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■憲法第九条とのバーゲニング(取引)■「銀杯一組」の行方またこれに関連して白州次郎が興味深いコメントを残しているので「風の男白州次郎」(新潮文庫、P130)より紹介しておきたい。重ねて書くが白州は当時の日本におけるインナー・サークルの中心人物に深く関係している。樺山愛輔伯爵は白州の義父、そして牧野伸顕伯爵の娘婿である吉田茂の三女和子と麻生セメントの麻生太賀吉を結びつけたのも白州である。白州は「週刊新潮」の回想の中で、マッカーサーがオーストラリアの地で日本本土侵攻作戦を開始した時に、すでに新憲法草案は着手されていたと推測していた。白州によれば、新憲法が公布されると、政府はこれを記念して「銀杯一組」を作り、関係者に配ったという。白州がその銀杯をホイットニーに届けた際に、ホイットニーはこの贈り物を喜んだ。そして、「ミスター・シラス、この銀杯をあと幾組もいただきたいんだが・・・」と言いだした。その日、ホイットニーの部屋には、ケーディス以下何人かのスタッフが詰めていたが、彼の言う幾組という数字は、このスタッフの数をはるかに上回っていた。白州はその点を問いただすと、ホイットニーはつい口を滑らせたのである。「ミスター・シラス、あの憲法に関係したスタッフは、ここにいるだけではないんだ。日本に来てはいないが、豪州時代にこの仕事に参加した人間が、まだほかに何人もいるんだよ」「日本には来てはいない」という点で食い違いもあるが、豪州時代からマッカーサーと行動を共にしたのはホイットニー以外に、「43年9月にオーストラリアのマッカーサー司令部に派遣され、統合計画本部本部長、そしてマッカーサーの軍事秘書、司令部内の心理作戦部(PWB)部長として、日本人に対する心理作戦を立案、実行」したボナー・F・フェラーズもいた。フェラーズやその部下達の家に「銀杯一組」が飾られていないのだろうか。■「裕仁とフーヴァー、非常に重要」文書フェラーズと河井道には共通する日本人観があった。「戦争における日本人の残虐性は、精神的なよりどころとなる神が存在する西洋と異なり、そういった神が存在しない日本の宗教に起因する。そのような日本人を精神面から変える必要がある。」(フェラーズ文書「ピース・フロム・ザ・パレス」)という面で考えを共にしていた。ジョセフ・グルーもマッカーサーも敬虔な聖公会の信徒であった。クエーカーのフェラーズとは敬虔なプロテスタント系クリスチャンという点で共通している。そして、彼らすべてが共和党員であった。また、フェラーズの背後には共和党の重鎮がいた。それがハーバート・フーヴァー第31代大統領だったのである。フーヴァーとフェラーズは極めて親しい関係にあり、その交流はフェラーズの陸軍大学在籍中に始まっている。そして、なによりもフーヴァーもクエーカーであった。このフェラーズやフーヴァーの意向を受けて、極めて戦略的にクエーカーの理想を憲法第九条に反映されたと考えるべきだろう。そして天皇もしくはその周辺も受け入れた。その証が上の文書であり、さらに皇太子(現天皇)の家庭教師としてのエリザベス・バイニング(バイニング夫人)の起用にもつながる。この皇太子に米国人家庭教師をつける発案は昭和天皇ご自身のものであったとするのが定説になっている。1946年3月に謁見した米国教育使節団団長ジョージ・ストッダードに対し、その場で依頼したとされている。この時天皇は家庭教師の条件として、米国人女性であること、クリスチャンが望ましいが狂信的ではないこと、昔から日本のことを知っている「日本ずれ」した者でないこと、年齢的には50歳前後であることなどをあげたと言われている。フェラーズはこの年の1月頃に行われた吉田外相との会談で同様の提案をしていた。そして選ばれたのがクエーカーに属し、フェラーズの知り合いでもあったバイニング夫人だったのである。■フェラーズ周辺の日米インナー・サークル「シカゴ・サン」のマーク・ゲインは「ニッポン日記」(ちくま学芸文庫、P529)の中で、『「側近(インナー・サークル)」の人々は、長年にわたって、この一「寵児」マッカーサーと共和党の強固な保守的孤立主義者の中心とに密接に結び付いた政治的機関として活動を続けていたのである。この結合の中心役割をつとめたのはフェラーズだった。彼はハーバート・フーヴァ(注=ハーバート・フーヴァー)やシアーズ、ローベックの取締役会会長でかつて「アメリカ第一委員会」をひきいたR・E・ウッド将軍の友人である。』とも書いている。R・E・ウッド将軍はロバート・ウッド将軍のことであり、シカゴに拠点のある米最大の小売業シアーズ・ローバックの副社長、社長、会長を歴任し、ファースト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴ(FNBC、後にファースト・シカゴ、バンク・ワンとなり2004年JPモルガン・チェースによって買収される)やFRBシカゴなどの取締役を兼任したシカゴ財界の代表格であった。このフェラーズ、フーヴァー、ウッド将軍とシアーズ・ローバックは、ともにマッカーサーを大統領候補に推すキャンペーンに加わっている。彼らは、アンチ・ニュー・ディーラー、アカ嫌いという点でも共通しており、フーヴァーからフェラーズに宛てた手紙の中で「国務省から日本に送られている人間の中には、元共産党員や共産党のシンパがいる」と注意を呼びかけている点は興味深い。なお参考までに付け加えれば、前述した国際文化会館の松本重治が書いた「昭和史への一証言」にもフェラーズが登場している。45年9月に松本は高木八尺とともにフェラーズを訪ねている。この時、松本はフェラーズに「戦争を始めたのはどちらなのか」とたずねると、フェラーズが「ルーズベルト・ウォンテッド・エイ・ウォア」といきなり大きな声でどなった。この時松本は、悪いのは日本だけではなかったとの思いを強くしたと書いている。そして、松本は、パールハーバーも「ルーズベルトは少なくとも数時間前には知っていた。しかし、それをキンメル(太平洋艦隊司令長官)に連絡しなかった。だまし撃ちのかっこうにしたほうが、アメリカ人の日本への敵がい心を高め、世論を統一できるからです。」と書いている。このフェラーズと松本の見解は当時のフーヴァーやグルーなどがいた共和党インナー・サークル、そして彼らと戦前から密接につながっていた樺山愛輔伯爵や牧野伸顕伯爵(実父は大久保利通、吉田茂の義父にあたる)などがいた日本のインナー・サークルの共通認識だった可能性が極めて高い。日本国憲法の誕生3章 GHQ草案と日本政府の対応3-2 「日本の統治体制の改革」(SWNCC228) 1946年1月7日1946(昭和21)年1月7日、国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)が承認した日本の憲法改正に関する米国政府の指針を示す文書(SWNCC228)。この文書は、マッカーサーが日本政府に対し、選挙民に責任を負う政府の樹立、基本的人権の保障、国民の自由意思が表明される方法による憲法の改正といった目的を達成すべく、統治体制の改革を示唆すべきであるとした。すでに極東委員会の設置が決定され、米国政府は憲法改正問題に関する指令権を失うこととなったため、マッカーサーに対する命令ではなく、「情報」の形で同月11日に伝達された。のちにGHQ草案の作成の際に「拘束力ある文書」として取り扱われ、極めて重要な役割を演じた。米国政府はこの文書の中で、改革や憲法改正は、日本側が自主的に行うように導かなければ日本国民に受容されないので、改革の実施を日本政府に「命令」するのは、「あくまで最後の手段」であることを強調している極東委員会(FEC)日本占領管理に関する連合国の最高政策決定機関。FECは、Far Eastern Commissionの略称。1945年12月にモスクワで開かれた米・英・ソ3国外相会議で極東諮問委員会(FEAC)に代わり、日本の占領管理に関する機関として設置が決定。本部はワシントンに置かれた。委員会は、13か国(米国・英国・中国・ソ連・フランス・インド・オランダ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・フィリピン、1949年11月からビルマ・パキスタンが加わる)の代表で構成された。 委員会が決定した政策は、米国政府を通じて、連合国最高司令官に指令として伝達された。委員会の決定については、米・英・中・ソの4か国に拒否権が与えられていたが、緊急を要する問題については、アメリカ政府に、委員会の決定を待たずに指令を発する権限が与えられていた(中間指令権)。ただし、日本の憲政機構、管理制度の根本的変更および日本政府全体の変更については、必ず委員会の事前の決定を必要とした。対日理事会(ACJ)
連合国最高司令官に助言・協議するため東京に設置された日本占領管理機関であり、極東委員会の出先機関。ACJはAllied Council for Japanの略称。 1945年12月にモスクワで開かれた米・英・ソ3国外相会議で、極東委員会のワシントン設置とあわせて対日理事会を東京に設置することが決定された。理事会は、米・英連邦(オーストラリアが英国・オーストラリア・ニュージーランド・インドを同時に代表)・ソ連・中華民国の4か国で構成され、議長には米国代表である連合国最高司令官(またはその代理)が就任した。16.極東委員会と対日理事会 - KENBUNDENhttp://kenbunden.net/constitution/files/shiryou_ver002/16_071129_a.pdf#search='%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A+%E6%86%B2%E6%B3%95'前述のとおり、終戦当初の日本での施策は、連合国が行うこととなっていたが、事実上は米国の単独占領のもとに置かれていた。この状況に変化が生じるきっかけとなったのが、1945 年12 月16 日から26 日まで開かれた、モスクワ外相である。この会議は、現状では対日施策に関わることのできていない英・ソなどの意見により開かれ、会議の結果、日本占領管理機構としてワシントンに極東委員会が、東京には対日理事会が設置されることとなった。極東委員会は日本占領管理に関する連合国の最高政策決定機関となり、GHQ もその決定に従うことになった。特に憲法改正問題に関して米国政府は、極東委員会の合意なくしてGHQ に対する指令
を発することができなくなった。・極東委員会と対日理事会第一回の極東委員会の会合は、1946 年2 月26 日ワシントンで開かれた(対日理事会は4 月5 日)。
この2 委員会が、今後日本占領の重要な政策決定を行っていくこととなったのである。特に、憲法制定に関して大きな影響力を行使したのが、極東委員会である。つまり、マッカーサーは極東委員会が始動し、日本の新憲法制定に本格的に介入してくる前に、日本側が自主的に、民主的な憲法草案を作成したという既成事実が必要だったのである(引用終わり)