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あの共産主義者って、アノ共産主義?4

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一部を引用しています。
ぜひ、原典をご覧下さい。
 
(引用開始)
 
Independent Japan
 
日本側でも、特に陸軍は無条件降伏に応じるわけがない。ソ連が、4月5日に,日ソ不可侵条約を一年後の満期を共に破棄すると通告してきており、しかも、ソ連軍は極東への移動を開始していいたから、対日参戦の意図が読めた。5月2日にベルリンが陥落して、陸軍はようやくソ連との交渉に同意した。スターリンは、2月のヤルタ会談で、ポーランドの東三分の一と、日本の千島、樺太、大連を手に入れるという譲歩を,ルーズベルトから勝ちとっていた。絶望的になった日本は、スターリンとの交渉を始める。無条件降伏という米国の戦争方針が、日本の早期降伏を妨げ,スターリンが漁夫の利を締めるという可能性が明らかになり、無条件降伏の修正を主張したのが、国務長官代理で、前駐日大使のジョセフ・グルーであった。当時のステティニアス国務長官は、国際連合の設立に忙殺されていた。グルーは、スティムソン陸軍長官を、日本は、大正デモクラシー時代の指導者を復活させればよく、天皇制を破壊すれば、日本はよりどころを失って崩壊するという伝統的な終戦構想で説得することに成功している。グルーは、天皇制維持という条件付の降伏について、トルーマン大統領の了解を取り付けて、部下のドゥーマンにポツダム宣言の初稿を書くように命じている。立憲君主制を許すという条項をスティムソンとグルーが了承したのが、5月26日であった。6月いっぱい、トルーマン政権は、無条件降伏の主張を抑えたが、それは、アラモゴードにおける原爆実験の成功か否かを見据えようとしていたからである。7月上旬に国務長官がバーンズになり,ニューディーラーの次官補を据えた。アチソンは、日本を共和国にすべきとする人物であった。ポツダム宣言の最終稿からは、スティムソンもグルーも除外され、7月26日にポツダム宣言が発表される。グルーは8月に、スティムソンは9月に引退する。ポツダム宣言は、戦後史の中では、天皇の護持が許されたとしており、外務省も、条件降伏だと主張したいたが、50年6月のダレス来日以来、無条件降伏と修正している。一番肝心なことについて、ポツダム宣言は明言を避けていた可能性がある。二股膏薬、ダブルオプションであった可能性はある。
 
 
 
 
 
 
降伏後初期対日政策が、マッカーサーから日本側に密かに手交されたのが、9月下旬であった。その文書が、スウィンク15-の4と呼ばれる。スウィンクとは、1944年に各省の次官で構成される国務・陸軍・海軍連絡委員会を指す。
 スウィンク150の4の最も過激なものが、追放―パージであった。アングロサクソンの社会では、人間関係をいじくり回すことをソーシャルエンジニアリングと呼んで忌み嫌うが、それを日本で行うこととしたのである。日本の政治構造を根っこから引き抜いて,社会主義のイデオロギーが入っていて、米国内ではとても実行できないことを、実行しようとした。近年、日米構造協議が通商代表部と商務省で、ごり押しが見られるが、占領に伴うことであるから、実に過激なものである。財務長官のモーゲンソーが主張したドイツの牧場国家への残酷な計画の一部などが盛り込まれていた。一方では、ポツダム宣言を逸脱しているという意見もあった。今になって天皇制を廃止するのは、裏切りになると主張するグルーの配下の日本通もいたし、アチソンのミラー特別補佐官のように、ポツダム宣言が軍隊の無条件降伏を要求したことは認めるが、その後の両政府のノートの交換によって無効となったように見えると述べた者もある。
 
 
 
 
 
10月4日には、政治犯の即時釈放、思想警察の全廃、内務大臣と検察首脳の罷免、弾圧法規の撤廃が命令された。内閣は辞職したが、後任は幣原喜重郎で、マッカーサーが選んだ首相である。吉田外務大臣がアグレマンを取りに行っている。10月25日には、バチカンを含む6つの中立国と日本とが外交関係を断絶するよう占領軍は命令した。日本は外交を行う権利を喪失して属国となった。連合軍最高司令官の政治顧問が、駐日大使の役割をして国務省の役人が出向した。グルーは、ドゥーマンを任命するつもりだったが、失脚したために、バーンズ国務長官は,中国通のジョージ・アチソンを任命した。マッカーサーを監視するために東京に派遣したと言われる。10月に、エマーソンとEHノーマンが、直接府中刑務所に出向いて、政治犯16人を釈放している。カナダ人のノーマンは、日本の歴史を専門とする学者であったが、理論をそのまま実践することで、日本共産党の理論である講座派の理論を虎の巻にした。1932年にスターリンが天皇制打倒のテーゼを出し,二段革命論を主張するようになったが、ノーマンは日本叩きの代弁者となった。統合参謀本部のケージス中佐もノーマンの本を聖書のようにしていたし、オーエンラティモアは、ルーズベルトに影響力があり、中国共産党びいきで、日本の降伏直前に天皇断首を唱える過激さであったが、ノーマンの本を虎の巻にしていた。ノーマンの事務所に共産党の幹部は入り浸りとなり、ノーマンは、その情報を下に、A級戦犯の起訴状を書いている。近衛文麿を自殺に追いやったのもノーマンである。
共産党幹部は、府中刑務所をでるなり、連合軍は解放軍だと主張している。総司令部はこれを黙認している。生産と経営とを乗っ取らせる生産管理運動を開始したのも総司令部で、共産党の労働組合の連合組織である産別会議を総司令部は奨励した、瞬く間に、組合員が400万人となっている。ノーマンには、後日談があり、朝鮮戦争と冷戦で、統一戦線の世界が逆転して、マッカーシー旋風が吹き荒れるとカナダ人であったノーマンはカナダの駐エジプト大使となっていたが、自殺においこまれることになった。ノーマン著の日本の兵士と農民、と題する本は、岩波書店から日本語に翻訳されて出版されていた。日本語に翻訳した大窪氏は、戦後長い間カナダ大使館の政治顧問であった。
 
 
 
1947年3月にトルーマンドクトリンが出され、米国では戦後政策の見直しが始まっていた。ジョージ・マーシャルが国務長官となり、ジョージ・ケナンを初代の国務省政策企画部長に据えた。ケナンが、Xのペンネームで、封じ込め政策についてフォーリンアフェアズ誌に寄稿した記事は有名であるが、力の均衡による政策である。ケナンのいう力とは政治的な力であって、イデオロギーの正反対であった。ケナンは、ルーズベルトと、ニューディーラーのイデオロギーとの決定的な批判者であった。ケナンほど、スウィンク150の4を批判した者はいない。リアリズムの中核にあるものは、主権国家とその背後に或る特殊な歴史に対する厳粛な態度である。ルーズベルトの唱えた最終の平和など求めてはならないとケナンは主張する。マッカーサーと国務省の立場が、ケナンの登場によって逆転した。ケナンは、48年4月に訪日しているが、占領行政の過激さに驚いている。パージを全体主義的と批判している。日本の工場施設が,中国共産党のために、船積みされている実態をこきおろし、日本語と華族制度の無意味な維持繰り回しも批判している。東京裁判についても,続けていることにいらだった反応をしている。東京に着いたケナンと陸軍次官は、マッカーサーと会見して再軍備の話を持ち出したが、マッカーサーは怒りを隠さずに、再軍備反対を主張した。再軍備に反対しながら、日本の早期講和と独立が緊急の課題だと主張した。ケナンは、ソ連が日本を採らなければ済む話で、米国が占領を継続する必要はなかった。例外は沖縄だけだった。ケナンは後に、アメリカはその逆をやったのではないか、アメリカが先に日本をとり、ソ連が朝鮮半島を採ろうとして、朝鮮戦争が始まったと推測している。
 
 
 
 
マッカーサーは逆コースに反対であったとする説があるが、正確ではない。マッカーサーはつまみ食いをしたのである。社会党を擁護する目的があったから、産別潰し、レッドパージを行い、世界が冷戦になり、両極化するにつれて、中道を守る為に社会党を補強しようとした。マッカーサーの憲法には敵が三つあった。ひとつは、ケナンであり、一つは再軍備を要求する統合参謀本部で、もうひとつが、新憲法に反対した「保守反動」の吉田茂であった
 
(引用終わり)
 

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