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あの共産主義者って、アノ共産主義?6

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一部を引用しています。ぜひ原典をご覧下さい
 
(引用開始)
 
Independent Japan
 
国務省は、占領とマッカーサー体制が続く限り、日本から閉め出される。だから、日本を「独立」させることに興味を持ったのではないのか。マッカーサーも同じで、フィリッピン化構想とおなじように、日本を米国の裏庭に置くことによって、米国の保護を受けるようにすることであったから、寛大な講和に賛成して、事実上の平和の太平洋条約にも反対した。マッカーサーは、国務省と国防省との対立に乗じて、その調停役の役割を果たした。1949年5月に、米国は沖縄を恒久的に軍事基地にするという決定を下している。沖縄で、日本の中立と安全を全うできると考えて、東洋のスイス論を展開しているが、一方、ワシントンでは、石頭のドンキホーテとも揶揄する向きも出るようになっていた。マッカーサーは、1949年九月には、独立後のコントロールを撤廃すると新講和構想に変更している。その構想によって、講和条約と軍事条約の日本立てが登場することになる
 
 
1948年頃から、米国の世論は、親日的に変化していたが、10月に人民解放軍が、朝鮮戦争に参加するようになってから、一挙に親日となる。「あれだけ抗日を応援したのに、恩を仇で返すのか。裏切りだ。国務省に赤の手先がいるんだろう。」と後のマッカーシー上院議員の反共魔女狩りに発展する。本当の敵は中国だった。日本との戦争は間違っていたということで、We fought the wrong enemyという言葉が人口に膾炙した
 
ケナンは名著、アメリカの外交政策の中で、「我々のアジアにおける過去の目的の全てが達成されたように見えるのは皮肉なことです。西欧諸国は中国における特殊な権益を最終的に失い益した。日本人は中国から退出して、満州と朝鮮からも退出しました。これらの地域から日本人が退出した結果は,まさに、賢明で現実主義的な人々が長いこと警告してきたとおりです。今日、我々は、日本人が韓国と満州で半世紀にわたって直面した問題と責任を背負い込むことになった。他人が背負っていたときに我々が軽蔑していた,その重荷に感じる我々の苦痛は,当然の罰である。」と書き残している。7月8日、マッカーサーは、独断で、ワシントンと協議することもなく、国家警察予備隊7万5000人の創設を命令している。ダレスは、日本人の志願兵からなる義勇軍部隊を組織することを考えたが、マッカーサーは、国連義勇軍の芽を摘んでいる。警察予備隊の海外派兵はあり得ないとした。
 
 
第十二章 ナショナリズムとプロパガンダ
 
マッカーサーの占領初期には、ノーマンの例に見られるように、ニューディーラーを中心とするマルクス主義者がGHQに深く関わり、反米ナショナリズムと結びついて、日本の世論を支配していた。ダレスは、日本におけるインテリが余りにも現実離れのした平和主義と中立志向に驚いていたが、東部出身のエリートとしては、日本人に新しいイデオロギーをつくって与えようと企画する。そして、国務省は、戦時中、占領計画の立案に参加して,ハーバードで日本研究で頭角を現していた、デドウィン・ライシャワーにこの企画を委託する。ライシャワーは、ポツダム宣言起草の過程で、グルーやスティムソンの天皇制護持の動きを支持していたこともあり、ライシャワーは、日本の新憲法の成立の由来を知っていた。
 
ライシャワーのプロジェクトに参加したのが、プリンストン大学のマリウス・ジャンセン、エールのロバート・ホール、ハーバードのアルバート・クレイグなどがいた。アメリカにおける日本史の修正に向かう。日本をより肯定的に見せて、日本人の劣等感をぬぐい去るか、その回答が,近代化、モダーニゼーションと言う切り口だった。日本は、アジアで一番先頭に立って近代化西欧化を果たした英邁な民族と言う理解になった。アメリカの日本研究者は,寺子屋の教育制度に目を見張るようになる。軍国主義は,日本の近代化の過程では逸脱したことであり、歴史の必然ではなかったとした。日本の経済的な軌跡の秘密を、徳川時代の伝統文化の中に見つけ出した。近代化は、資本主義的な経済万能主義となり、ナショナリズムは否定され、マルキシズムはタブーとなる。近代化論は、高度成長を推進するイデオロギーとなり、これが吉田とライシャワーを結びつける契機となった。
ダレスは、日本の歴史を修正するために、ライシャワーにたのんだのであるが、近代化の考えは、むしろ、ダレスの足をひっぱり、憲法を再軍備の圧力から守る為に、日本の伝統の中に郡国主義が残っているとするライシャワーはマッカーサーの方向に味方することになった。箱根会議は、丸山真男と大塚久雄の東大を敬遠して、京都大学の政治学者、高坂正堯を日本側の代表とする。こうした学者が、モラトリアム国家や吉田ドクトリンを支持して、吉田学校の応援団の役目を務めている。
 
 
占領は解放だとするのは、定義の問題であるが、現実は制裁であった。天皇陛下の命を救ったのは、それ以外の占領政策を日本に押しつけるための交換条件であった。マッカーサーは日本を12才の少年として、厳しいしつけを試みたかのようである。
占領が寛大だとされるようになるのは、安保条約改正の騒動が終わり、岸信介が失意の内に引退して、吉田の勝利が確立する時点で始まっている。初期の安保条約が,吉田に対する制裁であったことなどはひた隠しに隠された。現在の日本では自由民主党の創設者は、吉田茂ではなく、鳩山一郎であることを知る人も少なくなっている。日ソ講和交渉を,外務省と吉田が一緒になって潰したことも体よく伏せてある。満州事変から敗戦まで、悪いことは全て陸軍がしたことに名手、外務省は良いことばかりしてきたようになっているが、幣原外交などは、かなり機会主義的であるが、日本外交の典型のようになっている。日ソ講和を潰すのに、ダレスも一枚噛んでいるが,それも伏せられてきた。米国の介入は、全て日本側で自主的に行われたことにされた。パージのことなどは表に出てこない。マッカーサーの回顧録には追放・パージの一言も出てこない。
 
 
 
エドウィン・O・ライシャワー
 
1910年明治43年)10月15日キリスト教長老派教会宣教師で、東京女子大学創立にも関わったオーガスト・カール・ライシャワーの次男として東京府東京市芝区白金台町(現在の東京都港区白金台)の明治学院内宣教師住宅で生まれる。
 
なおこの頃のテニス仲間に、その後「赤狩り」で共産主義者の疑惑をかけられ(実際に共産主義者であった)自殺に追い込まれたカナダ人外交官のエドガートン・ハーバート・ノーマンがいた。
 
1946年(昭和21年)にはハーバード大学に戻り、極東学会の副会長、会長を歴任する。なお、ハーバード大学時代の教え子にはジミー・カーター政権の国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めたズビグネフ・ブレジンスキーらがいた
 
 
1955年(昭和30年)にアドリエンが3人の子供を残し急逝し、1956年(昭和31年)には、明治時代元勲松方正義と、生糸貿易の先駆者で元横浜生糸会社会長の新井領一郎の孫、さらにアメリカンスクール・イン・ジャパンの後輩である松方ハル (1915年8月6日 - 1998年9月23日)と日本において再婚する。
 
(引用終わり)
  
なんだかライシャワーさんて、詰まった 方ですねえ。。
 

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