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二重権力とカルトとマルチ

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御来訪ありがとうございます。
 
二重権力の曼荼羅  の続きです。
 
 
多分、多くの方がすでにわかっていらっしゃるし、もっと上手に言葉にしている方がたくさんいらっしゃると思いますが、自分から出る言葉でないと腑に落ちません。。
 
 指紋が一致しないような モヤモヤ感が残ります。(苦笑)
 
それで、書いてみることにはしますが、別に解決するということでもありません。
 
前回、多くの人は、二重権力の連鎖の中にいる ということを書きましたが
その二重権力と、カルトとマルチは、表裏一体である ということを書きたいと思います。
 
 (小学生の作文のような書き出しです )
 
 
 
(引用開始)
 
 
カルト(Cult)は、「崇拝」、「礼拝」を意味するラテン語Cultus[1]から派生した言葉で、元来は「儀礼祭祀」などの宗教的活動を意味しており否定的・批判的なニュアンスは無かった。しかし現在では、反社会的な宗教団体を指す世俗的な異常めいたイメージがほぼ定着している[2]。ただし、反社会的な問題のない団体に独自の主観によりカルトのレッテルを貼る等の混乱が見られたり、派生的な用法が多岐にわたって使用されはじめており、境界線があいまいな言葉である
 
 
1990年代アメリカにおいて、反社会的な宗教団体を指す言葉として使われるようになった(この場合、一般の宗教と区別する意味で「破壊的カルト」とも呼ぶ([5]、p131))。フランス語においては「カルト(Culte)」は宗教の宗旨別を意味し、ヨーロッパにおいては一般的な宗教から派生したカルト団体を「セクト」と呼ぶ[6][7]。破壊的カルトは、宗教カルト、政治カルト、自己啓発カルト(自己啓発セミナー)、商業カルトなどに分類される。
 
 
 
 
 
昭和40年代にアメリカホリディ・マジック社が、「Multi-Level Marketing(マルチ・レベル・マーケティング)」と呼ばれる商形態とともに日本に上陸した頃から、国内における連鎖販売取引の歴史が始まったと言われている。マルチ商法は、Multi-Level Marketingの日本語訳として定着し使用されていた。当時、この商形態を規制する法律がなく、取引や勧誘に際しての問題や事件が発生し社会問題となったことから、1976年に制定された「訪問販売等に関する法律」において「連鎖販売取引」として定義され、要件に該当するものは、勧誘などの行為が法律による規制の対象となった。「訪問販売等に関する法律」は、2000年に「特定商取引法」に改称され、以降数度の法改正を重ねて現在に至っている。
 
ピラミッド型のヒエラルキーを形成することや、新たな参加者の勧誘などの販売展開の方法がねずみ講と類似しているが、ねずみ講との最大の法的差異は、管轄法律の区分であり、同一の活動ではない。 しかしながら、過去に「ESプログラム」や「アースウォーカー」は、マルチ商法(連鎖販売取引)として展開していたものの、実質はねずみ講であったとして摘発されている。
 
 
(引用終わり)
 
 
 
と、ウィキでは、説明されています。
 
 どうしても、カルトというと、オウム真理教のような宗教を思い浮かべてし まいますが、元々、崇拝なのですね。
 ですが、カルトで、最大なものは、キリスト教ではないか? と思っていま す。
 
 
 神を信じる多数に対して、教会というものができる。
 「救われたい」と願う人たちは、献金をしたり、財産を寄進したりして教会 は、財をなす。
 
 人々が、「神を信じている」おかげで、「教会」は、少しの手間で(つまりロ   ーコストで) 儲けることができる。
 
 楽に儲けることができるとその末端を増やす ということで
 マルチの始まりです。
 
 それで、各地に支部ができる。また献金、寄進する。
 
 しかし、宗教の楽な点は、見返りがなくても責められないことですよね。
 
 マルチ商法のように訴えられることもない。
 
 
 ついには、一国の元首よりも、教会の立場の方が上になったりする。
 
 免罪符など、むしられ続けて、とうとう宗教改革が起こります。
 
 「神と人間と直接でいいはずだ」と。。
 
 それでも、結局は教会作っちゃうわけで、 人間というのは、まとまりた  い のかもしれません。
 
 イギリスが、ローマ教会から出ても、「自国の教会」を作ったのも、そのほ うがまとめやすいからだったのでしょう。
 
 
 
 
(引用開始)
 
 
 
すべての世に出てくる(その時点で、ある意味で金儲けとして成功した)カルトは、すべてキリスト教だからだよ。
 
(引用終わり)
 
 
キリスト教というのは、ユダヤ教の信者さんから派生したと読んだことが あります。ユダヤ教の厳しい戒律を守り、信仰しても、いつまでたっても救 われない。 で、同じ聖書から、解釈を変えて考える人たちも出てくるんで しょう。
 
 
それでも、だめだ救われないとなると、また同じ聖書から、別の解釈が出 てくるというわけです。
 
 
 
 
そうすると、「何かを願う人」「何かを望む人」がいて、そこにそれをかなえ てくれそうな人(事象)があらわれれば、そこでカルトの発生となります。
 
 
たとえば、「トンネルが通ってくれれば便利になるのに。。」と願う人たち  がいれば、 「作って上げられるよ」 という国が出てくると
 「信じる、アテにする、期待する」ようになります。
 
 
ところが、「トンネルを作る国」ことによって、神によって教会に金があつま るように 教会に該当するような 「寄生集団」ができちゃうんですね。
 
 
 そうすると、寄生集団が、なるべく多く、なるべく長くお金を得ようとして
 いろいろなことをしたり言ったりして引き伸ばす。もちろん、税金とか料金 も 取られ続ける。
 
 マルチ構造のできあがりです。
 
 
 「神」の位置にあるものは、別になんでもかまわない。
 
 それを願う人、望む人がいれば、それがすなわち「シンボル」になる。
 
 それが、「幻想」であっても。。 国家とかね。。
 
 
 
 
 「宗教とはイズムである」と書いたのは、橋本治さんですが、
 「イズムもまた宗教になりえる」わけです。
 
 まさに「考え方」も、また教祖になるわけで、寄生集団はその考え方を
 「信じている必要はない」のです。
 「信じている必要があるのは、広める下部組織と マルチの下の方に
 いる人たち」ということになります。
 
 
 マルクスの「共産主義」は、ロスチャイルドが書かせたという話も読みまし たが、そういう「考え方」の信者が現れれば、寄生集団は、それを使って
 集金することができるわけです。
 
 
 
 
 の中
 
 いわゆる市場原理主義は動物の弱肉強食、食物連鎖の形に似てい    て、動物では、最上位の動物が死ぬと、下位の動物に還元されるが
 人間の場合は、還元されることはない 」と書きましたが、まさにマルチの
 構造だったわけです。
 
 
 「国家幻想」を集金装置としたマルチの上位者がさらに富むには、どうし  たらいいか?。
 末端を豊かにすれば、上納されてくる富は増えるはずですが末端を豊か にするには 今、上位者が持っている富を 還元しなければならないの  で、それをしませんね。
 
 そうすると、今までのマルチ構造の上にさらに上位者を積むか、
 今までのピラミッドの間に新たなレンガを入れるか、しかないわけです。
 
 
 日本で言えば、国会も手を出せない第三者機関とかを 国の上に積んだ り、ナントカ基金とか、ナントカ機構とかを作ったりします。
 
 
 世界で言えば、EUとか、 国連とか IEIAとか、 WHOとかね。
 
 TPPとか、FTAPとかも、マルチ構造の強化をめざしているものなんだと
 思うんですよ。
 
 
 
 
 
 宗教というと思い出す文章があります。
 
 餓死寸前で動けない子どもを、鳥が襲う場面を
 写真に写したジャーナリストの話です。
 「写真を撮るよりも、子供を助ける方が先ではないのか?」
 
 「いや、報道したことによって、援助が増えたから。。」
 
 と、論争になった。
 
 
 アメリカ人とこのことを話した日本人の方がいて、日本人の方は
 「助けるべきか、撮るべきか悩んだ」けれど そのアメリカ人は
 「写真を撮るのがその人の仕事で、あとは神が決めることだから」
 と答えた。
 
 ということです。
 
 
 なんだかなあ。。
 
 ここでは、「子どもを救って、写真も撮る」 という知恵はないのかなあ。。
 
 と、思ってしまいました。
 
 何かを信じてしまうということは、人間を「怠惰」にしてしまうのかな?
 
 
 信じてしまうというのは、依存してしまう ということかもしれません。
 
 
 人間は、親であれ、誰であれ「大人に依存しないと 大人になれない」わ けで、しかも、死ぬまで新たな経験をしたり、知識を得たりして変化を続け るものですので、 「何か拠りどころが欲しい」と思って、集まってしまうの は当然かもしれません。
 
 しかし、たとえば「宗教を信じている人が、不確かな現世の救いや、来世 の安寧を願っている」のと違って、寄生している方は、徹底して現世の
 利益を得ているということを、忘れてはいけないと思います。
 
 この取引、契約は、フェアじゃないのです。
 
 人間は、育ててくれた人への「恩」を、返しきれないから、次世代に愛情を 注ぐ。というか、次世代へのプレゼントを残していくというのが 自然なよ うな気がするのですが、カルト及びマルチは、この「自然な感情」に、反し ます。 
 
 
 「次世代にツケを残さない」なんていう「シンボル」を抱えて、寄生しちゃっ ているのだから、始末に負えません。
 
 
 
 あまり、上手く説明できなくてすいません。
 
御来訪ありがとうございました。
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
  
 
 
 
 
 
 
 

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