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思い出せるものが、消えていく。。

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御来訪ありがとうございます。
 
今回はボーッとしたものを。。
 
 
日曜美術館という番組があります。
 
四国の直島というところを女優の中谷美紀さんが歩いて観る
のをやっていました。
 
現代美術、前衛的っていうんでしょうか?
 
 
わかんないなあ。。
 
あれは「美しい」んだろうか?
 
 
まあ、ベネッセ美術館、安藤忠雄 って出てきて、
 
NHKだから、そういうもんなのね。って、思いましたけど。。
 
 
 
artを「芸術」って訳した人は誰なんでしょ?
 
 
 
(引用開始)
 
 
 
英和辞書を参照してみると、「アート/art」とは、芸術、美術とあり、集合的には、芸術作品、美術品。また、技法、技術や手腕としての意が、さらに自然に対しての、人為、作為などとあります("a work of art"での。この参照は「Random House」から )。
 
語源辞典を参照してみると、[art]とは、1100-1500年代の中期英語なるもので、[art]の語源そのものはラテン語の[ars( アルス )]で、それがフランス語の[art( アール )]から、英語の[art( アート )]となったのです( 原義には"skill in joining something"。この参照は「英語語源辞典」から )。
[ars]とは、なにかというと、ラテン語の辞書にて参照してみると、[ars]とは、わざ、手腕、技術、学術、芸術、技芸や手仕事の意など。また、技術の理論、法則や手引き。また、手練手管やごまかし。さらに芸術の仕事や作品の意とあります( この参照は「古典ラテン語辞典」から )。
 
 
(中略)
 
留意したいのは、この内容は実在のアートとは無関係なる点であります( アカデミズムの否定ではありません )。言葉の意味と由来を知るという意義はあるのです、でも、あくまでも言葉上の説明にすぎません。
 
 
(引用終わり)
 
 
 
実在のアートとは無関係wwwww
 
そうなんだよね。今、アートだ、芸術だって言われているものって
誰か影響力のある人が
「これをアートと言ってもいい」 
「これをアートの仲間にいれてもいい」
 
って言ったから、「アートの顔」しているだけで、観る人がどう思うかは無関係なんだよね。
 
 
学校で、図画工作の時間から、モネとか、ミケランジェロとか、ピカソとか見て、
 
 
「これが名画、名作と呼ばれるものかあ」
 
と学んで、なんとなく 美しいとか芸術ってこういうものってイメージだけあって、無関係だったけど。。
 
 
まあ、画家とか彫刻家を目指すっていうのは「芸術家志望」なんだろうけど、今、人間国宝とかなってる、陶芸とか、漆塗りとかの人は 最初は、職人だったのかなあ?とも思える。
 
 
名画、名作とか見て、『感動する、動かされる」中には、
 
「美しい」
 
だけじゃなくて、
 
「気味が悪いけど動かされる」
 
とか
 
「物凄い技術に圧倒される」
 
とか
 
「長時間かけたことに驚く」
 
とか、含めて 感動なんだろうな。。
 
 
 
 
上記の引用の最後の方に、
 
『日本では浮世絵をアート 芸術と認識していなかった」
 
 
っていうのがあって、
 
 
外国から言われるまで芸術と思わなかったようなすごいもんが
 
日常にあったってことはすごいことなんじゃないか?
 
と、思ったりもする。
 
 
 
 
万葉集とかだと、万葉仮名という漢字の当て字を使わなきゃいけなかったほど、文字は遅かったのに、その表現の豊かなこと、ストレートなことといったらない。
 
枕詞ってありますが、「長々し」を出してくるのに「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の」なんて上の句全部使っちゃうわけで、話し言葉には何かリズムがあったのかなあ。。って思う。
 
節つきで歌を詠んでいたんじゃないか?。。
 
 
 
 
古今、新古今と進むにつれて、本歌取りという過去の和歌を知らないと解釈できないというのが現れて、「教養」に近づいていって、文化は
家元制度みたいになるというのが橋本治さんの説です。
 
 
 
万葉の時には、防人の巻もあるのに、時代が下ると、歌人として選ばれた人たちだけの歌になってく というのは、そういうことなんでしょうね。
 
 
 
 
 
どうなんだろう?
 
 
赤ちゃんの頃から、
 
「花は、美しくない」
 
 
「春は美しくない」
 
 
「生まれたばかりの赤ちゃんの風呂上りの肌は美しくない」
 (私は、これはすごく美しいと思う。新陳代謝の素晴らしさに
 感動した。 風呂に入るたびに、新しい肌になっているんだぜ)
 
 
と、教え続けられたとして、成長した人間の感覚は、その教えに従い続けられるものだろうか?
 
 
いつかは、教えられた「美しくない」と、自分で感じる「動かされるもの」
との間で葛藤するんだろうか?
 
 
予想がつかない。
 
なんだか、キレイとか、嬉しい、美しい を感じさせる素は
 
「未来を明るく感じさせる」ではないかと思うんだよね。
 
春が来ただけでは、食べ物が収穫できるわけじゃない。
 
でも、 種は蒔ける。
 
花がきれいの根本は、もしかしたら、「実がなって食べられる」かもしれない。
 
 
 
 
 
 
ラスコーの壁画ってありますよね。
 
(引用開始)
 
 
 
ラスコー洞窟
 
これらは15,000年前の旧石器時代後期のクロマニョン人によって描かれていた。
 
(引用終わり)
 
 
これが、大発見だと騒がれるというのは、15000年もよく破壊されずに。。(苦笑)ではなくて、15000年前には、人間は、絵を描き、技術も持っていたっていうことでしょう?
 
 
それが、どうして、こんなに喜ばしいニュースとして扱われてたのか、よくわかんない気がしてた。
 
 
 
人間は、「人間は他の動物と違う」ということに救いや喜びを求めるんだろうな。 洞窟の古い絵を発見して、「すごい、こんな昔から。。」って、価値を感じちゃうんだから。。
 
 
と、深く考えずに(だいたい管理人は深く考えてないw)ツィートしたら
 
 
 
カレルレン@carellen_5月19日
魚の配偶戦略を学ぶと、脊椎動物は何も進歩してないと思えます。
 
 
 
というお返事をいただきましたが、動物と人間の違いはなんだろう?
 
 
動物だって擬態という嘘はつくし、メッセージは交換するし、
気がつかないだけで、弔っているかもしれないし、ビーバーは巣を作るとき長さがあわなかったら 食いちぎるでしょ?
道具作っているし。。
 
交換らしきこともしてるし。。
 
さすがに 紙切れと モノは交換しないな、きっと (笑)
 
木の葉と交換させるタヌキはいるかもしれんが、それは
霞ヶ関あたりにいる人が、なかの人でしょう。。
 
 
 
今思うに、「人間が他の動物と違う」の内実は、
 
人間が他の動物よりも上
 
人間と他の動物は、別
 
人間と他の動物は 協調
 
人間よりも他の動物が大事 (しばしばあるよね。パンダとか朱鷺とか)
 
といろいろあって、上記のアートの
 
 
 
英和辞書を参照してみると、「アート/art」とは、芸術、美術とあり、集合的には、芸術作品、美術品。また、技法、技術や手腕としての意がさらに自然に対しての、人為、作為などとあります」
 
という自然に対抗するという意識が 西洋の方が強いのかなあ。。などと思ったりします。
 
 
 
(引用開始)
 
列伝‎ > ‎文芸論‎ > ‎
 小林秀雄編
 
「無常という事」
 
「ある人いはく、比叡の御社に、偽りてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つゞみを打ちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にしひ問はれて云(いはく)、生死無常(しょうじむじょう)の有様を思ふに、此世のことはとてもかくても候、なう後世(ごせ)をたすけ給へと申すなり。云々(うんぬん)」


これは、「一言芳談抄(いちごんほうだんしょう)」の中にある文で、読んだ時、いい文章だと心に残ったのであるが、先日、比叡山に行き、山王権現(さんのうごんげん)の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついていると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮び、文の節々が、まるで古びた絵の細勁(さいけい)な描線を辿る様に心に染み渡った。

そんな経験は、初めてなので、酷く心が動き、坂本で蕎麦を喰っている間も、あやしい思いがし続けた。あの時、自分は何を感じ、何を考えていたのだろうか、今になってそれがしきりに気に懸かる。

(中略)
 
「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というのは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」

この一種の動物という考えは、かなり僕の気に入ったが、考えの糸は切れたままでいた。歴史には死人だけしか現れて来ない。従ってのっ引きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。

思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物であることから救うのだ。

記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に留まるのは、頭を一杯にしているので、心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるまいか。

上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴の様に延びた時間という蒼褪めた思想(僕にはそれが現代における最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思える。

成功の期はあるのだ。この世は無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは幾時如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かの生女房ほどにも、無常ということが分かっていない。常なるものを見失ったからである。
 
 
 
(引用終わり)
 
 思い出が、僕等を一種の動物であることから救うのだ。

 思い出。。過去の人間の蓄積。 
 
 最初の生女房は、この世のことはいいけれど 後世を助けたまえ
 と歌います。
 
 もちろんこの「後世」は、仏教の輪廻転生で 「成仏」したいとうことで もありましょうが、死んでも、「続きがある」という考えなんですよね。
 
 生まれ変わったりするわけで、「今 自分のこの世はどうでもいいが、 来世は、お願いするよ」というのが常なることで、「後世(ごせ)は後世 (こうせい)でもあるんじゃないかな?
 
 
 
 何を上手に思い出すんだろう?
 
 さっきの美術界だけじゃなくて、「誰か権威のあると思われた人が
 これを認める。」で、満ちている世界で、例えば、アートひとつと って も、 
 
 「自分が美しい、動かされるものは、誰がなんと言ってもこれだ!」
 
 と、思える人がどれくらいいるだろう。
 
 「自分が美しい、動かされるものは、誰がなんと言ってもこれだ!」
 
 と、思えたとして、それが「権威ある人の思惑」に乗せられていないと
 言い切れる人は、いるんだろうか?
 
 上手に思いだせるはずの、「自分がいなくなっても続く」が権力者の  思惑が充満した年月の長さでで思い出しにくくなっているのか?
 
 
 
御来訪ありがとうございました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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