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アンフェタミンより強い中枢神経興奮作用をもつ覚醒剤であり、日本では覚せい剤取締法により規制されている。医療の現場においては現在、昏睡、手術後の虚脱状態、統合失調症における遅鈍症、ナルコレプシー等に対し施用されることがある。
第二次世界大戦当時には連合国軍と枢軸国軍の双方で、航空機や潜水艦の搭乗員を中心に、士気向上や疲労回復の目的で用いられた。21世紀初頭の近年、世界各国においてその蔓延の急速な進行が確認されており、一例としてアメリカ合衆国では、「最も危険なドラッグ」として語られるものとなっている。
ヒロポン®(Philopon)とは、大日本住友製薬(旧:大日本製薬)によるメタンフェタミンの商品名であり、同社の登録商標(第364236号の1)である。成分名は塩酸メタンフェタミン錠。剤型はアンプルおよび錠剤である。「ヒロポン」の名は、「疲労をポンと取る」にも掛けているが、英文綴りに見られるように、ギリシア語のΦιλόπονος(労働を愛する)を由来としている。
日本では太平洋戦争以前より製造されており、「除倦覺醒劑」として販売されていた。その名の通り、疲労倦怠感を除き眠気を飛ばすという目的で、軍・民で使用されていた。
現在でこそ覚醒剤の代名詞であるヒロポンだが、当時は副作用についてまだ知られていなかったため、規制が必要であるという考え方自体がなく、一種の強壮剤のような形で利用されていた。当時の適応症は、「過度の肉体および精神活動時」、「夜間作業その他睡気除去を必要とする時」、「疲労二日酔乗り物酔い」、「各種憂鬱症」であった。軍では長距離飛行を行う航空兵などに支給されている。ヒロポンの注射薬は「暗視ホルモン」と呼ばれ、B29の迎撃にあたる夜間戦闘機隊員に投与された。中には一晩で5機のB29を撃墜した例もあった(黒鳥四朗を参照)。ヒロポンは「決戦兵器」のひとつとして量産され終戦時に大量に備蓄されていた。
終戦により軍の備蓄品が一気に市場へ流出すると、酒や煙草といった嗜好品の欠乏も相まって人々が精神を昂揚させる手軽な薬品として蔓延した。その依存者即ち「ポン中」が大量発生し、中毒患者が50万人を超えるなど社会問題となった。加えて中毒者が行う不潔な注射は肝炎ウィルスの伝染機会を増加させて輸血後肝炎が拡大する遠因となった。
政府は1949年(昭和24年)にヒロポンを劇薬指定して覚醒剤としての製造の禁止を製造業者に勧告し、1951年(昭和26年)に覚せい剤取締法を施行した。これに伴い、日本国内では同法により規定された少数の研究・医療機関への販売や、統合失調症やナルコレプシーの治療等、限定的な医療用途での使用といった項目を除いて、一切の使用・所持が禁止された(但し、日本薬局方の医療用医薬品の覚醒剤として、未だに処方薬として残っている)。よって現在では覚醒剤としてではなく、処方薬として「ヒロポン錠」「ヒロポン注射液」の二種類が製造されている
2008.03.11 Tue
大正八年に日本の科学者が合成したメタンフェタミンを用いた覚醒剤「ヒロポン」が市販されたのは昭和十六年(1893)、それと前後して、武田薬品工業「ゼドリン」、参天製薬「ホスピタン」、富山化学工業「ネオアゴチン」など、二十社を超える製薬会社から同様な処方の薬品が発売された。
なかでも「ヒロポン」の名が覚醒剤の代名詞のように使われたのは、そのユニークかつ覚えやすいネーミングのゆえだろう。
なかでも「ヒロポン」の名が覚醒剤の代名詞のように使われたのは、そのユニークかつ覚えやすいネーミングのゆえだろう。
米国では第二次世界大戦以後も、ベトナム戦争、湾岸戦争を通じて、デキストロ・アンフェタミン製剤「デキセドリン」(通称・スピード)を一部の兵士に処方し続けた。
その後の取り締まりの強化と経済復興により、約十年にわたる国内のヒロポン禍もようやく下火になるが、昭和四十五年頃から、今度は朝鮮・韓国ルートによる覚醒剤密輸入が徐々に増加しはじめる。
マオウ(麻黄)からのエフェドリン抽出に成功し、のちに大量合成が可能であることを証明した。
リービッヒ(Justus von Liebig)の教え子であるヴィルヘルム・ホフマン(August Wilhelm von Hofmann)の化学の授業もあった。
この二つの授業が、その後の長井の方向性を決定づけることとなった。ホフマンに師事して化学・薬学を学び、化学実験などに没頭していく
エフェドリンの発見
バニリンの分離の後、日本政府は長井に帰国を要請した。日本の薬学を進展させ、大規模な製薬会社をつくるためである。日本へ帰国した長井には大きな期待がかけられていた。
- 大日本製薬合資会社設立への参加要請
- 帝国大学教授 理学部化学科の化学担任・医学部での薬化学専任
- 文部省諮詢総会の会合に推挙
- 内閣省御用係兼務
- 衛生局東京試験局長
- 中央衛生会委員
- 叙勲 正六位
大日本住友製薬(旧:大日本製薬)
19世紀初頭の英国は、産業革命を経て工業化が進展し超大国となっていた。一方ドイツは、ナポレオンの占領下、産業や社会全般が沈滞していた。化学を含む科学技術全般も英国やフランスに比べかなり遅れていた。その頃生まれた偉大な化学者、リービッヒ(1803~)、ヴェーラー (1800~)、ブンゼン(1811~)等によって大学の化学教育が充実し、ドイツの化学は大発展して数十年で英仏を凌駕した。
1880年頃迄に後継の数百種のタール系合成染料が上市されたが、ドイツの勝利、英仏の敗退が確立された。そして零細企業として出発したBASF、バイエル、ヘキスト各社は、創業十数年で既に数千人規模の優良大会社に育っていた。
奇跡の真実 第百五十八話
1868年には設立して間もなかったベンチャー企業の BASF ( ビーエーエスエフ ) (バーデン・アニリン・ソーダ製造会社)が化学合成によってそれまで木の根から抽出していたアリザリン(アカネの木の色素)やインディゴ(藍の木の色素)を“大量かつ安定的に作り出すこと”に成功し、その人工染料のおかげでドイツ系ユダヤ人のリーバイ・シュトラウスはインディゴ(藍色)のリーバイスジーンズ(Levi’s jeans)をアメリカで販売できるようになりました。
その他、小さな染料会社だったバイエル社も1899年には柳の木から抽出していたサリチル酸を副作用の少ないアセチルサリチル酸に合成し、解熱・鎮痛用の“化学合成薬品”として「アスピリン」(日本では「バファリン」)を、
またケシの実から抽出していたモルヒネに塩化アセチルを加えて中毒性の少ない(注;実際はモルヒネより強い中毒性がある)咳止め薬として「ヘロイン」(正式には3,6-ジアセチルモルヒネ)を世界中で売り出すようになりました。
その結果、1890年までにドイツの化学工業、特に染色工業は世界の85%ものシェア(市場占有率)を握るようになり、現代(2005年)においても化学工業の売上ではBASFが世界1位、バイエル社が世界4位となっています。
その後、不況になったドイツは、個々の会社が価格などの談合をするだけでは飽き足らず、利益と特許権の拡大のため、1925年、バイエル社、ヘキスト社、BASF社といったドイツ6大化学会社が合併し、“イーゲーファルベン社”を設立しました。このイーゲーファルベン社は、発疹チフスを感染させるシラミの殺虫剤として「ツィクロンB」を開発し、その特許を取得。
ナチスが設立したアウシュビッツ強制収容所のガス室などでその効果について臨床実験を繰り返しました。1940年には250人のジプシーの子供達が犠牲になるなど、この「ツィクロンB」は一度、投下するだけで1000人以上の人間をいっぺんに殺傷できることが分かったため、その後は殺虫剤としてではなくナチスの“神経ガス兵器(化学兵器)”として重宝されることとなりました。
モルヒネ
歴史
1804年、ドイツの薬剤師フリードリヒ・ゼルチュルナー (Friedrich Sertürner) により、初めて分離される(この物質は、史上初めて薬用植物から分離されたアルカロイドとなった)。ゼルチュルナーはモルペウスにちなみモルフィウム (morphium) と名づけ、効用の研究・宣伝に当たった。しかし、1853年の皮下注射針の開発までは、モルヒネは普及しなかった。鎮痛の為に用いられ、また、アヘン・アルコール中毒の治療として用いられた。南北戦争ではモルヒネは広く使用され、軍人病(モルヒネ中毒)による40万人を超える被害者を生み出した。また普仏戦争において、同様のことが西欧で起こった。
歴史
フェンタニル
軍事用途
- 2002年10月に発生したモスクワ劇場占拠事件で、武装グループ無力化のため政府特殊部隊が、KOLOKOL-1と呼ばれる、フェンタニルの遥かに高力価な誘導体による化学兵器を使用した際、麻酔作用により呼吸困難を起こし、人質に多数の死者が出た。
- 2011年よりアメリカ海兵隊は、モルヒネと併用してフェンタニルのトローチを鎮痛剤として使用し始めた[1]。
(引用終わり)