(引用開始)
住友人物列伝:総理事と呼ばれた人たち
広瀬宰平 その二 1
年、広瀬は別子近代化資金を得るため、わが国最初の銀行であった大阪為替会社に出資し、融資の引き出しに成功した。しかし、この会社は政府と大阪の豪商たちが出資した半官半民の会社であり、明治6(1873)年には早くも多額の不良債権を抱えて倒産してしまう。広瀬は、同社の出資者に清算事務を懇願され、明治10(1877)年までにかなりの債権を回収して出資者に分配している。
系図で見る近現代
第44回 明治・大正の世に隆盛を誇った高田商会とは?
創業者・高田慎蔵、そして、その末裔・高田万由子 (08.5.26記)
創業者・高田慎蔵、そして、その末裔・高田万由子 (08.5.26記)
その本では、高田慎蔵の孫に当たり、戦後、フランスに渡り、カメラマンののち、
ピエール・カルダンの店に入り、専務(当時)を務めた女性、
高田美(よし/2009年没)へのインタビューが、掲載されている。
また、日露戦争に関して、
「くわしいことは知りませんが、高田商会はヨーロッパで武器を買いつけ、
日本に送ると同時に、ロシアの革命軍の方にも武器を密売していたらしいんです。
つまり、日露戦争の後方撹乱ですね。
当時のことは最高の国家機密でしょうから、
どんな記録に出てくるか想像もつきませんが、(中略)
いまの天皇様(昭和天皇)が皇太子の頃にヨーロッパに来られたときは、
高田商会パリ支店がご案内した、というような話もきいたことがあります。」
まさに、政治的にも、経済的にも、非常に大きな存在であったという事であろう。
ピエール・カルダンの店に入り、専務(当時)を務めた女性、
高田美(よし/2009年没)へのインタビューが、掲載されている。
また、日露戦争に関して、
「くわしいことは知りませんが、高田商会はヨーロッパで武器を買いつけ、
日本に送ると同時に、ロシアの革命軍の方にも武器を密売していたらしいんです。
つまり、日露戦争の後方撹乱ですね。
当時のことは最高の国家機密でしょうから、
どんな記録に出てくるか想像もつきませんが、(中略)
いまの天皇様(昭和天皇)が皇太子の頃にヨーロッパに来られたときは、
高田商会パリ支店がご案内した、というような話もきいたことがあります。」
まさに、政治的にも、経済的にも、非常に大きな存在であったという事であろう。
当時の模様を、同年に高田商会の筆頭重役・石川慎一の次女・直子を
妻にもらった、のちの三井銀行社長・会長、佐藤喜一郎は、「私の履歴書」で、
「関東大震災が、日本経済に与えた打撃は非常なものだった。
第一次大戦の蓄積は大部分ははき出された。
これに大戦中の好況の反動もあって、私が帰国したころから
日本経済はおかしくなってきていた。
外国課にはいってしばらくすると、高田商会が破産した。
高田商会は海軍に物資を調達する会社で有名な老舗だった。
破産の直接の原因は内閣が更迭したため、
海軍が出すはずだった金を出さなくなったことにあったが、
この高田商会とは池田成彬さん(三井銀行筆頭常務)が懇意だった関係で、
三井銀行はかなりの融資をしていた。
そして当時の金で約四百万円というコゲつきを生じたのである。
けれども三井銀行は決算でこれを一度に償却した。それはりっぱなものだが、
われわれのボーナスまで半減されたのには、さすがに驚いた。(後略)」
と記している。
妻にもらった、のちの三井銀行社長・会長、佐藤喜一郎は、「私の履歴書」で、
「関東大震災が、日本経済に与えた打撃は非常なものだった。
第一次大戦の蓄積は大部分ははき出された。
これに大戦中の好況の反動もあって、私が帰国したころから
日本経済はおかしくなってきていた。
外国課にはいってしばらくすると、高田商会が破産した。
高田商会は海軍に物資を調達する会社で有名な老舗だった。
破産の直接の原因は内閣が更迭したため、
海軍が出すはずだった金を出さなくなったことにあったが、
この高田商会とは池田成彬さん(三井銀行筆頭常務)が懇意だった関係で、
三井銀行はかなりの融資をしていた。
そして当時の金で約四百万円というコゲつきを生じたのである。
けれども三井銀行は決算でこれを一度に償却した。それはりっぱなものだが、
われわれのボーナスまで半減されたのには、さすがに驚いた。(後略)」
と記している。
「話せばわかる」の真実!?原田熊雄日記「西園寺公と政局」(03.2.10記)
原田熊雄と言っても一般的には、あまり馴染みはないでしょうが、
彼は、戦前期、近衞文麿、木戸幸一、有馬頼寧ら、宮中グループが組織した
「十一会」に参加、革新華族の一人として宮中で活躍した。
西園寺公望の秘書だった彼は住友本社4階に部屋を持ち、
報酬等は住友財閥から出ていた。
そして、木戸幸一は西園寺の信任厚く、S15年内大臣となり、
西園寺に代わって天皇側近ナンバーワンとして重臣会議や後任首相の奏薦に大きな影響力を終戦まで持ち続けた。
彼は、戦前期、近衞文麿、木戸幸一、有馬頼寧ら、宮中グループが組織した
「十一会」に参加、革新華族の一人として宮中で活躍した。
西園寺公望の秘書だった彼は住友本社4階に部屋を持ち、
報酬等は住友財閥から出ていた。
そして、木戸幸一は西園寺の信任厚く、S15年内大臣となり、
西園寺に代わって天皇側近ナンバーワンとして重臣会議や後任首相の奏薦に大きな影響力を終戦まで持ち続けた。
原田熊雄の母、すなわち、原田豊吉の妻・照子は、ドイツ人と日本人のハーフ
妻・照子はドイツ人貿易商ミカエル・ベアと日本女性・荒井ろくとの間に生まれたハーフであった
都留重人(しげと)の名前が縁者にある
初代・芝川又右衛門 ~通商司開設・通商会社と為替会社~
2008-08-15 11:14:07
こうした弱点を克服するために素地の改良に取り組むべく設立されたのが「芝川紙製漆器工場(後の「芝川漆器合名会社」)」です。
この事業は、東京高等工業学校校長 手島精一氏の紹介で、ドイツ人科学者 ゴットフリート・ワグネルの下で応用科学を研究した間瀬正信氏に芝川家が出資する形で始まったもので、明治27(1894)年より、当初は日本蒔絵合資会社の事業として三軒屋の芝川家所有の土蔵において試験的に製作が開始されました。
その後、「ヘンリーペーリー会社製350噸の汽働水圧器」を購入して本格的な製造を開始し、明治33(1900)年、蒔絵会社から分離した芝川家単独経営の「芝川紙製漆器工場」が千島新田の木津川沿いで始業しました。
この事業は、東京高等工業学校校長 手島精一氏の紹介で、ドイツ人科学者 ゴットフリート・ワグネルの下で応用科学を研究した間瀬正信氏に芝川家が出資する形で始まったもので、明治27(1894)年より、当初は日本蒔絵合資会社の事業として三軒屋の芝川家所有の土蔵において試験的に製作が開始されました。
その後、「ヘンリーペーリー会社製350噸の汽働水圧器」を購入して本格的な製造を開始し、明治33(1900)年、蒔絵会社から分離した芝川家単独経営の「芝川紙製漆器工場」が千島新田の木津川沿いで始業しました。
The Board of Social Sciences 2000 10.1
Copyright 2000 Tarumi
ド ッ ジ ・ ラ イ ン の 枠 組 み と 評 価
樽 見 秀 男
Copyright 2000 Tarumi
ド ッ ジ ・ ラ イ ン の 枠 組 み と 評 価
樽 見 秀 男
ディーン・アチソンによって命名されたGreat Crescentは、日本から東南アジアを通りインドを一巡し、ペルシャ湾岸の油田にまで伸びる三日月型戦略地域であり、東アジアの封じ込め政策の基礎であり、また、この地域でアメリカが安全保障を考える上での戦略地図であった。この考え方はやがてNSC48/2 にみられるように、地域的安全保障政策と世界経済の論理の一体化というアメリカの戦略に統合されていくのである。(3)
ケナンは地政学的見地から東アジアにおける対共産圏の防波堤となりうる日本を重視した。これは日本をソ連や中共と対抗する強国として復興させることを意味しなかった。
彼の「逆コース構想」では、日本はアメリカに友好的で、外交問題はアメリカに従い、経済的には消費財中心の二流の生産国となることが構想された。
彼の「逆コース構想」では、日本はアメリカに友好的で、外交問題はアメリカに従い、経済的には消費財中心の二流の生産国となることが構想された。
しかし、ケナンが「逆コース構想」を書いている時、「ボグダン・タマーニァ報告書」に 基 づ い た 、 よ り 民 主 的 な 占 領 管 理 経 済 行 政 が ニ ュ ー デ ィ ラ ー に よ っ て 実 施 さ れ て おり、これはボッダム宣言や「初期の基本的指令」に整合的な占領行政の一環であると考えられた。
ニューディラーの基本的考え方は、天皇制、軍国主義およびそれを支えた政財界の守旧派を一掃し、真に民主的と考えられる人材を政治の中枢とし、且つ、「ボグダン・タマーニァ報告書」が規定する枠組みの占領管理経済を労働者や中小企業などの地位を向上させつつ運営していこうとするものであった。(4)
日本の政財界をパージされた守旧派はアメリカの保守派にその窮状を訴え、アメリカの保守派はこれを契機にGHQ の占領政策を批判した。その最初を飾ったのが1947年1 月27日の『ニューズ・ウィーク』に掲載されたコンプトン・パケナムの論説であった。(5)
「追放を財界へ及ぼしたため、日本の財界人は二万五千人から三万人がその職を追われ、その上、三親等までその職につけないから、犠牲者は約二十五万人にのぼる。これによって日本の全経済機構の知能がのぞかれることになる。当然の結果として、日本の経済界は、新円成金や闇屋、山師などの手にわたってしまうであろう。極左の連中は、えたりとばかり、虎視たんたんとしてねらっているソ連のために、これを利用するだろう。
… 有能で、経験と教養をもった国際的な階層- いつも米国と協力しょうとしている階層が切り離されてしまのである… 。
… 有能で、経験と教養をもった国際的な階層- いつも米国と協力しょうとしている階層が切り離されてしまのである… 。
多くの占領軍将校は、日本人と同じように当惑している。あるものは、米国議会は日本に委員会を送って、米国の資本主義原則が、どうして米占領軍当局の手でぶちこわされようとしているのか、調査すべきだ、という気持をもっている… 」と彼は論じた。
( 住本利男『占領秘録』毎日新聞社、1952年。p.144.)
( 住本利男『占領秘録』毎日新聞社、1952年。p.144.)
ジョージ・ケナンは、東アジアにおける日本の戦略的位置を重視し、「逆コース戦略」を書き上げるのに、マックス・ビショップなどのジャパン・ロビーの意見も参考にした。
マックス・ビョップやジェームス・リー・カウフマンなどの占領政策批判も、1947年はじめのパケナムの論説の延長線上にあるか、または立場を同じくするものであった。ビショップは国務省が直接占領統治することも考え、カウフマンは、日本の守旧派を再登場させより右寄りな日本経済を復興させるため、ワシントン政府に経済専門家の派遣を要請したのである。
マックス・ビョップやジェームス・リー・カウフマンなどの占領政策批判も、1947年はじめのパケナムの論説の延長線上にあるか、または立場を同じくするものであった。ビショップは国務省が直接占領統治することも考え、カウフマンは、日本の守旧派を再登場させより右寄りな日本経済を復興させるため、ワシントン政府に経済専門家の派遣を要請したのである。
この説の含意を読み取ると、「逆コース」という180 度の方針転換が冷戦の結果によるものではなく、むしろ原因になっていはしまいかとしているとこと、小グループの圧力団体などが、正式な権限はもたないが、私的な意思をワシントン政府に押しつけて、長期政策として承認させてしまう、ということである。この意思と行動こそジャパン・ロビーの本質である。
(引用終わり)