。


7. 日本の中国侵略、満州建国の資金もブッシュのハリマンの子会社シティバンクから出ていた。
 北京でコレラ菌、チフス菌を使用したBC兵器を研究・開発していた日本陸軍
第1855部隊は、北京協和医学院という研究所を持っていたが、それはロックフェラーが運営していたものだった。


8. 日本軍の支配する満州には、ロックフェラーの一族が自由に出入りし事業を行っていた(1923年5月、満州鉄道を盗賊が襲い、乗っていたロックフェラーが人質になった臨城事件等は有名)。
 
9. BC兵器開発における、731部隊とブッシュ、ロックフェラーの関係は、ドイツのヒトラーに及ぶ。ロックフェラーは戦闘機、戦車用燃料をヒトラーに提供し続け、ブッシュはヒトラーの最大資金源である化学企業IGファルベンに資金を融資し続けた。
 ブッシュの資金で、ファルベンは化学兵器チクロンBガスという毒ガスを開発し、その毒ガスは、アウシュヴィッツ強制収容所でユダヤ人を大量虐殺するために使われた。ファルベンはBASF、ヘキスト、バイエルンという3つの化学企業が合同したものだが、鎮痛剤アスピリンで有名なバイエルン社は、米国の製薬会社メルクからアスピリンの製造許可を貰っている。
 アスピリンを開発したメルクは、ドイツではファルベン(バイエルン)を提携先にしアスピリンを売り、米国ではモンサントにアスピリンを売らせていた。
 1942年、米国政府がBC兵器の実戦使用のため作った、「戦争研究部局WBC」の委員長ジョージ・メルクはメルク社の社長だった。


10. こうして第2次大戦中、731部隊、武田製薬、モンサント、ブッシュ、ロックフェラー、ファルベン、ヒトラー、メルク・・・は、日米独のBC兵器ネットワークを形成していた。
 このネットワークの西側・ドイツではアウシュヴィッツで大量虐殺が行われ、東側・満州ハルビンでは731部隊の人体実験・虐殺が行われた。
 米国でも、ユタ州のグラニット山の山中の演習所で4000人の科学者を動員し、人体実験が繰り返された。

 
 
共産主義とロックフェラー その1【20090313】
 
俺ならこれをもっと簡単に説明できる。
小村寿太郎とは西園寺公望が外務大臣だった時の次官である。そしてその後、当時の日本の外交を牛耳る人物である。
もうわかるだろう。大陸系メーソン、グラントリアンの系譜だ。
ハリマンが満州鉄道を買い占めるという野望ができなかったのは、「飼い主が日本に与えた餌までも取ろうとするな」と、ロスチャに怒られたわけだ。
 
そして、ナチスのスポンサーでもあるハリマン銀行=ブッシュ父で有色人種を排除せよ(セム系含む)という優生学研究所の繋がりまで説明しなければなるまい。
これでもわかるとおり、ロスチャと仲良くやっていたハリマンがロックフェラー系ーの骨格へと変質していくのである。
昔は、仲良くやっていたが、捏造ホロコーストで追い出された奴、戦後の裁判で責任をロスチャに押し付けられた奴、白人崇拝の危険思想とされた奴、基軸通貨ポンド崩壊で飛ばされた奴、そういうのが合流し、成熟していったのが、米英系メソの基盤であるわけ。
「本当のナチスは戦後に出来上がった」のだ。
 
 

206851豚インフルエンザの源流?(2)【オルタナティブ通信】
 
 
 
オルタナティブ通信::豚インフルエンザの源流?
 
9. 「ニューヨークにハリマン優生学研究所が発足。資金はブッシュ一族の経営するハリマン銀行、シティ・バンク頭取クリーブランド・ドッジ氏から提供された(注1)
※注1・・・このクリーブランド・ドッジは第二次大戦後、日米安保条約を結び、日本に米軍を常駐させる事を決め、日本を中国、ソ連、北朝鮮に対する防波堤とし、そのための軍事力、経済力を日本に「付けさせる」事を決めた経済政策、いわゆる「ドッジ・ライン」政策の制作者である。
 
 
共産主義とロックフェラー その2【20090314
 
 
 
それよりも大昔、首相になっている西園寺公望が欧州系メーソン=グラントリアン(大東社)だったのは、既に公表されてるようなもんである。
その西園寺とともにベルサイユ講和会議に出席した近衛文麿がいるわけだ。
近衛家は、南北朝の時の南朝についた北朝の血筋なのである。
で、西園寺公望の孫、西園寺公一の共産主義になって、日本が反共に進んでいく中で没落した流れは以前も紹介した。
 
 
 
そして洗礼をしなかったカトリック(カトリック自体は本来、大東社系)の吉田茂が導いたマッカーシズム(共産主義弾圧運動)で、この共産主義スパイ組織IPRは解散されるわけです。
しかし、キッシンジャーであり、中曽根であり、ナベツネであり、その共産主義路線はまだ生きているんですよ。
そして今、カトリックなのに米英系メソの手先となり反共を許した、吉田茂の呪いが、麻生VS小泉というフリーメーソンの対立のそのままの形をを再燃させ、郵貯は、「GHQ情報参謀2部(反共主義)=米英系メーソン」もしくは、「GHQ民政局(共産主義)=グラントリアン」という、どっちの選択肢をとってもアメリカに貢がされるのです。
その手打ちとして小沢が叩かれたわけです。
 
(引用終わり)
 

メモ メタンフェミン バイエル

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(引用開始)
 
 
1893年明治26年)、日本薬学者長井長義によりエフェドリンから合成されて生まれた。1919年大正8年)、緒方章がその結晶化に成功した。
アンフェタミンより強い中枢神経興奮作用をもつ覚醒剤であり、日本では覚せい剤取締法により規制されている。医療の現場においては現在、昏睡、手術後の虚脱状態、統合失調症における遅鈍症、ナルコレプシー等に対し施用されることがある。
 
第二次世界大戦当時には連合国軍枢軸国軍の双方で、航空機や潜水艦の搭乗員を中心に、士気向上や疲労回復の目的で用いられた。21世紀初頭の近年、世界各国においてその蔓延の急速な進行が確認されており、一例としてアメリカ合衆国では、「最も危険なドラッグ」として語られるものとなっている。
 
 
 
ヒロポン®Philopon)とは、大日本住友製薬(旧:大日本製薬)によるメタンフェタミンの商品名であり、同社の登録商標(第364236号の1)である。成分名は塩酸メタンフェタミン錠。剤型はアンプルおよび錠剤である。「ヒロポン」の名は、「疲労をポンと取る」にも掛けているが、英文綴りに見られるように、ギリシア語Φιλόπονος(労働を愛する)を由来としている。
日本では太平洋戦争以前より製造されており、「除倦覺醒劑」として販売されていた。その名の通り、疲労倦怠感を除き眠気を飛ばすという目的で、軍・民で使用されていた。
 
現在でこそ覚醒剤の代名詞であるヒロポンだが、当時は副作用についてまだ知られていなかったため、規制が必要であるという考え方自体がなく、一種の強壮剤のような形で利用されていた。当時の適応症は、「過度の肉体および精神活動時」、「夜間作業その他睡気除去を必要とする時」、「疲労二日酔乗り物酔い」、「各種憂鬱症」であった。軍では長距離飛行を行う航空兵などに支給されている。ヒロポンの注射薬は「暗視ホルモン」と呼ばれ、B29の迎撃にあたる夜間戦闘機隊員に投与された。中には一晩で5機のB29を撃墜した例もあった(黒鳥四朗を参照)。ヒロポンは「決戦兵器」のひとつとして量産され終戦時に大量に備蓄されていた。
 
終戦により軍の備蓄品が一気に市場へ流出すると、煙草といった嗜好品の欠乏も相まって人々が精神を昂揚させる手軽な薬品として蔓延した。その依存者即ち「ポン中」が大量発生し、中毒患者が50万人を超えるなど社会問題となった。加えて中毒者が行う不潔な注射は肝炎ウィルスの伝染機会を増加させて輸血後肝炎が拡大する遠因となった。
政府は1949年昭和24年)にヒロポンを劇薬指定して覚醒剤としての製造の禁止を製造業者に勧告し、1951年昭和26年)に覚せい剤取締法を施行した。これに伴い、日本国内では同法により規定された少数の研究・医療機関への販売や、統合失調症ナルコレプシーの治療等、限定的な医療用途での使用といった項目を除いて、一切の使用・所持が禁止された(但し、日本薬局方医療用医薬品覚醒剤として、未だに処方薬として残っている)。よって現在では覚醒剤としてではなく、処方薬として「ヒロポン錠」「ヒロポン注射液」の二種類が製造されている
 
 
 
2008.03.11 Tue
 
大正八年に日本の科学者が合成したメタンフェタミンを用いた覚醒剤「ヒロポン」が市販されたのは昭和十六年(1893)、それと前後して、武田薬品工業「ゼドリン」、参天製薬「ホスピタン」、富山化学工業「ネオアゴチン」など、二十社を超える製薬会社から同様な処方の薬品が発売された。

なかでも「ヒロポン」の名が覚醒剤の代名詞のように使われたのは、そのユニークかつ覚えやすいネーミングのゆえだろう。
 
 
米国では第二次世界大戦以後も、ベトナム戦争、湾岸戦争を通じて、デキストロ・アンフェタミン製剤「デキセドリン」(通称・スピード)を一部の兵士に処方し続けた。
 
 
 
その後の取り締まりの強化と経済復興により、約十年にわたる国内のヒロポン禍もようやく下火になるが、昭和四十五年頃から、今度は朝鮮・韓国ルートによる覚醒剤密輸入が徐々に増加しはじめる。
 
 
 
マオウ(麻黄)からのエフェドリン抽出に成功し、のちに大量合成が可能であることを証明した。
 
リービッヒ(Justus von Liebig)の教え子であるヴィルヘルム・ホフマン(August Wilhelm von Hofmann)の化学の授業もあった。
この二つの授業が、その後の長井の方向性を決定づけることとなった。ホフマンに師事して化学・薬学を学び、化学実験などに没頭していく
 

 
エフェドリンの発見
 
バニリンの分離の後、日本政府は長井に帰国を要請した。日本の薬学を進展させ、大規模な製薬会社をつくるためである。日本へ帰国した長井には大きな期待がかけられていた。
  • 大日本製薬合資会社設立への参加要請
  • 帝国大学教授 理学部化学科の化学担任・医学部での薬化学専任
  • 文部省諮詢総会の会合に推挙
  • 内閣省御用係兼務
  • 衛生局東京試験局長
  • 中央衛生会委員
  • 叙勲 正六位
 
1885年(明治18年)に麻黄からエフェドリンを発見
 
テレーゼ・シューマッハ1862年1924年8月29日)は、ドイツ・アンダーナッハ石材木材を扱う旧家の出身。
 
 
 
大日本住友製薬(旧:大日本製薬)
 
 
 
 
 
 
19世紀初頭の英国は、産業革命を経て工業化が進展し超大国となっていた。一方ドイツは、ナポレオンの占領下、産業や社会全般が沈滞していた。化学を含む科学技術全般も英国やフランスに比べかなり遅れていた。その頃生まれた偉大な化学者、リービッヒ(1803)、ヴェーラー (1800)、ブンゼン(1811)等によって大学の化学教育が充実し、ドイツの化学は大発展して数十年で英仏を凌駕した。
 
1880年頃迄に後継の数百種のタール系合成染料が上市されたが、ドイツの勝利、英仏の敗退が確立された。そして零細企業として出発したBASF、バイエル、ヘキスト各社は、創業十数年で既に数千人規模の優良大会社に育っていた。
 
 
奇跡の真実 第百五十八話
 
 
 
 
1868年には設立して間もなかったベンチャー企業の BASF ( ビーエーエスエフ ) (バーデン・アニリン・ソーダ製造会社)が化学合成によってそれまで木の根から抽出していたアリザリン(アカネの木の色素)やインディゴ(藍の木の色素)を“大量かつ安定的に作り出すこと”に成功し、その人工染料のおかげでドイツ系ユダヤ人のリーバイ・シュトラウスはインディゴ(藍色)のリーバイスジーンズ(Levi’s jeans)をアメリカで販売できるようになりました。
その他、小さな染料会社だったバイエル社も1899年には柳の木から抽出していたサリチル酸を副作用の少ないアセチルサリチル酸に合成し、解熱・鎮痛用の“化学合成薬品”として「アスピリン」(日本では「バファリン」)を、
またケシの実から抽出していたモルヒネに塩化アセチルを加えて中毒性の少ない(注;実際はモルヒネより強い中毒性がある)咳止め薬として「ヘロイン」(正式には3,6-ジアセチルモルヒネ)を世界中で売り出すようになりました。
その結果、1890年までにドイツの化学工業、特に染色工業は世界の85%ものシェア(市場占有率)を握るようになり、現代(2005年)においても化学工業の売上ではBASFが世界1位、バイエル社が世界4位となっています。
 
その後、不況になったドイツは、個々の会社が価格などの談合をするだけでは飽き足らず、利益と特許権の拡大のため、1925年、バイエル社、ヘキスト社、BASF社といったドイツ6大化学会社が合併し、“イーゲーファルベン社”を設立しました。このイーゲーファルベン社は、発疹チフスを感染させるシラミの殺虫剤として「ツィクロンB」を開発し、その特許を取得。
ナチスが設立したアウシュビッツ強制収容所のガス室などでその効果について臨床実験を繰り返しました。1940年には250人のジプシーの子供達が犠牲になるなど、この「ツィクロンB」は一度、投下するだけで1000人以上の人間をいっぺんに殺傷できることが分かったため、その後は殺虫剤としてではなくナチスの“神経ガス兵器(化学兵器)”として重宝されることとなりました。
 
 
 
 
モルヒネ
 歴史
 
1804年ドイツの薬剤師フリードリヒ・ゼルチュルナー (Friedrich Sertürner) により、初めて分離される(この物質は、史上初めて薬用植物から分離されたアルカロイドとなった)。ゼルチュルナーはモルペウスにちなみモルフィウム (morphium) と名づけ、効用の研究・宣伝に当たった。しかし、1853年の皮下注射針の開発までは、モルヒネは普及しなかった。鎮痛の為に用いられ、また、アヘンアルコール中毒の治療として用いられた。南北戦争ではモルヒネは広く使用され、軍人病(モルヒネ中毒)による40万人を超える被害者を生み出した。また普仏戦争において、同様のことが西欧で起こった。
 
 
 
 
歴史
ロンドン・セントメアリー病院医学校のアルダー・ライトによって1874年に調合され、ドイツバイエル社から鎮咳薬として1898年に発売された。
 
 
 
フェンタニル
 
軍事用途
 
(引用終わり)

メモ 薬用植物栽培  大日本製薬 

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(引用開始)
 
薬学】ツムラ 漢方で使う生薬「甘草」の大量栽培に成功 栽培期間短縮、収穫量も7倍に
 
ツムラは10年前から北京中医薬大学などと研究を始め、中国で
栽培に適した土壌を突き止めた。主成分のグリチルリチン酸
2.5%以上を含むという医薬品の基準を満たし、通常5年の
栽培期間も1年3カ月と短縮、収穫量も7倍に上るという。

中国の特許登録手続きを完了しており、野生品の在庫が
無くなり次第、栽培品を使い始めるという。
 
 
国内で本格的な甘草の商業生産に初めて乗り出すのは化学大手の三菱樹脂だ。
 
 
 
 
[2010/10/28]
遺伝資源の国内確保・供給に向けて 日本で初めて薬用植物「甘草」の水耕栽培システム開発に成功!
植物工場生産に対応できる栽培システムを開発
 
鹿島建設株式会社
独立行政法人医薬基盤研究所
国立大学法人千葉大学
 
 
 
 
2004/02/05 22:19 【共同通信】
 
 自生地の中国が1999年から輸出を規制し、品不足が心配される漢方生薬、麻黄(まおう)の栽培に国立医薬品食品衛生研究所筑波薬用植物栽培試験場(茨城県つくば市)が成功した。  麻黄は風邪薬の葛根湯(かっこんとう)などに配合され、中国の内モンゴルを中心に自生する。96年には約700トンが輸入されたという。  中国は乱獲などで自生地が砂漠化するとして事実上の禁輸を続けており、あと2年ほどで日本国内の在庫が尽きるという。  同試験場は規制直後、保存していた株を北海道、和歌山県、種子島(鹿児島県)の各試験場に送り、各地で生育状況などを調べた。  北海道では雪の影響で地上部が枯れるため栽培に適さなかったが、ほかの試験場では3年で60センチほどに成長し、成分も薬としての基準値を満たしていた。
 
 
麻黄湯(まおうとう) インフルエンザに効果あり?
 
2009年5月8日 読売新聞
 
インフルエンザの治療に漢方製剤の「麻黄湯(まおうとう)」を使うと、抗ウイルス薬のタミフルと同じ程度の症状軽減効果があるという研究結果を、福岡大病院の鍋島茂樹・総合診療部長らが明らかにした。新型インフルエンザへの効果は未確認だが、タミフルの聞かない耐性ウイルスも増える中、注目を集めそうだ。

 日本感染症学会で4月に発表された鍋島部長らの研究は、昨年1月~4月に同病院を受診し、A型インフルエンザウイルスを検出した18~66歳の男女20人の同意を得て実施。うち8人はタミフル、12人は麻黄湯エキスを5日間処方した。ともに発症48時間以内に服用し、高熱が続く時は解熱剤を飲んでもらった。

 服用開始から平熱に戻るまでの平均時間は、タミフルが20・0時間、麻黄湯が21・4時間でほとんど差がなかった。解熱剤の平均服用回数はタミフルの2・4回に比べ、麻黄湯は0・6回と少なくて済んだ。

 麻黄湯のインフルエンザへの効能は以前から承認されており、健康保険で使える。

 鍋島部長は「正確な効果の比較には大規模で厳密な研究が必要だが、タミフルは異常行動などへの懸念から10歳代への使用が原則中止されていることもあり、漢方薬という選択肢の存在は大きい」と話している。
 
 
 
 
 
薬剤師としては、新型インフルエンザ等特措法案の審議過程において、薬剤師会等からの要望を伝え、豚サーベイランスの重要性、適切なワクチン調達・準備体制の構築、デュアルユースのリスク、麻黄湯など漢方製剤の活用などについて提起しました。
また、漢方薬・生薬認定薬剤師として、日本の伝統医学である「漢方の真価」について質問し、漢方を日本の国家戦略・新成長戦略とし、原料である生薬の国内栽培を推進していくことの重要性を力説しました。そのためにも漢方薬の薬価は、西洋薬とは別概念とするよう厚生労働省に提案し、健康局長から、関係学会等の要望や生産コストなどを精査した上で医薬品の安定供給が可能となるような適正な算定に努めていきたいとの答弁を得ました。
 

日本製紙は21日、挿し木増殖が難しいとされている薬用植物のうち12種(マオウ属、チョウジ等)について、同社が持つ独自の発根技術を応用し、挿し木による増殖技術を開発したと発表した。
日本製紙は、国内有数の薬用植物の研究機関である「独立行政法人 医薬基盤研究所 薬用植物資源研究センター」から薬用植物の地上部(茎葉)の譲渡を受け、独自に開発した発根技術である「光独立栄養培養技術」を応用し、増殖に取り組んだ。その結果、今回、2種の薬用植物にて十分な発根を確認することができたという。
 
 
 
 
 
 
 
治19年(1886)に日本薬局方が公布されたものの、局方に適合する薬品を製造する製薬所を個人で創設することは、当時では無理であったので、国庫の補助を仰ぎ、ドイツに留学中のドクトル・長井長義を製薬長として、明治18年、東京木挽町に大日本製薬会社が設立されました。 一方、大阪・道修町の有力薬業家において、先に大阪薬品試験会社が設立されていましたが、明治23年(1890)には武田、田辺、塩野義の三商店の共同出資により、ヨード製造を目的とする「広業舎」を設立して、舶来品に劣らない品質のものを製造しました。 さらに、旧来の伝統を有する道修町薬業の総意を結集して、大阪の地に近代的な製薬所を設立し、純良医薬品を提供するため、明治30年(1897)、日野九郎兵衛、田辺五兵衛、小野市兵衛、武田長兵衞、谷山伊兵衛を役員として「大阪製薬株式会社」が設立され、近代製薬事業の第一歩を踏み出しました。同社は明治31年(1899)に半官半民で経営難に陥っていた東京の大日本製薬会社を吸収合併して「大日本製薬株式会社」となり、海老江の新鋭工場を軸としてアルコールほか主に局方品の製薬に邁進しました。」
 
◆司薬場では、検査に合格した品質保証のため「司薬場検査済印紙」を貼付していました。大阪司薬場は明治16年(1883) 衛生局大阪試験所と改称され、検査済印紙は「衛生局試験所検査之証」と変わりました。明治22年(1889)『薬律』制定後、「自今衛生試験所において検査印紙を貼付するものは、日本薬局方所定の薬品に限る」とされました。 しかし実際に取扱われた薬品は、日本薬局方所定品でないものが多数あり、新薬品が続々と海外から輸入される時代となると、営業上に支障を来たすことが生じました。そこで、日本薬局方はもちろん、各国薬局方収載薬品のいずれにも記載していない新薬品などの試験をするため、大阪薬種卸仲買商組合は有力者14名を発起人として明治21年(1888)大阪薬品試験会社を設立、その検査済み印紙は、官立の大阪衛生試験所の検査印紙に匹敵すると評価されました。大阪薬品試験会社は、明治41年(1908)大日本製薬株式会社に合併され、その事業は同社の「試験部」として引き継がれました。
 
明治30年(1897)前後、大阪製薬業界では大日本製薬株式会社の発足があったほか、中藤昇平、岩井松之助、小西利七、石濱豊蔵、内林直吉、小西久兵衛、蓮井宗吉、須賀磯八、小野市兵衛、黒石卯之助らが、小規模ながら局方品製造に挑んでいました。 同34年の「重要物産組合法」により「大阪製薬同業組合」を設立する動きが出て、石濱豊蔵、小西利七、小西久兵衛が発起人となり、明治35年に設立を認可されました。 
初代総取締は石濱豊蔵、組合事務所は当初、東区伏見町二丁目中橋筋東入北側に置かれました。ここにおいて江戸時代の薬種薬種中買仲間の伝統を受け継ぐ道修町の同業組合は、流通面の「大阪薬種卸仲買商組合」と、製薬面の「大阪製薬同業組合」とに分かれたわけです。
 
そして製薬同業組合の流れは、戦後の「大阪医薬品協会」に引き継がれています。
社長 日野九郎兵衛
取締役 田邊 五兵衛   田邊五兵衛商店→田辺製薬
      塩野 義三郎   「塩野義三郎商店 塩野義製薬
      宗田 反治郎
      小磯 吉人    神戸市衛生局長
      小西 久兵衛  道修町の薬種商
      上村 長兵衛  上村工業株式会社
 
 
監査役 小野 市兵衛
 
享 保2年 初代小野市兵衛が道修町の現在地において、伏見屋市兵衛の屋号のもとに薬種仲買人として創業。 大正7年 東洋製薬化成㈱設立。(現・連結子会社) 昭和9年 資本金16万円の合名会社小野市兵衞商店に改組する。 昭和22年 商店の医薬品製造部門として日本有機化工株式会社(資本金19万5千円)、注射アンプル等医薬用硝子資材部門として日本理化学工業株式会社を設立して、資 材を含む医薬品の製造及 び販売の一貫作業を開始。 昭和23年 日本有機化工株式会社を現在名の小野薬品工業株式会社と改称し、日本理化学工業株式会社を解散する。
     
 
武田 長兵衛  武田長兵衛商店 武田薬品
      
谷山 伊兵衛 薬種問屋谷山伊兵衛商店
 
 
大阪道修町の有力薬業家は、輸入薬の横行から脱却し純良薬品の提供を目指して、明治29年9月、共同出資による近代的な製薬会社の設立を計画した。
  
発起人21名の中に、神戸市衛生局長 小磯吉人の名があり、翌年5月、大阪製薬株式会社が発足、小磯氏は取締役の一人に選任された。明治31年には、東京の大日本製薬合資会社を合併、大日本製薬株式会社と改称した。
  
小磯氏は常務取締役に就任、他の重役が自店の経営のため社務を顧みることが少ない中にあって、日野九郎兵衛社長を助けて常務の責務を果たした。
  
大正4年、小磯氏は二代目社長に選任され、第一次世界大戦下、外国薬品の国産化に尽力した。大正15年2月、死去。


 
 
 
 
 
小磯良平氏は、明治36年 神戸市の岸上家の8人兄弟の次男に生まれた。
大正14年、東京美術学校(現 東京芸術大学)4年在学中に実父 文吉が他界し、祖母の甥である初代神戸市長 小寺謙吉氏を通じて、小磯家の養子に貰い受けたい話が起こ
  った。
小磯吉人の妻 英(ひで)が謙吉の姉で、良平の祖母の姪であるという縁もあり、良平は吉人の願いを承諾し、吉人の死後、小磯良平となる。
 
また、武田薬品工業株株式会社社長 六代目 武田長兵衞は、小磯良平の支援者として有名である。
  
これは、武田家・小磯家ともに大阪製薬株式会社の発起人であり、役員であったことに由来しており、画伯の多くの名品の所蔵者として長く交友を続けた。
 
(引用終わり)
 

どうして韓国に入れなかったんだろう?

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御来訪ありがとうございます。
 
連日、「悪政」と言うよりは 「狂政」 と言った方がふさわしいことが起きているようです。
 
 
どこが、国家 nation なんだよ。。
 
 管理人は、なかなかPCの前に来られず、遅れまくっております。
 
 
 
 
わからないこと、気になることがありすぎて、困っています。
 
 メモ  ショール・アイゼンベルグ ①で、強大な力を持つアイゼンベルグ氏が
 どうして韓国に入れなかったのか? 
 
 
 戦時中に、悪さしていたと名前が出るのは、三井、三菱、安田などで住友財  閥は、 何をやっていたのか?
 
 戦後、帰還兵を苦しめたヒロポンという覚せい剤のネットワークはどうなった のか?
 
 
 ネットの中で、何人かの方が言う
 
 「小沢氏は、米国中枢と繋がっている」
 
 その中枢とは、ドコなのか?
 
 
わからないところばかりです。
 
 
 
 それで、アイゼンベルグ氏を韓国に入れないことを容認させた状況を
 検索していたら、次から次へ話が広がっちゃいました。
 
  
 困ったもんです。
 
 
 (引用開始) 
 
児玉誉士夫 巨魁の昭和史 有馬 哲夫・著 
 
 
 
 CIAは1947年にできるが、占領中は、日本と韓国では
    活動できなかった。 G2やONI(海軍)が、CIA(前身のOSS)を嫌い
    マッカーサーも認めなかった。
 
 CIAは、GHQに スパイとしてポールブルームを送り込んでいた。
    ポールブルーム 火曜会 朝日 笠信太郎 などと交流
    (管理人注 スイスでの終戦工作一つ)
 
 
 
  朝鮮戦争で、CIAとG2が共同歩調に。。
 
  ジャパンロビーは 次の総理は岸   
  ハリーカーン マックスビショップは、鳩山の後に岸を総理に
  
  CIAは (時期総理に) 緒方を担いだ。
   
 
  日韓交渉は1952年に始まっていたが、進まなかった
   1961年 クーデター 
  朴革命政権に手を差し伸べた 児玉と木下産商
   1962年には、池田総理のパイプとして児玉にコンタクト
 
   岸の息のかかった木下産商 ← インドネシア賠償
 
 
 
 緒方竹虎とCIA アメリカ公文書が語る保守政治家の実像 (平凡社新 書)

 

    CIAも アメリカ政府も、緒方総理を歓迎する。

    だが、緒方は資金力が不足しているし、三木武吉に裏切られ 
    総理になれないだろうとも。。
 
 (引用終わり)
 
  
 
鳩山氏が、日ソ外交に走り、緒方氏が急死して、CIAは 軍用機売買 も絡んで、
 
 自民党へ政治資金を送り、CIAは、安保改定をスムーズに、なおかつ  岸な ら密約が結べると岸を応援した
 
 と書かれています。
 
 
 朴大統領になってから日韓交渉は 早く決まりました。
 児玉氏が 民間交渉をして、そこに 伊藤忠の瀬島氏が、入ってくる という 有名な話になります。 
 
 
 1952年から交渉が始まっていたのに、進まず、アイゼンベルグ氏も  入れ なかったのか、日韓交渉後の 現物賠償に アイゼンベルグ氏が入れな か ったのかは、わかりませんが、アイゼンベルグ氏も入れないような何かが   あったのです。
 
 
 
 
岸の息のかかった木下産商?
 
 
(引用開始)
 
 
 
 
2012/12/21塚本素山〜wiki拾い読み ver1.2
 
軍隊なき占領〜ウォール街が「戦後」を演出した」G・デイビス/J・ロバーツ著117Pより
東南アジアのコネクション
……
木下商店がもっとも得意とする部門は鋼鉄であり、自民党岸派との接触は、主に木下商店社長・木下茂と、当時の富士製鉄社長・永野重雄の兄、永野護を通じて行われた。
永野重雄は日韓産業界の関係を促進する国家主義者グループ、韓国ロビーでも活躍した人物だが、彼の友人には創価学会の大物で金貸しの塚本素山がいた。塚本は、のちにが醜聞に巻きこまれる千葉銀行の大株主でもあった。
木下産商の取締役のひとりが、元駐米大使でハリー・カーンPRジャパン社のスポンサーであった谷正之だった。ジャパン・ロビーと韓国ロビーの利害関係は多分に重複しており、両者のあいだにはある種の同盟関係が生まれていたといえよう。
※岸=岸信介
 
 
(引用終わり)
 
 
 
 
メモ グルー  ハリーカーン
 
のなかに出てくる人ですね。
 
 
日本を逆コースに動かした ジャパンロビーの人です。
 
永野重雄氏がいたなら、アイゼンベルグ氏も仕事しやすかったと思うんですけど 補償事業に参入できなかった? という意味だったんでしょうか?
 
 
 
(引用開始)
 
 
 
 
 
 
 
 

「悪女について」と、「新しい公共」①

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 御来訪ありがとうございます。
 
 
 ちょっと、息抜きのエントリーです。
 とともに、あまり 御賛同いただけないかも。。?
 
 
 ややこしいので、章立てをします。
 
 
 なぜ、お父さんのプレゼントは、スベるのか?
 
 会社では、男は 女子どもである。
 
 悪女について
 
 男性原理から女性原理へ
 
 女は、それを 見ないふりをするが、危険は迫っている。
 
 上から来る新しい公共なんて
 
 やり過ごしてきたツケ  ごまかされた手口
 
 
 
 
 
① お父さんのプレゼントはなぜスベるのか?
 
 お父さんのプレゼントって、なんかずれてませんか?
 
 娘にバッグ買ってきて、「ええっーー」と言われたり、
 
 ダイエット始めたばかりの奥さんにケーキ買ってきたり、
 
 子どもが友達と遊ぶほうが楽しくなっているのに、家族旅行にこだわった   り。。
 
 家族のためを思っているのはわかるんだけど、なんかズレる。
 
 
 家族の方も、家族のことを考えてくれているのはわかるから、
 
 娘だって、成長すればニッコリ笑って「ありがとう」とか言うようになって
 
 もらったバックは、ほうっておかれることになる。
 
 お父さんは、「あんまり喜ばれてないなあ。。」 と 感じていそうなんだけど
 
 とりあえずは、それでおさまる。
 
 だったら、「何が欲しい?」って聞いちゃえばいいようなモンですが、
 
 あえてそれをしない という雰囲気がある。
 
 もっと、言えば、
 
 「この家族の中で、家族の意見を聞かないで決める」という立場を 自分は許 されている」
 
 という確認作業を 感じるんですよね。
 
 「社会」とつながり「社会の王道」を行っているのは自分だ。
 
 という意識。
 
 まあ、これは、一世代前の家庭なのかもしれませんが。。
 
 プレゼントに限らず、そういう場面で、
 
 「お父さんがしたいということ」
 
 と、
 
 「他の家族が、したいということ」
 
 で、調整が行われます。
 
 奥さんと子どもが、「お父さんを説得するために」
 
 共同で作戦立てたり、娘が、懐柔作戦に出たりする。
 
 気に入らないバックを貰った娘は、 父親と出かけるときに そのバックを
 
 もって行き、さりげなく バック屋さんの前に立ち止まり、
 
 「お父さん、この貰ったバック、いいんだけど
 学校に行くには、ちょっと小さいんだよねえ。。ニコ!)
 
 とか、で、新しいバックを買ってもらう (これ、実話 聞き書きだけど )
 
 
 お父さん という家族の構成要員に対して、他の構成要員が、対処法を考え る。
 
 
 一世代前の家庭は、上司 (父、夫)  部下 (妻、子ども) になってるんです ね。
 
 
 
 
② 会社では、男は 女子どもである。
 
 
 家では一番の上司であるお父さんは、カイシャというところに行くと
 部下というものになります。
 
 社長であっても、株主がいれば 部下になります。
 
 部下じゃないのは、ワンマン社長だけで、それでも、役所と銀行と対等ぐらい のヒトじゃないと、部下になっっちゃいます。
 
 つまり、カイシャというところでは、男でも、部下になれば、「女、子ども」にな  るわけです。上司が、お父さんでね。
 
 
 上司が、「Aという製品を取引先に売って来い」 指示を出したとします。
 
 賢明なる部下は、実はAという製品の改良版たるBが、半年後に
 発売されることを知っていた。
 
 もちろん、上司も知っている。 つまり、在庫処分を させようとするわ けです。
 
 しかし、賢明なる部下は考えます。
 
 「半年後に改良版が出るのに、今、売ったら、取引先は怒って、次はないの  ではないか?長い目で見れば、損失だよな」
 
 さらには
 
 「そうなったら、責任は、実際に商談した俺に押し付けられるかも?」
 
 
 と、思って、
 
 「半年後に改良版が出るのに、今、売ったら、取引先は怒って、次はないの  ではないか?長い目で見れば、損失だよな」
 
 の方を、遠まわしに上司に進言しますが聞き入れません。
 
 そこで、賢明なる部下は一計を案じ、元は自分だと判らないように
 迂回して、取引先に、「新製品B]の存在を知らせて、そちらからの商談である ようにして半年後の受注を取り付け、 在庫品Aの方は、まだそれが 通用す る国に輸出することになりました。(これも、実話。聞き書きだけど)
 
 有能なる部下のは、上司も怒らせず、顔も立てて、解決したのです。
 
 余分な働きをしてですが。。
 
 
 上司と、有能なる部下が、考えるのは、カイシャの存続と、自分の安泰です。
 
 お父さんと 妻子ども が考えるのは、家庭の存続と 自分の安泰です。
 
 
 おんなじでしょ?
 
 違うのは、責任の観念のように見えますけど、これも似ていて
 
 子どもの学校、病院、地域のことで、まず謝りに行くのはお母さん(部下)です よね。
 
 ちょっと コトが大きくなると、お父さん(上司)、あるいは、両親ともども(上司  部下そろって) ご挨拶に行くことになる。
 
 おおむね、小さなことは 部下の役割になり 奥さんが
 
 「何よ!何でもワタシに押し付けちゃってさー!」
 
 と思う。
 
 先ほどのカイシャの例でも、機転を利かせて、余分に働いたのは
 部下ですからね。
 
 
 それで、奥さん達は、ファミレスで亭主のグチを言い合い、部下達は、上司の グチを居酒屋で言い合う。
 
 
 ね、おんなじでしょ?
 
 
 ですが、違うのは、家庭では、相手によっては
 
 「お父さん、私じゃ相手にされないから、お父さん行ってよ」
 
 という、対外的には、男じゃないと甘く見られる。男が責任を取る。
 
 場面がまだあるのに対して、
 
 カイシャでは
 
 相手先が、「社長を出せ!下っ端じゃ話にならん」といきまいて
 上司が対応したとしても、処分されちゃうのは、大抵部下ですね。
 
 トカゲのシッポきりですね。
 
 
 もっとも、「家のことはみんな妻に任してましたから」
 
 で、逃げ切っちゃう、お父さんも珍しくないですけど。。
 
 
 
 本来、経験があるから 統括できて、ミスを見逃さないから、上司になる。
 上司というのは、責任を取って対処する役割で、部下というのは、実働すると いう役割。 部下が、その上司の 対処能力をや経験を見て
 「やっぱ、偉いなあ。。」
 
 と思って、尊敬するならいいんですが、そういう話は、あまり聞きません。
 
 上司だから 「エライ」
 「えらい」 から「従う。」
 
 
 「従う」が状態化すると、上司は 図に乗る。
 その最たるものは、軍隊ですが、「エラさ」の実質を問わない、という
 恐ろしいことになっています。
 
 今や、そのカイシャでの経験なんて関係なく、銀行あたりから降ってきた
 若造をですね。。。上司として迎えて、従わなければならないことになっている わけで、
 
 
 カイシャでの 男は、「女子ども」である。
 
 じゃ、男の闘争本能は、どうなるのよ!
 
 それが、「企業戦士」 ですね。
 
 24時間戦えますか? ってありました。(笑)
 
 
 まあ、これも、一昔前の モデルですけど、その名残りはありませんかね? 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
③ 悪女について
 
 
「悪女について」は有吉佐和子さんという作家の小説です。
 いちおうウィキ
 
 沢尻エリカさんがドラマでやったのをご覧になったかもしれません。
 
 この作品を、沢尻さんでやる というだけで、演出力がないのがわかります。
 
 この小説は、「世間で悪女と呼ばれた女は、愛されて、贅沢して幸福だったん だよ」 という有吉さんの 「誰かが作った世間」に対する嘲笑のような作品な んです。 もうちょっと言えば、「男」が構築した「世間」というものでしょうか?
 
 
 
 
 山崎豊子さんのいう作家がいますね。 華麗なる一族、二つの祖国 
 大変有名で、映画、ドラマによくなります。
 
 管理人は、この方の作品を 「不毛地帯」以後は、技量としては評価するが、
 作家としては 評価しない。
 
 この方の真骨頂は、「欲と色」とに右往左往する人間の行動を書くことにある んで、女系家族 女の勲章 あたりが、素晴らしいです。女の勲章の登場人  物である、「銀四郎」は、次々と女性を騙して、仕事をさせて、最後に女性の  一人が自殺すると、その新聞記事を広告料に換算して、「儲かった」と考える ような人物です。 つまり悪がいけしゃあしゃあと生き残る。 現実に近い世  界を書いているんですね。
 
 
 ところが、白い巨塔 となると、あまりにも有名になりすぎたのか、いけしゃあ しゃあでおさめることが出来なくなって、主人公はガンで死ぬ。 華麗なる一  族は長男が自殺して、銀行合併も 実は次なる合併のえさだった。
 
 
 と、勧善懲悪を作って、読者を安心させて通俗になる。通俗だからって
 小説として悪いわけではありません。(念のため)
 
 
 ところが、「不毛地帯」というのは、本来なら 「悪漢の野心が引き起こす、右 往左往と悪漢 の処罰」で、見事な通俗小説となるはずのものを 「本当は良 い人なにの、状況のせいで、悪いことに手を染める」みたいな書き方になって いる。
 
 
 「モデルと言われる瀬島龍三」というヒトの 実情を 「フィクションですから」と いうことわりをいれて、 多くの読者に 「記憶の刷り込み」をすることになりま した。
 
 最近 NHKでやった、「吉田茂」のドラマと同じですね。
 
 
 山崎豊子さんが、こういう風に、大作家としてもてはやされているのに、
 
 有吉佐和子さんは、「忘れられた作家」になっています。
 
 正確には、「女子どもの作家」として 位置づけをしようとしているみたいで す。
 
 華岡青洲の妻 や、出雲の阿国は、よくドラマになります。
 
 
 しかし、 恍惚の人  1972年  複合汚染1975 年 といわゆる社会派   でもありました。 
 
 このかたは、「女流文学」 の「女流」というのが、生涯、気に入らなかったよう なんですね。
 
 文庫の有吉さんの作品の解説は、ほぼ男性で 褒めている」んだかけなして い るんだか、歯切れに悪いのが多かったんですね。
 なんでこうなんだろう?
 ってわかったのは、管理人が高校ぐらいのときで、 いわゆる「文壇」というも のを作っている「男性」に、嫉妬されたんですね。
 
 最近 ウィキを読んで、父親が長州藩、横浜正金銀行のヒトだっていうので
 そういう方面だったのかも? とも思いましたが。
 
 読者は喜んでいる。本は売れる。 舞台、映画にはなる。
 しかし、いわゆる「文壇」は、評価しないというか、嫉妬を押し隠して
 
 「女の子で一番ならいいでしょ?」
 
 で、「女流」ってつけたんですね。
 
 有吉さんは、これが いやだったみたいで、 「男に負けてはならない。」
 と頑張りすぎちゃったところがある。
 
 
 ところが、「女流文学」の「女流」を 取って、「文学」の範疇に入るには
 「男」がそれを認めないとダメ なんで、 作品の質に嫉妬している
 「男」が、そんなの認めるわけがない。
 
 
 
 って、なんだ、ウーマンリブかよ!って思ったでしょ?
 
 違うんです。
 
 
 
これは、カルチャー サブカルチャーの位置とおんなじなんですよ。
 
 
 文学       女流文学
 棋士       女流棋士
 カルチャー   サブカルチャー
 
 
 
それは高度成長時代の甘えにすぎない
 
で、書いた、「誰かに容認されてサブに安住する」 の そのサブなんですが
 
そういう位置づけなんですよ。女流って。。
 
 
  (ああーっ やっぱり長くなった。 続きます ) 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「悪女について」と、「新しい公共」②

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の続き
 
 
 
それで、『 』付きで、見えない (メイン) の方達には、出来ない女性ならでは
の作品を描いた。それが、真砂屋お峰 悪女について 開幕ベルは華やかに
 などの作品群です。
 
 
悪女についての主人公富小路公子は、男には、「この子は絶対に自分の子  である。あるいは、自分の子ではない」 が言い切れないが、女は産んだんだ から自分の子には間違いがない。 (当時DNA鑑定なんてされなかったです  からね。血液型、耳垢型くらいで)  という、コトを使って、3人の男性を 騙し て、法律すれすれで、贅沢をして、セックスを満足させて、「輝く雲を取ろうとと して」転落死する。
 
騙されている方は、恨んでたり、嫌ってたりするヒトも多いですが、
幸せに騙されている方も多い。 なにしろ富小路公子には、騙している自覚  があるのかも怪しい。 女性に要求される、「多面性」をそのまま使うわけで  すよ。 昼は、淑女、夜は娼婦。 良妻で、賢母 って、要求したのは誰だっ  け?
 
 
先ほどあげた山崎豊子さんの  女の勲章の銀四郎も、白い巨塔の財前五  郎も、華麗なる一族の万俵頭取も、「悪いことする」時には、冷や汗をかいた り、身震いしたり、と「悪いことしている」という自覚がある。
 
ところが、富小路公子には、それがない。
 
 
平気で、を超える。
 
 
これは、同じ有吉佐和子さんの「芝桜」と言う小説で、 契約したのに金を
 
 払わない主人公、蔦代 が
 
 「だって、ワタシは、字が読めないんだもの。
 その契約は、私が読んでもらったとは違う」
 
 と、言い逃れするのとそっくりなんですよね。
 
 この男女の違いは、なんだろう?
 
 
 
責任を取る取らないとは違いますよね。
 
女の方は、確かに責任を取るのは、少ないですけど、経営者ともなれば
 責任はとらなきゃいけない。
 
 
 
 これは、きっと、男性には、「この社会(規範でもシステムでも)を作った責任」 は、男性なんだから、自分にもある。 と、思ってしまうから、破るとき自覚が あるし、知らないと恥ずかしいと思うんでしょうが、女性には、この社会(規範 でもシステムでも)を作ったのは、男で、自分たちではないから、責任はない。
 だから、乗り越えるのも躊躇しないし、知らないということも武器にできる。
 って、いうことでしょうかね?
 
 
 
 
それは高度成長時代の甘えにすぎない
 
の中で引用した
 
ビックリハウスの編集長だった高橋章子さんの発言
 
 
(引用開始)
 
高橋  ある社会の位置からものを見てしまうと、ここまでいってはいけないという束縛も出てくるわけね。男の場合。 ところが女って いうのは、あるパーツを攻めて,クオリティの高いことを生き生 きとできれば、「私いいの、それで」とかいって、盲目的にやれるタチなんですよ、女の子って。
 
山藤   「うん、うん」
 
高橋   んで、その盲目っていうのをうまぁく導入している男の人 が、いま一線なんですよね。嫌いは嫌いって言っちゃうみたいな人。 単純に言っちゃえば、みんなそうですよ」
 
山藤   (中略)  以前は、好き嫌いをナマに出すのはどうも恥ずかしい       ことだという感じはあったからね。男の美学では。。
 
高橋   ね。私はとりあえず女だから、その意味では勝っていたわけですよ。嫌いは嫌いで。ところが、女をうまく導入しちゃった、その ことを 知っちゃった男の人がいたら、なかなか勝てませんよ。
 
(引用終わり)
 
 
と いうのに繋がるんですよね。
 
「男」は、なんだかわからないけど、背負っていたものがあって、そんなのは
守ってもしょうがない。
 
この社会(規範でもシステムでも)を作った責任」 は、 男性なんだから、自 分にもある。社会の一画を得て、社会を担うなんて、バカ バカしい。だって、 社会を決めたのは、戦前からのえらいと言われている人で
デモやっても、大学占拠しても、社会を変える気ないんでしょ?
だって、正体は、民主主義じゃないもん。
 
と、学生運動を経験なさった 賢い方は悟ったんでしょうね。
 
 
だったら?
 
広告ブームとか、中曽根氏の 「日本人は、年に2万円、外国製品を買いまし ょう」とか言う、「無価値な価値生み」によって、生まれた余裕のなかで、
サブを容認されて、セクトの大将におさまってたほうが楽だし。。
 
という側面もあると思うんですよ。
(生き残って、かすかな抵抗をみせるしかない道を選んでるのかもしれんが)
 
 
ホラ、東大出て、霞が関に入る人が、昔、霞ヶ関を内部から変えるとか
意気込んで、インタビューに答えてたでしょ?
 
中に入ったら、たちまち「東大話法」に染まって、部下におさまるみたいな
もんです。 
 
 
 
 
④男性原理から女性原理へ
 
これは、橋本治さんの ナインティーンズに出てくる言葉なんですが
 
「時代は、男性原理から女性原理に動いている。
男性原理というのは、「家父長制」で、女性原理というのは、まだ確立され   ていなくて、今は未亡人が頑張っている状態である。
イスラム教というのは、男性原理が強いところだから、紛争が起こるのは
ここですね(これ、1989年の講演)
 
 
これ難しいんでよくわかんないんですけど、未亡人が頑張って、夫の残した
カイシャとかやっているとしたら、何よりも待望するのは、息子の成長だよ   な。娘の婿とか?
 
その息子や、婿が、ファシストだったら?
 
 
 
実は、高度監視社会で、思い浮かんだのは、有名な1984ではなくて
筒井康隆さんの「エディプスの恋人」だったんですね。
 
これは、「家族八景」「七瀬ふたたびの後の三部作最後のもので
前作で死んだはずの ヒトの心を読める主人公の七瀬が、なぜか生き返って
仕事場になっていたの高校生と恋をする。
 
その高校生は、実は、今は、神というか宇宙意志みたいなものになっている
女性の息子で、そのことは、その女性以前に、神、宇宙意思をやっていたと  いう男性から告げられるんですね。
 
 
七瀬はその男性に
 
「ちかごろ、この世界は女性化してきたと思いませんか?」
 
と聞かれる。
 
七瀬は、「最近の若い女性の醜さや、若い男性の美しさ」とかを
思い浮かべますが、そういうことではないのだろう。。と黙っている。
 
 
 
 
先ほどのサブカルチャーの話に戻りますが、
 
 
女性は、社会を作っていたほうではないから、社会が悪いのには責任がな  い。その分自由である。
 
一部の男性も、社会を変えようと思ったけど、社会作ったのは、ジーさんたち だもんね。だから責任ないから、自由である。
 
 
はい、見事に女性化しました。(苦笑)
 
 
しかも、エディプスの恋人の 神、宇宙意思は、神宇宙意思でありながら、
「自分の子ども、元の夫、子どもの恋人」を、優遇するんですよ。
死人を生き返らす、周り中の記憶も含めて、ヒトを消す。
 
 
今、起きていることと似てるでしょ?
 
 
責任を回避する。
 
自分の縁者だけは、優遇する。
 
 
支配者っていうのは、元々、そういうものなんですよ。きっと。
 
家父長制は、その昔、「建国」のときにはあったかも知れない統合の
イメージで、「国家」という「家」の統合のツールであり、それがないと
資本家は、戦争もさせられないわけで。。
 
 
 
⑤ 女は、それを 見ないふりをするが、危険は迫っている。
 
今の若い人はどうなんだろう?
 
引用する本も古く、話も古いので、昔もことだと思っているかもしれない。
 
でも、 若い女の子に話を聞くと
 
「結婚するなら公務員か、最低でも正社員」と強気です。
 
男の子に聞くと、「結婚なんかできるわけがない」と弱気です。
 
やっぱり、男の子には、
 
「食わせていかなきゃなあ。。」
 
 
それ以前に
 
「自分が食えるかなあ。。」
 
という何か背負っているものがある。
 
 
そこで、男子が女子にですよ
 
 
「自分も非正規なのに、どうして男だけ正社員じゃなきゃダメ!」っていう    の?
 
という怒りとか、問いは、表に出ないでしょう?
 
多くの男性が、
 
「いいの、ここで生き生き出来れば!」って、部下生活を選択した結果
 
衛星みたいなサブができてしまって、中央が空洞化する。
 
認可していていいよ と言ったサブでの、その自由さを野放しにするわけが
ないじゃないですか?
 
よって、男女共同参画ですよ。
 
それは、制度を作っていない故に、制度から自由であった、そして 上を
おびやかさない存在であった、「女性」を 優しい声で制度内に組み込む
もんなんですよ。 家庭で部下であった女性を、カイシャの部下にしちゃうん です。
 
この頃、ちらちら出てくる、女性兵士、女性自衛官。
今まで、男性に課せられていた、戦うという要素を 男女の差別なくやらせる
ということです。
 
 
もう、データ揃えて、待ち構えてると思うんですけどね。。
 
 
 
⑥上から来る新しい公共なんて
 
鳩山政権で新しい公共の話が出てきて、男性が思う 「共」ってなんだろう?
って考えたんだけど、思いつかない。
 
だって、男のヒトのマインドでは、 公私で、公(カイシャ)では、部下で、私(カ イシャ以外)では上司なんですよね。 共をどう捉えているのか?
ちょっとわかんなかった。
ましてや、政府が言ってくるわけで、部下マインド全開のはずで、それは
共なのか? と思ったら、結局、大企業の節税と、天下りと、若者ボランティ アタダ働き というのになっちゃいました。
 
「共」 っていうのは、 町おこしでも、自然保護でもなんでも
同じ志を持った人間が、その構成要員の特性と都合を考慮して、
自分たちでルールを決めてやるものでしょ?
 
自分らでルール決められなくて、何が 「共」なの?
 
政府にできることは、企業とかとのマッチングとか、援助とかそういうことだけ で、ヒト送り込んだら、公だし、企業丸抱えになったら、商売でしょ?
 
長いことボランティアやってるおばさんに聞いてみるといいよ。
ボランティア団体代表じゃなくて。。
 
自発的じゃなきゃできないよ。自分の時間削るんだから。
 
自分の家の中が、「私」じゃなくて、「公」「共」でもあった。という歴史の長い
女性に聞いてみれば、良かったのにね。
 
 
 
 
 
 
 
⑦やり過ごしてきたツケ  ごまかされた手口
 
 
以前、派遣斬りにあった人の言葉を書きました。
 
そのかた 経験があったので、ここをこうすれば
もっと生産ラインが良くなるって 派遣先に提案したら
中身も聞かずに
 
「派遣は黙ってろ」
 
と言われたと。。
 
これは、
 
ずうっと、女が言われていたこととおんなじなんですよね。
 
「女は黙ってろ!」
 
君たちは、構成要員ではあるけれど、サブである。
社会を作っているほうではないんだ
 
と、 ジーさん達がつくった社会が、世間が、こういっているわけです。
 
 
同じ扱いをされているんですよ。 99%は。
 
 
冒頭で挙げた、お父さんのズレと息子なんですけど、 就職できるか?
という某かの責任を背負っている男の子は、父親に
 
「こんな社会をそのままにしてきたのは、お前らじゃないかよ」という
もやもやとした怒りがある。
 
そしてお母さんも選挙権が長いことあったにもかかわらず、女だから
関係ないわ。。って顔している。
 
家庭の存続のために。。
カイシャの存続のために。。
 
真剣に話さなきゃならないはずのことを そらしてきてしまった。
 
敵もさるもので、
 
無価値の価値生みで出してきた余剰で、危険分子の居場所を作ってしまう。
サブカルチャー
 
東大紛争 ⇔反代々木 に対して
ノンセクトラジカル 日大で、敷居の低い誰でも参加できる居場所を作っちゃ  うわけで。。
 
巨大な力で、自分たちを脅かすものを無力化してきた。
自然発生したデモ割り込んでくる輩とかねえ。。
 
 
でもね、おんなじ99%なんだよ。
殺される順番が違うだけだよ。
 
と、周囲の人から、お話している管理人です。
 
 
 
 
御来訪ありがとうございました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

資料 アヘン帝国  汚れた歴史  預金封鎖 

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一部を引用させていただきました。ぜひ、原典をご覧下さい。
 
(引用開始)
 
アヘン帝国  汚れた歴史
 
アヘン帝国の支配者たち
 
1932 年 の 11 月には組織化されたアヘンの専売があり、 三井財閥が、さもこれが国内における麻薬の多量の消費を抑える目的のためとか称して、アヘンを栽培していた。 固定された栽培地が熱河省と吉林省の北西に設定された。1934-35 年の間の栽培面積は 480 平方キロメートル、1 平方キロメートルあたり 1.1 トンを生産していたと評価されていた。また、多くの非合法の栽培もされ、非常によく儲かるため、この危険な麻薬を効果的に抑制することに障害となった。 秘密の日本人の商人のグループである "Nikisansuke" が関与した。
このグループは以下から構成されていた。(訳注 : 英文の Wikipedia 内にリンクが張ってあって日本語表示があるものは日本語表示もつけています。)
  1. Hoshino Naoki(星野 直樹) (noted Japanese Army thinker)
  2. Tojo Hideki (東条 英機) (Japanese Army politician and leader in nation)
  3. Kishi Shinsuke (Merchant and right-wing supporter)
  4. Matsuoka Yosuke (松岡 洋右) (Japanese Army follower and foreign affairs minister)
  5. Aikawa Gisuke (Japanese Chairman of Manchukuo Zaibatsu)
  6. Kuhara Fusanosuke (Right-wing thinker)
専売は、1 年あたり 2000 万円から 3000 万円の利益を生み、満州国の産業発展に資金供給をした。
軍隊は兵士によるアヘンと麻薬の使用を禁止したが (これを破れば、日本の市民権を剥奪された)、 劣等種族の士気をくじくために使用することには許可を与えた。
関係者の一人である星野 直樹は満州国のアヘン専売局の儲けを抵当にして、 日本の複数の銀行から多額のローンを取り決めた。 別の当局者によれば、満州国の分も含め中国全体の麻薬の収入は日本軍によって年間 3 億円と評価されている。
類似の、アヘン専売制は日本が支配したアジア全体にあった。
 
 
Japan Times に載った記事、その 1 (興亜院と里見甫)
 
この報告書が興亜院に対するものであると結論されたのは、この文書に 1941 年 4 月 10 日付の及川源七 (興亜院の総務長官) 宛てのメモが付属していたためです。(日本語版 Wikipedia の興亜院の項目で「興亜院の人事」が書かれており、及川源七の名前が記載されています。)
興亜院の長は総裁で内閣総理大臣が兼任していましたから、これで日本政府が戦時下の中国における麻薬取引に直接関与したことが文書で明らかになったことになります
 
里見はまた次のようにも報告している。 彼の企業は、モルヒネやコカインを中国の市場価格で直ちに売ることが出来、 市場価格は帳簿価格の倍である
 
 
1937 年に設立された内モンゴルの傀儡政権は収入を増やすため、組織的にケシを栽培し、 取引をした麻薬取引業者の最大手が Hung Chi Shan Tang (里見機関) である。1942 年にはアヘンの収益は当初予算の 28 パーセントにも達した。
 
 
里見は更に文書の中で「アヘンはモンゴル政府が外貨を獲得できる唯一つの物資なので、 我々は販路拡大に最大限の努力をした。」とも述べている。
 
上海やそれ以外の都市からのアヘンの売り上げは直接東京に渡った。 調査の結果、東条内閣の時にはこのような金は内閣の秘密資金として割り当てられ、 国会議員の補助に使用された。これは戦後、日本と協力関係にあった中国の指導者を裁くための南京裁判で Mei Sze Ping が書面で提出したものの中に記載されている。
 
里見甫は東京政府から金を借りて、里見機関を設立したようで、その理由からも、また既存の麻薬の流通組織との摩擦を解消するために、 東京に金を提供したのかもしれません (ワイロ)。 一方で里見甫は新しいやり方を導入しようとしたようで Japan Times の最初の記事の中に次のようなくだりもあります。
 
モンゴルと満州国からのアヘンはすべて空輸され、昨年度、航空会社 (中華航空, Chinese Aviation Airway) に対する支払いは軍票で 300 万円に達した。
 
日本語の Wikipedia の「里見甫」の項目にはかなり嘘があります。「戦後はA級戦犯として起訴されるが無罪釈放。」と書かれていますが、Japan Times の最初の記事には
東京裁判のときに里見は A 級戦犯として逮捕されるが、不明な理由から、起訴されることがなかった。
 
無罪釈放ではなく、裁判を受けていないのです。理由が明示されないまま不起訴処分となったのです。
 
 
 
Japan Times に載った記事、その 2 (アヘンの専売制)
 
 
 
Japan Times の 3 番目の記事に、アジアにおけるヨーロッパの植民地でも (満州国などと同様に) 財政の 10 % から 50 % がアヘンの売り上げで占められていたとしています。例えば英国領のインド、香港、シンガポール、ポルトガル領のマカオ、オランダ領の東インド (現在のインドネシア)、フランス領のインドシナです。
このことは英文のホームページで独立に確認することになりました。 知りたかった点は第二次大戦ではインドシナ、インドネシアなどは日本が占領しますが、ここでも日本軍は麻薬の専売制を導入するはずです。どのような形態をとっていたのか調べようとしたことから、いくつかのページがヒットしました。
 
 
19 世紀後半に世界中でアヘンの消費が増大します。しかしながら20 世紀初頭に倫理的な問題に関しての議論が激しくなると各国は見かけ上は植民地および本国でのアヘンの消費量を削減する方向になります。 例えば、オランダは (植民地の) 東インドでのアヘンの製造と販売を自国の管理下におきます。アヘン専売制度 (Opium Regie) と呼ばれる制度が導入されますが、これはフランス領のインドシナ の制度を真似たものです。これでオランダ領の東インドでアヘンの消費が削減できるかどうか大いに疑問です。明らかに、アヘン専売制度の導入直後の 10 年間ではアヘンの売り上げは ずっと増え、政府に多大の利益をもたらしました。
 
 
Japan Times に載った記事、その 3(軍票)
 
 
1941 年 12 月 25 日に香港の英国殖民地政府が日本の帝国軍隊に降伏した後、 日本の新占領政府は翌日から軍票が香港の法廷貨幣であることを布告した。 日本の占領政府は香港ドルの使用を非合法化し、ドルを円に両替することに最終期限を設定した。それ以後にドルを所持するものは拷問されることとなった。 軍票が 1941 年 12 月 26 日に始めて導入されたときの香港ドルと円の為替レートは 2 対 1 であったが、1942 年の 10 月には 4 対 1 と なった。
ドルを手に入れて、日本軍は中立地帯であるポルトガル領のマカオで補給と戦略物資を購入した。
日本は 1944 年に戦争継続に絶望的な努力を払い、香港における日本の軍政府は更に多くの軍票を流通させ、結果としてハイパー インフレーションを招くこととなった。
 
 
国会図書館で見つかった文書から明らかとなった点は、1940 年代の蒋介石の yuan (元, 圓) に基づく法定貨幣から、 経済覇権を奪取して、軍票を助勢するためにアヘンを使用したことである。 軍票の価値を支えるためにアヘンが使用されたと言われていたが、どのようにして運用され、どれだけ (アヘンが) 使用されたのか始めて具体的に明らかとなった。
 
 
国会図書館で見つかった文書では里見甫が、アヘンの価格を「元」ではなく、(軍票の) 「円」に変更したことを報告しており、これが上の議論の根拠を与えているようです。なお、蒋介石 政府の法定貨幣 yuan は漢字ではどのように書くのか少しわからないので可能性のある漢字 (元, 圓) を列挙しています。軍票のことに関しては次も参考になります。
軍票
ここには「日露戦争・青島出兵・シベリア出兵・日中戦争・太平洋戦争に際して発行され、 日清戦争の時には印刷されたが発行されなかった」としています。 以下見るように、軍票は単独ではかなり危なかしいですが、麻薬とコンビを組めば、比較的に安定するようです。従って、軍票が発行された場所には麻薬中毒が累々と存在したことになります。
 
 
色々なページを引用しましたが少し整理をする必要があります。 第二次大戦前の多くの国では紙幣の価値を保障するために金などと交換可能でした (金本位制, Gold Standard)。ただ単に紙幣を印刷するだけではインフレになる可能性があります。 日本軍の占領下では、強制的に軍票を使用させたようですが、これだけでは紙幣の価値を保障することが出来ません。 端的に言って日本の軍票は「金本位制」ではなく「アヘン本位制」を取ったと言えばわかりやすいでしょうか。これが、Japan Times に掲載されている記事で述べていることです。また、これは日本軍が軍票を使用し始めた当初からこうであったようです。
しかし、これが可能となるためには、占領下の住民がアヘン (あるいは広く麻薬) を価値あるものと しないといけません。従って、占領下で麻薬が蔓延していないと、軍票の意味がなくなります。そのため、占領地で麻薬中毒がいなければとても困ることになります。 通常は日本軍は敵地を攻める前に、敵地で麻薬を蔓延させる下工作をしていますから、 占領と同時に軍票が効果を持ったことでしょう。しかも軍票以外の (敵の) 貨幣 (yuan) では麻薬を購入できないようにでもすれば、 貨幣の移行は極めてスムースに行くはずです。しかし、いくら麻薬で価値を保障されていても あまりに軍票を乱発すれば、ハイパーインフレーションととなることが必定のようです。
 
 
 
 
政府による預金封鎖
 
政府において、財政が破綻寸前になった場合、銀行預金などの国民の資産を把握して、資産に対して税金を掛けて政府収入にあてることで、破綻から免れようとすることがある。また市場に出回った通貨の流通量を制限し、インフレを金融政策で押さえる方法として実施される場合がある。その際通貨切替をして旧通貨を無効にし、市場通貨を金融機関に回収させる方法がとられることがある。この場合にも預金封鎖が行われる。
 
日本で行われた封鎖預金
 
日本では1946年戦後のインフレの中、新円切替が施行されると同時にこの方法が実施された。
 
 
新円切替
 
 
占領軍軍人は所持する旧円を無制限で新円に交換することができた。十分な新円紙幣を日本政府が用意できないため、占領軍軍人への新円支払いにはB円軍票が用いられた。
 
(引用終わり)

あの共産主義者って、アノ共産主義?2

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一部を引用しています。ぜひ、原典をご覧下さい。
 
(引用開始)
 
 
2012-10-
 
 
カール・スクリーバ、明治38年長崎で生まれ、父親がドイツ国籍で母親が日本人というドイツ国籍をもつ2世だった。
日本で就学した後、大正14年から米国カリフォルニア州のパサディナ大学及び南カリフォルニア大学に留学。
昭和8年日本に戻り神戸の外国商館に勤務する。昭和10年松下電器の貿易部門である松下電器貿易に入社する。米国占領軍が上陸すると、いち早く米軍のPXに勤めた。
しばらくして、松下幸之助は他の日本企業をしり目に、アメリカに渡り結局オランダのフィリップ社と提携する。
時はGHQによる公職追放や財閥解体などの、日本の混乱期である。
 
 
松下政経塾の原点は、共産主義から自分の企業を守るため。
 道徳再武装運動(MRA)に加わり、PHP理念でもって共産主義系の組合活動家たちを押さえ込んだ。
MRAによる日米間の交流は、国防総省やCIAの秘密のミッションの隠れ蓑にもなっていた。
米国の日本支配は、CIA, CSISを経由して行われていると言われているが、松下政経塾はその日本での下部組織に近い存在だとされる。MRAは明確にCIAのコントロール下にあった。
 
70年代以降、日米間の複雑に入り組んだネットワークの中枢を担ったのが、MRAの本部も兼ねていた日本国際交流センター(JCIE)だった。JCIEは、デヴィッド・ロックフェラーが委員長を務める日米欧委員会(三極委員会=トライラテラル・コミッション)の事務局を兼ねており、日本におけるロックフェラー財閥の代表機関になっていた。JCIE理事長の山本正は、「ロックフェラーの日本秘書」とも呼ばれ、一時期は「全ての事が山本を経由する」と言われるほど日米間のパイプを押さえていたという。デヴィッド・ロックフェラーやヘンリー・キッシンジャーをファーストネームで呼ぶことができる唯一の日本人とも言われた。
 
 
企業の共産主義組合に悩まされる幸之助は、企業を守るため模索し、アーノルド・トインビー(イギリスの諜報機関MI6の創設者)にその研究委託をしたところ、ロックフェラー系の研究所の指南・報告を受けて、MRA(道徳再武装)に加わるようになったことにある。松下はこのPHP理念でもって、企業と激しく対立する共産主義系の組合活動家たちを押さえ込んだ。
 
MRAの大物の一人が、グループの古くからのゴルフ仲間でもあった岸信介だった。60年代と70年代に、岸は他の悔悟者とともに、派手に宣伝されたMRAの国際会議で空涙を流した。日本では政治家だけでなく、実業家もMRAを支持した。とくに三井本家の弟の三井高維がそうだった。品がよく英語に堪能な三井は、MRAの創設者フランク・ブックマンを支持する欧米の裕福な人々のあいだに多くの友人がいた。占領期間中、MRAの会員には、一般の人たちよりずっと前から海外旅行が許可されていた。
松下幸之助は、戦後GHQより財閥指定を受けており、財界の活動が出来ない状態であった。その指定が他の財閥に先駆けて、解除されたのはこのときCIAなどと交換条件の取引があったのではないかと考えられている。
こうした取引は、児玉誉士夫(右翼運動家、黒幕。暴力団)、 笹川良一(政治運動家、右翼活動家、社会奉仕活動家)、岸信介(自由民主党)などなどの例がある。
 
みんなの党の江口 克彦が野田政権や松下政経塾出身の閣僚に対して非難する発言をする。しかし騙されてはいけない。彼は松下幸之助の大の信奉者であり、PHP研究所 社長として松下政経塾を全面バックアップしてきた人物である。いわば野田政権=松下政経塾の別働隊であり、CIAの意を受けた者と見られている。
 
 
 
 
 
その任務を担ったのが、初代CIA日本支局長ポール・ブルームであった。
ブルームは東京の渋谷区神山町22番地に住居を持ち、その近所には麻生太郎の生家があった。
当時の総理大臣吉田茂は麻生の祖父であり、麻生の家で、CIA日本支局長ブルームと吉田首相は、日本の経済成長や米軍駐留の政策について深夜まで話し合った。
やがてブルームは麻生太郎を自宅に引き取り、自分の「後継者」として、CIA日本エージェント=工作員として育てる。
 
麻生炭鉱で生産される石炭は良質であり、そのまま香港に運ばれ日本を攻撃する米軍の燃料として高額で買い取られた。石炭の代金は、中国で生産されるアヘン=麻薬で支払われた。
当時、日本軍に兵器を売っていた武器密輸商ブルームも、兵器の代金として日本軍が中国で生産するアヘンを渡されていた。麻生とブルームのアヘンは、イスラエルのアイゼンベルグとその部下である右翼の「大物」児玉誉士夫によって金塊に替えられた。
ここに麻生とブルーム、イスラエルのアイゼンベルグの接点=原点がある
 
アヘン代金の金塊を用意していたのは、中国のアヘン銀行デューク・ベレラである。その経営者ニコラス・デュークの部下=マフィア達は、戦後CIAの実働部隊としてCIAの活動を担う。またデュークは、米国で黒人を人種差別しリンチにする組織、悪名高いKKK=クー・クラックス・クランを創立する。
またデュークは、第二次大戦中の中国での麻薬売買により手に入れた莫大な利益で、KFCケンタッキー・フライド・チキンの経営にも乗り出す。
ブルームに育てられた麻生太郎の経営する麻生セメントは、戦後イスラエルのセメント会社ラファルジュと合併しその傘下に入る。ラファルジュの経営者はアイゼンベルグである。
第二次世界大戦中の中国でのアヘン売買組織、麻生=ブルーム=アイゼンベルグが、戦後そのまま日本=イスラエルのセメント業界ネットワークとなった。
この合併契約書を作成したのが、ラファルジュ顧問弁護士ヒラリー・クリントンである。
 
2000年7月16日付、「琉球新報」によると、1968年11月に行われた沖縄の日本「返還」後初の沖縄知事選挙(当時は主席公選と呼んだ)において、米国CIAが自民党の知事候補に選挙資金を援助し、自民党を勝たせるように裏工作していた事実が報道されている。
 この記事では、米国大使館から出された、「自民党にCIA資金を選挙の裏金として渡すよう」指示した、68年8月16日付の電文がスクープ掲載されている。
CIAが「日本の政治家の買収資金を提供」するのは、「沖縄での米軍の駐留・永久化」のためであった。歴代自民党政権は、このCIA資金に買収され、「沖縄を米軍に売り渡し」、その見返りにCIA資金の提供を受け、その資金で選挙に「勝利」してきた売国政権でった。
 なお、この沖縄知事選挙で自民党幹部職員として選挙を担当していた金尚氏によると、CIAの代理人として沖縄でCIA資金2000万円の授受を担当していたのは、小泉純一郎元首相である(週刊文春2002年8月15日、22日合併号)。
 
 
小泉純一郎元首相は、40年前からCIA工作員であった。
◆小沢一郎打倒を画策する謀略家で知られるハーバード大学のジョセフ・ナイ教授(クリントン政権の国防次官補、米諜報機関「国家情報会議=NIC」の頂点に立つ)が、「大阪維新の会」を率いる大阪市の橋下徹市長の勢いをテコに安倍晋三元首相を復活させ、自民党に政権を奪還させようと画策しているという。これを仲介しているのが、前原誠司政調会長というが、果たしてこの作戦の成否は、如何に?
民主党に政権が移り小澤の「アメリカと対等な関係」に危機感を感じたCIAが 、マスコミ・検察を総動員して小澤のネガティブ・キャンペーンを開始した。同時に民主党議員の取り崩しをはかったことが2012年1月20日の東京新聞で分かる。ウキリークスのリークによってアメリカが菅、岡田を選んだ事が詳細に記されている。アメリカは永久に日本を属国化する方針を変えていない
 
ジョン・ケリー新国務長官
2013-02-01 
http://blog.goo.ne.jp/yamanooyaji0220/e/ed8f09616a95037418124e962e24a18d
 
ブッシュ家とフォーブス家
 
米国の鉄道網を支配するブッシュ前大統領一族は、その鉄道建設のためにクーリーと呼ばれる中国人奴隷を酷使した。
クーリーは、厳しい重労働の苦痛から逃れるために麻薬、アヘンを求めた。アヘン無しには、全米の鉄道建設は不可能であった。
この麻薬の「必要性」から、1830年、ブッシュ一族は、米国のアヘン専売会社ラッセル・カンパニーを設立する。
このラッセル社の経営陣には、ブッシュ一族の他に、「名門」コロンビア大学を「麻薬資金で創立した」アビール・ロウ一族がいた。
さらにラッセル社の経営陣=取締役にはジョン・フォーブス一族がいた。
後に世界の富豪を紹介する雑誌「フォーブス」を創刊し、2007年、先のブッシュ大統領と大統領選挙で争ったジョン・フォーブス・ケリー上院議員を輩出する一族である。
このメディア王フォーブス一族は、共産主義革命によって1917年、倒されたロシアのロマノフ王朝の財宝を世界に売りさばき、その資金をソ連共産党に供与し、共産党政権を資金的に支える「画商」の顔を持ち続けてきた。
このフォーブスの「ロシア通」の顔が、2010年、ロシアから核兵器技術の「供与」を受けるイランのメディア界に、フォーブス一族を「深く食い込ませる」事になる。
フォーブスのアジア・太平洋支局から、イラン国営通信の記者に「転出」する事は、フォーブスのアジア支局から、イラン支局に「転勤」した事を意味し、麻薬業者フォーブスのメディア・ネットワークの内部で、「生計を立て続けている事」を意味している。
ブッシュ一族が、ラッセル社のアメリカ支部を「支配し」、フォーブスがロシア支部を支配する。このロシア派は、当然、ブッシュ一族の起こした911テロを批判する「仕事を担当する」。
2010年、この「共産主義派」フォーブス一族は、民間企業に偽装した中国共産党政府「経営」の、民間中堅・中小企業の経営コンサルティングの中核を担っている。
フォーブスによる、中国ビジネスの「支配」の一環として、日本に「派遣されてきている」ジャーナリストも多い。
2010年、アメリカが展開している、アフガニスタン戦争の軍事作戦の中核は、このフォーブス一族が作成している。麻薬業者フォーブスの目的は世界最大の麻薬生産地帯アフガニスタンの「支配」である。
 
 
 
ラッセル社役員のジョセフ・クーリッジは、クーリッジ大統領を輩出した名門だが、彼もまた阿片で儲けた利益で、中南米で奴隷を使ったバナナ農園開拓に乗り出し、奴隷たちが反乱をおこさないように、強力な軍隊でスパイ・監視する弾圧組織をつくり、この組織が後にCIAとなっていく。
 
このように、名門のエール大学、プリンストン大学、ジョンホプキンス大学、コロンビア大学、また世界の富豪を紹介する雑誌フォーブスを発刊するフォーブス一族(後にブッシュと大統領選を戦ったジョン・フォーブス・ケリーもこの一族)、ブッシュ一族、ハリマン一族、シティバンク、またブッシュ一族と関係のあるアルカイダ(イスラム過激派テロ組織のアサシンがルーツ)、など全て阿片ビジネスの利益で、設立されたり、莫大な財産を築いているのである。  
また、しゃぶ漬けにされた中国人奴隷(苦力)がアメリカに売られ、彼らをただ同然の賃金で働かせて、巨万の富を得た、アメリカの鉄道関係者の存在を忘れてはならない。
 
しかしながら、我が日本もアメリカを非難する立場には無く、三井・三菱も中国で阿片ビジネスを行い、日本は軍需国策会社 「昭和通商」 を設立し麻薬ビジネスをはじめ、中国でフリーメーソンのサッスーン財閥の麻薬利権を奪い、フリーメーソンやイギリスを本気で怒らせてしまった。 まあ、怒る方も怒る方だが・・・。
 
(引用終わり)
 
 

あの共産主義者って、アノ共産主義?3

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一部を引用しています。ぜひ、原典をご覧下さい。
 
(引用開始)
 
 
CFR会員で親中反日派のリーダー格、ラティモア

 ジョンズ・ホプキンズ大学の教授で、著名なシナ史学者だったオーウェン・ラティモアも、CFRの会員だった。彼の親中反日的な姿勢が、ルーズベルトの政策判断に大きな影響を与えた。
 
戦前のアメリカで、国務省内などに対日非難の世論を形作る中心的役割を果たしたものに、「太平洋問題調査会」(IPR:Institute of Pacific Relations)がある。ラティモアは、そのIPRの有力メンバーで、機関誌「太平洋評論」の編集長をしていた。
 IPRは1925年(大正14年)、太平洋地域の政治・経済・社会問題の調査及び地域諸国民の相互理解を図ることを目的として設立された民間団体である。戦前から終戦直後の時期まで、太平洋地或に関して権威のある国際的な研究団体だった。イギリス、アメリカ、日本など、12カ国が加盟した。各国の学者・研究者・財界人・ジャーナリストらが会員となっていた。資金の約半分は、ロックフェラー財団とカーネギー財団が提供していた。
 
 
 
ソ連の対米工作、CFRの容共親ソ体質

 1930~40年代、アメリカは東アジアの覇権をめざした。そして、日本と対峙するために柱となった政策が、中華民国の蒋介石を支援する「援蒋政策」だった。アメリカは中立国の立場でありながら、援蒋政策によって国際法に反した種々の軍事援助を進めており、事実上、対日戦争に参戦していた。そのなかで、ラティモアは、蒋介石政権の顧問として、蒋介石に中国共産党との連携を勧めていた。
 
ラティモアを蒋介石政権の顧問に推薦し、ルーズベルト政権との直接のつながりを作ったのが、ロークリン・カリーである。カリーは、時代を代表するエコノミストであり、ニューディール政策を立案・推進したニューディーラーの一人だった。ニューディール第2期に、左派色の強い経済政策を企画した「ケインズ革命」の立役者が、カリーだった。
 カリーは、ルーズベルトのアジア問題担当大統領補佐官となった。中国通としてルーズベルトや蒋介石に影響力を発揮した。そのカリーがルーズベルトと蒋介石を結ぶパイプとしてラティモアを推薦した。カリーは、ソ連のスパイだったことが明らかになっている。
 
近年、アメリカの公文書が公開され、アメリカは、日本が真珠湾攻撃を行う前の1941年(昭和16年)9月に、日本爆撃計画を策定していたことが判明した。真珠湾攻撃は、卑劣な「スニーク・アタック(奇襲攻撃)」と批判されているが、アメリカの方が先に先制攻撃を計画していた。この計画を推進したのが、カリーだった。ソ連のスパイとしてこの計画を推進したのは、日米を戦わせてソ連が漁夫の利を得るという構想によるものだろう。

 ラティモアは戦後、日本占領政策の実行において、非常に強硬な姿勢を示し、厳しい政策を提案した。さらに、わが国の皇室制度の廃止を主張し、天皇と皇位継承の資格のあるすべての男子をシナに流して抑留し、国連の監視下に置くべきだと主張した。反日・反皇室の急先鋒である。こういう人物がCFRの会員であり、またIPRの有力メンバーだったのである。
 
そうしたラティモアが「虎の巻」(片岡鉄哉氏)としていたのが、歴史学者E・H・ノーマンの著作だった。ノーマンは、カナダ共産党の党員であり、その歴史観は、わが国の講座派の歴史理論に依拠していた。講座派は日本共産党の理論であり、日本共産党はコミンテルンの日本支部として設立された。それゆえ、ノーマンの歴史観はソ連共産党の理論に基にしたものだった。それがラティモアに影響を与えていたのである。
 アメリカのIPRは、中国共産革命に理解を示す学者が多かったため、国内で激しい批判の対象となり、1961年(昭和36年)に解散に追いこまれた。グループの中で、特に厳しく追及されたのが、ラティモアだった。IPRがコミンテルンの宣伝機関となっていたことは、アメリカ上院司法委員会の調査報告で明らかになった。ラティモアの背後にコミンテルンがいたことは確実である。しかし、結局、ラティモアがスパイだという証拠は、上がらなかった。
 
 
ルーズベルトは、第2次世界大戦の末期、1945年(昭和20年)4月に死亡した。任期中につき、副大統領のハリー・トルーマンが昇格した。トルーマンはCFRの会員ではなかったが、閣僚にはやはりCFR会員が数人起用された。国務長官は交代で4人務めたがうち3人、スティティニアス、マーシャル、アチソンがそうだった。ウィリアム・アヴェレル・ハリマンが商務長官、スティムソンが陸軍長官、ロバート・ラヴェットが国務次官、後に国防長官となった。ネルソン・ロックフェラーは、FDR政権では国務次官補だったが、トルーマン政権では国際開発に関する顧問として引き続き政権に関わった。

 わが国は、対米戦争で敗れた。わが国に原爆を投下したのは、トルーマンである。敗戦後、1952年(昭和27年)4月28日に独立を回復するまで、わが国は、事実上アメリカの占領下にあった。この約6年7ヶ月の期間は、トルーマン政権の時代である。その間、GHQによって、日本弱体化政策が強行された。政策の立案・推進の中心となったのは、ニューディーラーたちであり、共産主義の信奉者や同調者が多かった。たとえば、マッカーサーの秘密指令により英文憲法を起草したグループの一人に、チャールズ・ケーディスがいる。ケーディスは、FDRの周りに多く集まったユダヤ人の一人で、ニューディール政策を進めた官僚だった。彼もCFRの会員だった。
   
 トルーマンは、アジアにおける共産主義の勢力拡大を許した。1945年、トルーマンは、マーシャル将軍を中国に派遣した。マーシャルは、蒋介石に政府に共産党員を入れなければ、支援を打ち切ると強要した。休戦を取り決め、共産党を窮地から救ったうえに、国民党政府への武器禁輸を断行した。帰国後、国務長官に任命されたマーシャルは、蒋介石政権の腐敗を強調し、毛沢東は共産主義者ではなく農民の指導者というイメージを広めた。こうした容共援毛政策の結果、シナ大陸は共産化されてしまった。当然、それはスターリンのソ連のアジア進出を意味する。
 
そのうえ、トルーマンは、朝鮮半島の北半分へのソ連進出を許した。1950年(昭和25年)、アチソン国務長官は、南朝鮮はアメリカの「防衛線」外にあると表明した。これを好機と見た金日成は南朝鮮に侵攻し、朝鮮戦争が始まった。今度は国防長官になったマーシャルがマッカーサーの中共軍の進撃を止める攻撃命令を取り消すなどし、戦争は長期化した。結局、38度戦で南北の分断が固定し、国家としてのアメリカにとっては、ほとんど意味のない戦争に終わった。利益を得たのは、軍産複合体のみである。一方、ソ連共産主義の側は、朝鮮半島北部に勢力圏を拡大した。
 アメリカの国益を考え、また自由民主主義を守ろうとするアメリカ人は、こうしたトルーマン政権のアジア政策を大失敗と断定する。しかし、国際金融資本とその外交政策企画機関CFRは、そのような政策を推進した。

 
2009年08月22日
謎の一族 「キャボット家」
 
 (引用終わり)
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