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メモ 薬用植物栽培  大日本製薬 

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(引用開始)
 
薬学】ツムラ 漢方で使う生薬「甘草」の大量栽培に成功 栽培期間短縮、収穫量も7倍に
 
ツムラは10年前から北京中医薬大学などと研究を始め、中国で
栽培に適した土壌を突き止めた。主成分のグリチルリチン酸
2.5%以上を含むという医薬品の基準を満たし、通常5年の
栽培期間も1年3カ月と短縮、収穫量も7倍に上るという。

中国の特許登録手続きを完了しており、野生品の在庫が
無くなり次第、栽培品を使い始めるという。
 
 
国内で本格的な甘草の商業生産に初めて乗り出すのは化学大手の三菱樹脂だ。
 
 
 
 
[2010/10/28]
遺伝資源の国内確保・供給に向けて 日本で初めて薬用植物「甘草」の水耕栽培システム開発に成功!
植物工場生産に対応できる栽培システムを開発
 
鹿島建設株式会社
独立行政法人医薬基盤研究所
国立大学法人千葉大学
 
 
 
 
2004/02/05 22:19 【共同通信】
 
 自生地の中国が1999年から輸出を規制し、品不足が心配される漢方生薬、麻黄(まおう)の栽培に国立医薬品食品衛生研究所筑波薬用植物栽培試験場(茨城県つくば市)が成功した。  麻黄は風邪薬の葛根湯(かっこんとう)などに配合され、中国の内モンゴルを中心に自生する。96年には約700トンが輸入されたという。  中国は乱獲などで自生地が砂漠化するとして事実上の禁輸を続けており、あと2年ほどで日本国内の在庫が尽きるという。  同試験場は規制直後、保存していた株を北海道、和歌山県、種子島(鹿児島県)の各試験場に送り、各地で生育状況などを調べた。  北海道では雪の影響で地上部が枯れるため栽培に適さなかったが、ほかの試験場では3年で60センチほどに成長し、成分も薬としての基準値を満たしていた。
 
 
麻黄湯(まおうとう) インフルエンザに効果あり?
 
2009年5月8日 読売新聞
 
インフルエンザの治療に漢方製剤の「麻黄湯(まおうとう)」を使うと、抗ウイルス薬のタミフルと同じ程度の症状軽減効果があるという研究結果を、福岡大病院の鍋島茂樹・総合診療部長らが明らかにした。新型インフルエンザへの効果は未確認だが、タミフルの聞かない耐性ウイルスも増える中、注目を集めそうだ。

 日本感染症学会で4月に発表された鍋島部長らの研究は、昨年1月~4月に同病院を受診し、A型インフルエンザウイルスを検出した18~66歳の男女20人の同意を得て実施。うち8人はタミフル、12人は麻黄湯エキスを5日間処方した。ともに発症48時間以内に服用し、高熱が続く時は解熱剤を飲んでもらった。

 服用開始から平熱に戻るまでの平均時間は、タミフルが20・0時間、麻黄湯が21・4時間でほとんど差がなかった。解熱剤の平均服用回数はタミフルの2・4回に比べ、麻黄湯は0・6回と少なくて済んだ。

 麻黄湯のインフルエンザへの効能は以前から承認されており、健康保険で使える。

 鍋島部長は「正確な効果の比較には大規模で厳密な研究が必要だが、タミフルは異常行動などへの懸念から10歳代への使用が原則中止されていることもあり、漢方薬という選択肢の存在は大きい」と話している。
 
 
 
 
 
薬剤師としては、新型インフルエンザ等特措法案の審議過程において、薬剤師会等からの要望を伝え、豚サーベイランスの重要性、適切なワクチン調達・準備体制の構築、デュアルユースのリスク、麻黄湯など漢方製剤の活用などについて提起しました。
また、漢方薬・生薬認定薬剤師として、日本の伝統医学である「漢方の真価」について質問し、漢方を日本の国家戦略・新成長戦略とし、原料である生薬の国内栽培を推進していくことの重要性を力説しました。そのためにも漢方薬の薬価は、西洋薬とは別概念とするよう厚生労働省に提案し、健康局長から、関係学会等の要望や生産コストなどを精査した上で医薬品の安定供給が可能となるような適正な算定に努めていきたいとの答弁を得ました。
 

日本製紙は21日、挿し木増殖が難しいとされている薬用植物のうち12種(マオウ属、チョウジ等)について、同社が持つ独自の発根技術を応用し、挿し木による増殖技術を開発したと発表した。
日本製紙は、国内有数の薬用植物の研究機関である「独立行政法人 医薬基盤研究所 薬用植物資源研究センター」から薬用植物の地上部(茎葉)の譲渡を受け、独自に開発した発根技術である「光独立栄養培養技術」を応用し、増殖に取り組んだ。その結果、今回、2種の薬用植物にて十分な発根を確認することができたという。
 
 
 
 
 
 
 
治19年(1886)に日本薬局方が公布されたものの、局方に適合する薬品を製造する製薬所を個人で創設することは、当時では無理であったので、国庫の補助を仰ぎ、ドイツに留学中のドクトル・長井長義を製薬長として、明治18年、東京木挽町に大日本製薬会社が設立されました。 一方、大阪・道修町の有力薬業家において、先に大阪薬品試験会社が設立されていましたが、明治23年(1890)には武田、田辺、塩野義の三商店の共同出資により、ヨード製造を目的とする「広業舎」を設立して、舶来品に劣らない品質のものを製造しました。 さらに、旧来の伝統を有する道修町薬業の総意を結集して、大阪の地に近代的な製薬所を設立し、純良医薬品を提供するため、明治30年(1897)、日野九郎兵衛、田辺五兵衛、小野市兵衛、武田長兵衞、谷山伊兵衛を役員として「大阪製薬株式会社」が設立され、近代製薬事業の第一歩を踏み出しました。同社は明治31年(1899)に半官半民で経営難に陥っていた東京の大日本製薬会社を吸収合併して「大日本製薬株式会社」となり、海老江の新鋭工場を軸としてアルコールほか主に局方品の製薬に邁進しました。」
 
◆司薬場では、検査に合格した品質保証のため「司薬場検査済印紙」を貼付していました。大阪司薬場は明治16年(1883) 衛生局大阪試験所と改称され、検査済印紙は「衛生局試験所検査之証」と変わりました。明治22年(1889)『薬律』制定後、「自今衛生試験所において検査印紙を貼付するものは、日本薬局方所定の薬品に限る」とされました。 しかし実際に取扱われた薬品は、日本薬局方所定品でないものが多数あり、新薬品が続々と海外から輸入される時代となると、営業上に支障を来たすことが生じました。そこで、日本薬局方はもちろん、各国薬局方収載薬品のいずれにも記載していない新薬品などの試験をするため、大阪薬種卸仲買商組合は有力者14名を発起人として明治21年(1888)大阪薬品試験会社を設立、その検査済み印紙は、官立の大阪衛生試験所の検査印紙に匹敵すると評価されました。大阪薬品試験会社は、明治41年(1908)大日本製薬株式会社に合併され、その事業は同社の「試験部」として引き継がれました。
 
明治30年(1897)前後、大阪製薬業界では大日本製薬株式会社の発足があったほか、中藤昇平、岩井松之助、小西利七、石濱豊蔵、内林直吉、小西久兵衛、蓮井宗吉、須賀磯八、小野市兵衛、黒石卯之助らが、小規模ながら局方品製造に挑んでいました。 同34年の「重要物産組合法」により「大阪製薬同業組合」を設立する動きが出て、石濱豊蔵、小西利七、小西久兵衛が発起人となり、明治35年に設立を認可されました。 
初代総取締は石濱豊蔵、組合事務所は当初、東区伏見町二丁目中橋筋東入北側に置かれました。ここにおいて江戸時代の薬種薬種中買仲間の伝統を受け継ぐ道修町の同業組合は、流通面の「大阪薬種卸仲買商組合」と、製薬面の「大阪製薬同業組合」とに分かれたわけです。
 
そして製薬同業組合の流れは、戦後の「大阪医薬品協会」に引き継がれています。
社長 日野九郎兵衛
取締役 田邊 五兵衛   田邊五兵衛商店→田辺製薬
      塩野 義三郎   「塩野義三郎商店 塩野義製薬
      宗田 反治郎
      小磯 吉人    神戸市衛生局長
      小西 久兵衛  道修町の薬種商
      上村 長兵衛  上村工業株式会社
 
 
監査役 小野 市兵衛
 
享 保2年 初代小野市兵衛が道修町の現在地において、伏見屋市兵衛の屋号のもとに薬種仲買人として創業。 大正7年 東洋製薬化成㈱設立。(現・連結子会社) 昭和9年 資本金16万円の合名会社小野市兵衞商店に改組する。 昭和22年 商店の医薬品製造部門として日本有機化工株式会社(資本金19万5千円)、注射アンプル等医薬用硝子資材部門として日本理化学工業株式会社を設立して、資 材を含む医薬品の製造及 び販売の一貫作業を開始。 昭和23年 日本有機化工株式会社を現在名の小野薬品工業株式会社と改称し、日本理化学工業株式会社を解散する。
     
 
武田 長兵衛  武田長兵衛商店 武田薬品
      
谷山 伊兵衛 薬種問屋谷山伊兵衛商店
 
 
大阪道修町の有力薬業家は、輸入薬の横行から脱却し純良薬品の提供を目指して、明治29年9月、共同出資による近代的な製薬会社の設立を計画した。
  
発起人21名の中に、神戸市衛生局長 小磯吉人の名があり、翌年5月、大阪製薬株式会社が発足、小磯氏は取締役の一人に選任された。明治31年には、東京の大日本製薬合資会社を合併、大日本製薬株式会社と改称した。
  
小磯氏は常務取締役に就任、他の重役が自店の経営のため社務を顧みることが少ない中にあって、日野九郎兵衛社長を助けて常務の責務を果たした。
  
大正4年、小磯氏は二代目社長に選任され、第一次世界大戦下、外国薬品の国産化に尽力した。大正15年2月、死去。


 
 
 
 
 
小磯良平氏は、明治36年 神戸市の岸上家の8人兄弟の次男に生まれた。
大正14年、東京美術学校(現 東京芸術大学)4年在学中に実父 文吉が他界し、祖母の甥である初代神戸市長 小寺謙吉氏を通じて、小磯家の養子に貰い受けたい話が起こ
  った。
小磯吉人の妻 英(ひで)が謙吉の姉で、良平の祖母の姪であるという縁もあり、良平は吉人の願いを承諾し、吉人の死後、小磯良平となる。
 
また、武田薬品工業株株式会社社長 六代目 武田長兵衞は、小磯良平の支援者として有名である。
  
これは、武田家・小磯家ともに大阪製薬株式会社の発起人であり、役員であったことに由来しており、画伯の多くの名品の所蔵者として長く交友を続けた。
 
(引用終わり)
 

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