御来訪ありがとうございます。
という本の中の言葉について考えたことです。
著者の坪内祐三 - Wikipedia の経歴を見ていただければ、大変、恵まれた読書環境でお育ちになったことがわかります。
管理人が、日ごろ感じていた、「学校の勉強とは違う賢さ、頭の良さ」を
「ストリートワイズ(路上の智恵)」 と言うことをこの方の本で知りました。
この方の本は、よく「同時代性からの観点」とも言われていますが、
「シュチュエーションフェチ」とも言えるような気がします。
「何歳の時、その時の自分が、この書店で、この時間にどんな気持ちで 手に取ったか?」
に、克明に拘るというのは、単なる、時代とか、本のテーマとかの「カテゴ ライズ」ではないからです。
単なる 博学、雑学ではない、「意味の集約」を、時系列で重ねると
大きな流れが見えてくる。
そういう著書が多いように思っています。
坪内祐三『私の体を通り過ぎていった雑誌たちの238ページから239ページにかけての文章です。
(引用開始)
一九七〇年代はサブカル雑誌(リトル・マガジン)の黄金時代だったと言われている。〔略〕
それらのリトル・マガジンに共通していたのは反体制(あるいは非体制)のにおいだ。私はそのにおいが嫌いだった(ある時期からの『宝島』にもそのにおいが立ち込めはじめて、私が熱心な読者でなくなっていったことはすでに書いたと思う)。
私たち(一九五〇年代後半生まれ)は「シラケ世代」と言われた。私のことを「シラケ世代」の代表のように書いた人もいるが、実は私は、「シラケ」が大嫌いだ(「シラケ」と「クール」は全然違う)。そのどこか非体制的な雰囲気が(本当に非体制であるには、例えば永井荷風のように特別な緊張感が必要なのに、その種の緊張を欠いた非体制の雰囲気)。それは高度成長時代の甘えに過ぎない。
(引用終わり)
ちょうど、略したところに、当時のリトルマガジンである『ビックリハウス』 ビックリハウス - Wikipedia の低レベルなパロディで、どうして笑える のかわからなかったと 書いてあるのですが、そのビックリハウスの編集 長だった高橋章子さんという方がいます。
この高橋章子さんが、1987年、講談社から出た 山藤章二さん(週刊朝 日の似顔絵塾で有名だった)の対談本の、『「笑い」の解体』の中で印象 的なことを言っています。
(引用開始)
高橋 ある社会の位置からものを見てしまうと、ここまでいってはいけないという束縛も出てくるわけね。男の場合。 ところが女って いうのは、あるパーツを攻めて,クオリティの高いことを生き生 きとできれば、「私いいの、それで」とかいって、盲目的にやれるタチなんですよ、女の子って。
山藤 「うん、うん」
高橋 んで、その盲目っていうのをうまぁく導入している男の人 が、いま一線なんですよね。嫌いは嫌いって言っちゃうみたいな人。 単純に言っちゃえば、みんなそうですよ」
山藤 (中略) 以前は、好き嫌いをナマに出すのはどうも恥ずかしい ことだという感じはあったからね。男の美学では。。
高橋 ね。私はとりあえず女だから、その意味では勝っていたわけですよ。嫌いは嫌いで。ところが、女をうまく導入しちゃった、その ことを 知っちゃった男の人がいたら、なかなか勝て ませんよ。
(引用終わり)
上の坪内さんの文章を読んで、下の高橋さんの発言を思い出し、サブカルチャーが、なぜ「サブ」のままなのか、ぼんやりとわかったような気がしました。
「サブ」と言われるからには、「メイン」が、あったはずで、それは、当時の
「文壇」とか、「論壇」とか、「画壇」とか言われるような権威であったので しょう。
同じ 『「笑い」の解体』の中で、タモリさんとの対談で、「各方面で、「壇」みたいなものに反抗する人達がいるんだけど、「壇」そのものが弱くなっちゃった」 と話しています。
坪内さんの上記の本の中には、椎名誠さんたちの『本の雑誌』という
リトルマガジンも取り上げられています。
椎名誠さん達は、「新しいタイプの口語の文章=昭和軽薄体」 と話題に なりました。そうして、たいした事を書いていないという批判に対して
「半径30メートル作家でいい」
と反論する文章を載せていたのを覚えています。
半径30メートルを書く、身近なことを書くというのは、別に 新しいことでも
なんでもなく、その書かれ方や文体が 「新しかった。かつて表現されな かった読者の思いを表現するのにぴったりだった」から支持されたのだと
思うのですが、当時は、「つまらないことばかり書いている」と批判する
「オエライ方々」に、言い返していたわけです。
つまり、「芥川賞」だの「ノーベル賞」だの権威と言われる偉い人の本で
あっても、「半径30メートルの昭和軽薄体」で書かれた本であっても
「読者に要求されている」という事実の前では、等価値であり、本の価値 は、「読者が決めるもの」である。
多くの読者が支持した本が、権威の方がおっしゃる「下らない本」だとし たら、そういう読者を多くしてしまった 「権威のみなさまの責任はいか に?」というところまで行かなかった。
「半径30メートル作家でいい」
は、
「私、いいの、。ここで、生き生きできれば」
と、なんとなく、似ているように思えます。
既存の『壇』は、メインとして健在のまま、同じ土俵に載らない。
「そこでイキイキしててね」と「サブ」として、ヒエラルヒーの一角を担うか、 浮遊して、すっぽり納まって しまい、なんら、「メインと言われていた文壇 のようなモノ」を、脅かす存在 でなくなっていく。
どうしてそうなったのか?
一つは、権威があると思われていたほうが、自分たちの劣化を
覆い隠すために、同じ土俵に載らないようにした。
「ああいう人たちもいていいよね」
と、認めるという形で上位に居座る。
もう一つは、これは出版社を考えるとわかりやすい。乱暴な話ですが
純文学は売れなくなってくると、中間小説が売れて、その利益で
純文学の雑誌を発行できるようになり、書籍が売れなくなれば、雑誌が
それも売れなくなると、マンガが。。というように、補完していって、
それでも、食わせてもらっている純文学は偉そうにしている。
フラットにならない。
こんな感じです。
ですから、文芸評論と同じく、マンガ(歌謡曲、ゲーム、アニメ)も、も評論 するに値するもので、純文学よりも、深く追求してあるものもありますよ。 というような、フラットな目線のものが現れても、
「そういう考えもありますね。(でも、自分たちの方が偉いけどね)
と、交わらないようにされる。
そして、「サブ」として居場所を安堵される。
そして、商売に組み込まれる。
そして、こういうのが売れるなら、儲かると、逆に儲けを独占できるような 仕組みを作ってから、「仕掛けて」売り出すようになる。
そういうコンテンツが長持ちするわけがないですよね。
高橋さんを嘆かせた
「女をうまく導入しちゃった、その ことを 知っちゃった男の人」
は、どうしてあらわれたのでしょうか?
実は、その時代以前にも、男性が好き、嫌い、嫉妬などを判断基準にしていたこと はあったと思います。
直木賞の選考で、梶山李之さんは、老大家から
「あんたと瀬戸内(晴美)には、やらんよ」
とハッキリ言われたという話は有名です。
しかし、その老大家が、選考会で
「あいつらは、売れているから、嫌いだ」とか
「週刊誌から来た人だから、嫌いだ」とか
選ばない理由を言うことはなかったでしょうが、
好き嫌いで判断というのは、あったのです。
高橋さんが 「嫌いは嫌いって言っちゃうみたいな人。 単純に言っちゃ えば、みんなそうですよ」というほど当時、そういう男性が現れてきたのは どうしてか?
管理人が思うに、「学生運動の敗北」が、そういう人を増やしたのではな いか?
あの当時の学生は、今より少なく、優秀な人か、豊かな家の人しか行け なかった。ところが、最高峰の東大の生徒でさえ、東大の教授の欺瞞を
覆せない。
日米安保にしろ、議員を動かすことが出来なかった。
つまり、「大人を説得できなかった。前世代の権威に勝てなかった」
という、過去があるわけです。
そうすると、「権威とは、戦うポーズ」は忘れないけど、違う土俵で
つまり、「好きなことをやって、好きな人だけ付いて来ればいい」
誰も、説得する必要のない世界で、生きれば、生き生きできる。
そういう風になってしまったのかな? と、思います。
なぜそれは高度成長時代の甘えにすぎないのか?
そういう学生達が、「居場所」を持つためには、受け入れてもらえそう な市場がなくてはいけない。 広告ブームしかり、ブランドブームしかり。
まだ一億総中流といわれる豊かさを、「モノそのものの価値」ではなく
「イメージという付加価値」に、お金を使うだけの余裕があったのです。
そういう余裕がなければ、その卒業生達の、居場所はなかったかもしれ ません。
うがった見方をすれば、権威の方は、そういう隙間を用意することで、か つて反抗して きた集団を、分散して、管理することに成功した、とも言え ます。
それで、どうなるのか?
近田春夫さんという方が週刊文春で、長く「考えるヒット」という連載 をし ています。今から、3.4年前でしょうか?
「もう新しい音楽は生まれないんじゃないか。ファッションみたいに
流行が変わるだけで。。」
と書かれていたのを思い出します。
評論家に今年はこれが流行です。 と言われても、もうその流行はごく一 部の人のものです。流行は生まれるのではなく、「売るために作られる」
だから、日本の音楽は、以前より、つまらなくなりました。
生きている以上、例えば、作家なら発表の場や収入は必要で、
その居場所の中から発せられる作品で、かすかな反骨や、あるいは
寸止めを感じていくしかないのでしょう。
もう、かつてのような居場所を許してくれる豊かさは占有されてしまって います。
「これが好き」というジャンルは、次から次へと細分化され、「ゲーム好き」
というカテゴライズされたとしても、連帯しない。
アニメも、同様。
同じ学年、同じクラスであっても、「好き」では、共通の思い出を持てるの は数人。
ワンルームマンションが、住居消費の究極の形といわれますが、カルチ ャーも、個の形に分断されながら、消費されているのです。
ネットも権威ある方から、もう商業的、政治的に、充分に準備された空間 であることにかわりありません。
また、「シンボルと、寄生者」 「カルトや、マルチ」はすでに形成されてい ます。
しかし、リアルと違って、リアルな生活の ヒエラルヒーにとらわれない
自由な発想が飛び交う場でもあります。
リアルでは、抜け出しにくい 「盲信」の世界も、疑いを持って気がつけば
抜け出せます。
リアルでは、シンボルを持ち上げて、寄生する集団が現れがちなのです が ネットの連携では、「寄生集団」を排除することもしやすいです。
高度成長に甘えて、「サブ」の位置からさらに細分化されてしまった
世界を、横につなげることが、ネットならできるかもしれない。
縦には「身分」という意識で、横には「価値観の違い」という理由で
分断をし続けているて 「メイン中のメイン」が、ぼんやりと見えてきまし た。
かつての学生はわかっていたはずです。
彼らが覆せなかった東大教授の決定。
その権威をいともあっさりと、「今年は、入試できませんね」と
動かしたのは、文部省、役人です。
「メイン中のメイン」です。
あとは、力を、結集したいですよね。
御来訪ありがとうございました。