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メモ グルー  ハリーカーン

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(引用開始)
 
橋問叢書 第四十九号]  一橋の学問を考える会

アメリカの対日戦後政策   一橋大学経済学部教授    中村政則
      ― グルー元駐日大使を中心として ―
 
 
グルーと「穏健派」
 じゃ一体どういう人々を彼は穏健派と見ていたか。牧野伸顕、西園寺公望、幣原喜重郎、浜口雄幸、若槻礼次郎、近衛文麿、樺山愛輔、吉田茂、出淵勝次、これは駐米大使ですけれども。新渡戸稲造、こういった人々がグルーにとっての穏健派なんです。この穏健派というのはいずれも欧米に留学、あるいは勤務した経験があり、品位と威厳を備え、謙虚で教養の高い紳士であるというのがグルーの穏健派イメージであります。

 いま言った宮廷グループ、外交官のはかに三井、三菱とか、そういった財閥系の指導的実業家、あるいは海軍将官とグルーは接触を保っておりました。これはアメリカの学者のウォルド・H・ハインリックス教授の書いた『日米外交とグルー』から取ったのですが、グルーの交際範囲というのは、一が海軍将官、二が大実業家、三が宮中グループと分けております。その中でも最も重要な情報源は宮中側近グループでした。
 それから、もう一つは、彼の外交スタイルが宮廷外交のスタイルでありました。つまり戦後のライシャワーの民間外交、学者外交、あるいはマンスフィールドの議員外交とか、そういう外交スタイルと違うわけです。まさに宮廷外交のスタイルでありまして、ともかく牧野伸顕とか、特に樺山愛輔 ― 先ほどダッシュで名前が消されていると申しましたが、消されている人物は樺山愛輔、吉田茂、出淵勝次、そういったような人なんですが、彼らが重要な情報源なんです。
 
 
 
グルーの戦後対日構想

 グルーは五月八日ごろ、ということはドイツの無条件降伏の翌日でありますが、ヤルタ秘密協定と原爆開発計画をスティムソンから知らされているんです。ご承知のように、ヤルタ秘密協定で、スターリンはナチスドイツが降伏してから三ヵ月後に対日参戦することを米英首脳に約束したわけです。そのかわりにチャーチルとルーズベルトは千島列島をソ連に引渡すと言った。まったく大国同士の取引でして、いまだに北方領土問題で尾を引いています。

 このヤルタ秘密協定にもとづいて、もしソビエトが対日参戦して戦後の日本に大きな影響力を持つということになると、つまり軍事的な勝利を勝ち取る上でソビエトの軍事力が物すごい意味を持つことになると、戦後の日本に対するソビエトの影響力が強くなり過ぎるのではないかということで、グルーはヤルタ秘密協定の修正を国務長官に進言したのですが、これは事実上拒否されてしまいます。

 もう一つはS1計画と言いまして原爆開発計画です。東京が三回にわたって猛爆撃を受けている。宮城も焼けた。そのうえ、また原爆を落とすようなことになれば、和平交渉の主体となる穏健派も焼き殺されるかもしれない。そうなれば日本を早期に無条件降伏に引き出すことはますます困難になる。しかも原爆の完成まであと三カ月だと聞かされている。もはや一刻の猶予もならないというのがグルーの判断でありました。グルーは日本に無条件降伏の呼びかけをやれば必ず天皇問題を持ち出してくると読んでいたのです。これは後にそのとおりになりました。

 日本がポツダム宣言を受諾するにあたって、御前会議で最後までもめたのが一条件でいくか、四条件でいくかにありました。結局、一条件、国体護持だけでポツダム宣言を受諾するということに決まったわけですけれども、グルーは何らかの形で天皇制を残す、あるいは戦後の日本の政治形態は国民の自由な意思によって決められるんだということを言ってほしいとトルーマンに何度も言ったわけです。

 なぜグルーはそれほどまでに天皇制を残すことにこだわったか。これは単に天皇が平和主義者だとか好きだからとか、そういうのでは全然ありません。アメリカ人の日本観とか天皇観を見るときに思うことは、非常に合理的というか、ドライというか、戦後になってくると冷戦の論理と納税者の論理、タックスペイヤーの論理で動いていくと私は見ていますが、この段階でグルーが天皇制を残した方がいいと言った理由を幾つか挙げておきますと、第一は、日本には戦争を終結させることのできる人物は天皇しかいない。

 第二は、中国、フィリピン、香港、インドシナ、タイ、マレー、シンガポール、ビルマ、ボルネオ、スマトラ、こ
ういう地域、南方地域に百万-普通三百万と言います。満州に百万、中国本土と朝鮮に百万、それから南方に百万。三百万の日本軍がいたわけです。この日本軍を一掃することは長くかつ犠牲の多い戦いを必要とする。しかし天皇が詔勅を出して日本軍に武器を捨てよと命ずれば数十万のアメリカ兵の命は救われるはずだ。
 第三に、もし天皇制を廃止すると声明すれば、アメリカ軍が東京を占領したとき日本人の敵がい心は一層強まりゲリラ活動は頻発するであろう。ここでも多くのアメリカ兵の生命が失われることであろう。
 
 
 
第四に、日本に民主主義を接ぎ木することはできない。それは日本に適さないし、うまく機能しない。したがってもし日本人が天皇崇拝を維持したいというならそのようにさせるのがよい。軍国主義を一掃すれば天皇制はむしろ日本にとって資産となろうと、こういうことなんです。

" American Council on Japan "と対日占領政策の転換
 
大急ぎで最後の部分にはいりますが、実は日本がポツダム宣言を受諾した八月三日にグルーは国務次官を辞めます。これで自分の任務は終わったというわけです。国務次官辞任後バーンズ国務長官からマッカーサーが占領軍最高司令官として日本に行ったから、あなたが政治顧問としてマッカーサーを補佐してほしいと頼まれたのですけれどもグルーは断ります。

 三つほど理由を挙げていますが、第一に、マッカーサーは日本占領の第一歩を立派に踏み出した。それにマッカーサーという人は人の意見を聞くような人ではない。

 第二に、十年以上も日本に住み多くの友人を持っている者が、征服者の顔をしてまた日本へ戻りたいと思うだろうか。私にはできない。第三に、胆石がしばしば私を悩ませている。日本に行けるような健康状能ではない。こういったようなことを挙げまして、そのかわりにユージン・ドウーマンを推薦するんですが、実際に来たのは対日強硬派のアチソンです。

 戦後の日本は、簡単に言うと天皇制を残し穏健派を中心とした、そういう日本をつくるというのがグルーの構想でた。ところがこのグルーの構想は結果的に言いますとそのとおりになったわけですが、その間に幾つものジグザグがあるわけです。どういうことかと申しますと、実際にマッカーサーがやった占領改革というのは、グルーが考えていたよりもはるかにラディカルな改革をやったわけです。それは軍隊機構の解散、政治的自由の承認、農地改革等々、要するに皆さんが経験してきたことですから、もう私が言う必要はないと思いますけれど、結局グルーは、この初期改革というのは行き過ぎているということで、一九四八年にアメリカ対日協議会というのをつくりまして、いわば日本占領政策の軌道修正を図る方向で動くんです。アメリカン・カウンスル・オン・ジャパン。言ってみれば日本ロビーでありますけど。一九四七年の夏ぐらいからアメリカは明らかに対日占領政策を転換したわけです。
つまり初期は非軍事化、民主化。ディミリタライゼーション、デモクラティゼーションそれにディセントラライゼーショをくわえれば、スリーDということになりますが、地方分権化と言いましょうか、そういう戦後改革を推進したわけですが、ソビエトとの冷戦状態が顕在化する。さらには中国革命が現実的な日程に上ってくる。アメリカの対アジア政策が根底から修正を迫まられた。そもそもヤルタ会談のときでも、蒋介石を中心とする中国、これをアメリカのアジア政策の要としていたわけですから、その構想が崩れたわけでして、日本に対する占領改革を言ってみれば和らげて、非軍事化、民主化から経済復興へスイッチする。場合によったら再軍備を進める。普通「逆コース」と呼ばれる占領政策の転換がじょじょに進行します。このアメリカの占領政策の転換を公的に確認したのが一九四八年十月に出されたNSC13ー2文書です。ナショナル・セキュリティ・カウンスルつまり国家安全保障会議の13-2号公文書。
これにトルーマンがサインしたことによって、アメリカの占領政策は公的に転換したと言っていいでしょう。

 
この占領政策の転換をリードしたのは陸軍次官のドレイバー、あるいはジョージ・ケナンでありますけど、そのほ′かにカウフマンとかパケナムとか、『ニューズウイーク』の記者であったハリー・カーン、そういったような人々が後で動いて対日政策の転換をおしすすめたわけです。グルーはグルーの前の駐日大使であったウィリアム・キャッスルとともに対日協議会の名誉会長として、先はどのNSC13ー2の政策文書を引き出すように動いたり、あるいは四九年のいわゆるドッジラインを敷いて経済復興に持っていく。こういった政策転換の背後にグルーがいたということにご注目願います。
 
裏政治史
 
ドーマン機関は1945年11月ニューヨーク・マンハッタンの「真珠商会」で結成された。ACJの発起人でもあるドーマンの名を冠したこの組織には、彼のほかに、カーン、カウフマン、そして「真珠商会」の経営者である日系二世ケイ・スガハラといった面々が名を連ねていた。彼らは、日本における「天皇制」の維持、軍の再構築、財閥の復興を掲げて団結したのだった。
戦時中OSS(戦略情報局、CIAの前身)に属していたスガハラは、戦後、ドーマンの下で働くようになり、旧児玉機関を再編成して、中国本土に隠されていた500トンのタングステンを市価の半値以下で、密輸した。これを市価の6割で国防総省に売却したCIAは、そこで得た差額を対日工作の資金に充てたという。このあたりのいきさつは萬万報の園田義明氏の記事Wの衝撃に詳しい。
注目すべきは、彼らの活動の中心には、必ずといってよいほど、オーガナイザーとしてカーンの姿があったことである。
 
 
この声明を紹介したうえで、著者のワイナー記者は、次のように書いている。「CIA、国務省、及び国家安全保障会議関係者と私が行ったインタビューによれば、4件目は岸に対する支援である。」――。
第2次岸政権下の58年総選挙で、岸信介元首相がCIAから秘密資金援助を受けたと断じているのだ。
同書では、岸の他にも、東条英機内閣の蔵相を務めた岸の盟友、賀屋興宣もまた58年総選挙で国会議員に選出された直前もしくは直後からCIAの協力者であったこと、さらに賀屋は59年2月にワシントン郊外のラングレーにあるCIA本部を訪れ、アレン・ダレスと面会している事実を明らかにしている。
 
 
ニッポン維新(132)民主主義という幻影―18
 
 
 
パケナムの日記によれば、鳩山一郎政権も岸信介政権も誕生の背景にはハリー・カーンらの画策があった事が分かります。特にA級戦犯だった岸信介氏とハリー・カーンの関係は密接です。ハリー・カーンはニューズウィーク誌を辞めた後、中東産油国のコンサルタントになりますが、その頃日本は自国の石炭産業に見切りをつけ、遠い中東の石油に依存するようになります。それもハリー・カーンの影響ではないかと思わせるほど、カーンは日本の政治に介入していました。その存在を初めて国民に知らしめたのがグラマン事件でした。
 
(引用終わり)



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