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核リサイクルやエネルギーの資料が 続くわけ(笑)

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御来訪ありがとうございます。
 
 
と、みなさまがご存知であろうことばかりの資料が並んで???だと思います。
 
管理人が、基本的なことをさっぱりわかっていないので、前にクリップしておいたのを、読み直して、記録しているのです。
 
 
 最近、ロシアでは「隕石!」 シベリアで地震がありました。
 また、カリフォルニアでも地震というニュースがありました。
 
いずれも、エネルギー研究の施設や、核燃料の工場などに近いことから
意図的なものを感じています。
 
 
 ウラン権益を持っているほうは原発推進。石油権益のある方は、原発反対。
 
 そういう単純な構図ならわかりやすかったのですが、シェールガスやら
 
 再生可能エネルギーやらが絡んでくると複雑になります。
 
 
 ウラン権益を持っていても、もうウランは掘るのも危険と知れわたっているので、簡単には掘れなくなると、思えば、使用済み核燃料をリサイクルして、
新興国に、地雷の意味でも、売りつけて縛る、というのも考えられます。
 
 良さそうなことを言って、価値を高めてカネを集め、良さそうなことを言って
 価値を高めて、売りつけた後で、縛って脅す。
 
 アヘン戦争から進歩がありません。
 
 困リモノである、使用済みエネルギーに厚化粧してさらに儲けようということで もあり、実際の最終的な廃棄物は、ロシアで野積み状態という記事も読んだ
 気がします。
 
また、IETR,トリウム原発なども、同じようなメンバーで進めているのだと思いますが、それぞれが、その中のシェアを巡って、攻撃をしかけているようにも
思えます。
 
 例えば、トリウムはレアアースの副産物としてという扱いだったそうですが、
 これが動いてしまうと、ウラン権益者は困る。
 
 ですが、スターターとしてプルトニウムを使える という話があるので
 プルトニウムを保有している言い訳にはなる。
 
 先の選挙で当選した自民党の新人議員が、トリウム原発をブログで取り上げ ています。
 
 石破幹事長の安全な原発という発言も気になるところです。
 
 原子力委員会では現在の原子炉で、トリウム原発は可能なものがあり
 100年かければ、入れ替えられるなんて会合もありました。
 
 また、東芝とビルゲイツさんの原子炉は、スターターが劣化ウランでした。
 
 これも、放射性廃棄物の再利用となります。
 
 
  最近、土岐というところで、トリチウムが出るような実験があったそうです。
 
 
 核融合の実験だと思いますが、「実用上のトリチウム源としては原子炉内でリチウムに中性子照射して生成したものが利用されている。」三重水素 - Wikipediaより
 
 となると、俄然リチウム資源の争いも出て来ます。
 
 使用済みリチウムイオン電池から、触媒を使って、トリチウムを出すという
 研究もあるようで、GSユアサのことや、前国会で通った、小家電のリサイクル 法にも、通じてくる話です。
 
 
 
 
 欧米国(あるいは、企業)が、日本にプルトニウムを作らせたり保管させてい  たなら、水爆のための研究も密かにさせていても不思議はないし、他の兵器 の、研究、実験をさせていても、不思議はないですよね。
 
 原発関連のメーカーが、結局、東芝、日立、三菱、関連になってしまっているのは、単に「米国のせい」ではなくして、元々、そういう企業が、そういう傾向が
ある、ということで、それが、明治政府時代と、戦後占領とで、それぞれの
外国資本と結びついて、絡み合っているんだと思います。
 
 いるんだかいらないんだかわからないものを売りつけながら、
 食糧、水、エネルギーを支配する のが狙いなんでしょうけど
 彼らは、その裏づけとして、良い製品力ではなくて、脅かせる武力を
 必要とする。
 
 よって、新しいエネルギー源が出てくれば、当然 奪いに来るし、
 より効力の高い兵器の開発と、責任を回避できるごまかし方の研究で
 遅れをとるわけにいかないと、考えるのでしょう。
 
 
 
 
 東電の福島原発事故もそうですが、その後の劣化ウランが放出された
 爆発事故などは、三井系のところで、ここでも、何か争いがあります。
 
 
劣化ウランだけではなく、PCBですとか、批判された劣化ウラン弾のような形ではなく、もっと巧妙に、 仕組まれた交通事故、あるいは爆発事故、工事現場で埋められる、のようなやり方で、確実に、ある地域で、病気の人を増やしていく。。ような手法がとられるかもしれません。
 
 さらにマイナンバー、位置特定で、ある狙った誰かを被害に遭わせることも
 できるわけです。(これは、もうされていると思う)
 
 
イスラエルは、一つの企業に支配されている(アイゼンベルグ法 : nYoの どうにも、真実が気になるをご参照ください) そうですが、日本は、窓口が一つとも言い切れず、また、受けた方も 「共和制で談合」でありながら、ショバ争いもする、といった感じなので、わからないままです。
 
 
 三菱、三井ほど言われていない,みずほ系の 安田系と、一銀(渋沢系)の
 境目とか、 ロスチャイルド、ロックフェラーほど言われない、メロン財閥とか
 が、すごく気になっています。
 
 元祖トリクルダウンのメロンさん。。
 広瀬隆さんの本では、ランド研究所、カーライルとかと近いようです。
 
 
 
 
 郵政やNTTをちょっと調べてみて、ここでは談合して手を打ったなあ。。
 とも、思うけれど、そのメンバーは、エネルギーの争いでも同根のはずで
 エネルギーの方も辿っていって、郵政やTPP,などと見比べてみれば
 もっとクリアになるのではないか?
 
 
 
 という思いです。
 
 で、資料だけの更新が続くかもしれません。(笑)
 
 
 誰かにとっては、必要かもしれないけど、多分、大多数には
 面白くないだろうな。。(苦笑)
 
 ネットという「巨大な図書館」から、本を借りてきて、気になったところだけ
 書き留めるという感じです。
 
 ヒント大歓迎です。
 
 (御来訪ありがとうございました)
 
 
 
 
 
 
 
 
 

資料 MOX燃料 資源エネルギー庁資料 企業関連など

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(引用開始)
 
日本原燃
MOX燃料とは
 
 
原子力を巡る状況について
平成24年1月
資源エネルギー庁
 
13ページ 欧州における電力網
18ページ 既設発電所の運転年数と高経年化の状況(2012年1月時点)
20ページ 平成23年度原子力関係予算
       4,330億円
(うち、一般会計 1,169億円、エネ特会 3,161億円)
 
25ページ 原子力発電コストの徹底検証(コスト等検証委員会)
       今回試算(2011年12月19日)
       損害額20兆円なら10.2円
       損害額10兆円なら9.3円
       現時点で判明している損害額は約6兆円。
       この場合、8.9円
 
        損害額は増える可能性があるため、下限として提示し、損害       想定額が1兆円増えると0.1円/kWh上昇と記載。
 
46ページ 各原子力発電所(軽水炉)の使用済燃料の貯蔵状況について
47ページ プルサーマル計画の状況
56ページ (参考)我が国における地層処分に関する取組み
60ページ 世界の主要原子力プラントメーカー
 
69ページ 第4世代原子力システムの類型
72ページ その他の研究開発段階の原子力システムの例
74ページ 世界の高速炉サイクル開発の歴史と今後の開発計画
82ページ 原子力新規導入国との協力関係
      現在、経済産業省は11カ国と人材育成等に関する原子力協力       文書に署名。
 
84ページ IAEAを通じた国際協力
   IAEAへの特別拠出と専門家の派遣
 
原子力発電を新規に導入または拡大する国に対する基盤整備を支援するため、2008年度からIAEAに特別拠出金を拠出(毎年約1億円規模)。以下の事業を実施。
・原子力発電導入基盤整備に係る専門家会合の開催
・統合原子力導入基盤整備評価ミッションの実施
・各種専門図書の整備 等
 
 
 
 
 
我が国のプルトニウム管理状況
平成24年9月11日
内 閣 府
原子力政策担当室
 
 
 
原発 国有化の検索結果
 
 
 
 
 など。。
 
(引用終わり)
 
(管理人 注。
 正力氏が、原発を作ろうとしたとき、経済企画庁長官だった河野一郎氏が、
 さえぎって、日本原電に東海に先に作らせた経緯がある。 日本原子力発電 - Wikipedia
 
 また、九電体制を作ったという 松永安左エ門 - Wikipedia 氏と 河野一郎氏が 同郷というのも気にかかるところです。
 
 
デスペのはんなり日記 2013年02月18日ツイッターぶらり旅 (をご参照下さい)
 
 
(引用開始)
 
 
日立がブリティッシュ・ホライズン・ニュークリア・パワーを買収 update3
 
 
 
政策選択肢の重要課題:
使用済燃料管理について
-国内の動向-
1
技術等検討小委員会(第8回)
資料第3 - 2 号
原子力発電・核燃料サイクル技術等検討小委員会
平成24年2月23日
内閣府 原子力政策担当室
 
7ページ 使用済燃料貯蔵に関する計画
 
 東京電力(株)及び日本原子力発電(株)は、2005年11月に使用済燃料の中間貯蔵を行う「リサイクル燃料貯蔵(株)」を設立し、50年間の貯蔵を可能にする中間貯蔵施設の建設に着手したが、我が国で中間貯蔵施設の立地が進んでいるのはこの一ヶ所のみとなっている。
   事業開始時期: 2013年10月  
 
中部電力(株)は浜岡原子力発電所に使用済燃料の乾式貯蔵を行う施設の建設を計画中。
 
  運用開始時期: 2016年度
 
 
 
2012年3月26日
 
 
原発大事故1年 見えてきたこと7 原発輸出という迂回路4 原発覇権の夢の中身
<<作成日時 : 2012/03/19 02:58
 
縮率を上げるためには、遠心分離装置を大量に直列に連結(カスケード)して、ガス化させた6フッ化ウランを流してやればいい。分離器を経るごとにウラン235の濃度が増していく。従って、この工程を秘密にすれば核兵器を作っていても分らないことになる。
(中略)
ロシアはまさに濃縮大国で、2030年には54,000トンSWUまで能力を拡大する計画がある。しかもコストが外国の半分にも達しない(注4)。1977年ロシアはカザフスタンと‘国際ウラン濃縮センター(IUEC)’を建設する協定を結び、カザフスタン産のウランをシベリアで濃縮している。この濃縮工場は名の通り、IAEAが関与した国際ウラン燃料バンク構想(注5)の一翼である。このプロジェクトにはアルメニアとウクライナが参加すると言われている。

 日本がカザフで得たウランはロシアで濃縮されて輸入する構想になっているようであり、日本は国内の使用済み燃料の再処理をIUECに委託することを考えていると言われている。

 また、東芝は2009年ロシアのロスアトムとの間で、将来日本かその他のアジアの国での濃縮会社を合弁で作る検討することで合意している。

 イギリス、オランダ、ドイツが経営母体になっているウレンコは、ドイツが資本売却(=撤退)の意向を示している(注6)。また、フランスの国営企業アレバは経営悪化が伝えられ、しかも今年行われるフランス大統領選挙の結果如何では、事業の見直し等が避けられない状況である。

 ウラン濃縮事業は、非核保有国が自前の設備を持ちたがり、核保有国は核拡散抑制を徹底させようとし、さらには自国の覇権維持のための新興国への包囲網形成の手段に利用にしたりで、これらの動きがからんできわめて複雑になっている。

 ロシアとフランスは核燃料から再処理までをセットしにして原発を売り込むことができる。だが日本がこれらの国と競争して同じ条件で原発を売り込むには自前ではどうにもならず、アメリカ、ロシア、フランスなどの国の力を借りざるを得ない。そのための利権をどう得るか、虚々実々の駆け引きが続く。また、ウラン燃料をコアに日ロ関係が動くと期待する向きもある。だが、日ロ関係の深化にはアメリカが神経を尖らせていることも事実だ。ウラン濃縮をめぐる日本の利権拡大には国を傾ける大きなリスクと背中合わせである。 中村公雄 (2012-3-19)
 
アメリカのウラン濃縮工場は民間資本であるために、ユーゼックには東芝が出資している、ウレンコは米国に子会社を作ってそこで濃縮事業を始める、GEとカナダのカメコそれに日立が加わってレーザー法によるウラン濃縮会社を作っている、またフランスのアレバはアメリカに事業拠点を作るなど、外国との提携関係が複雑にあることが目をひく。
 
(引用終わり)

資料 核燃料サイクル政策の選択肢

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(引用開始)
 
核燃料サイクル政策の選択肢に関する検討結果について
【参考資料】
 
 2012年の資料のようです
 
 
(引用終わり)
 
上記の資料は、中がコピペできないところがあります。ぜひ、ご覧下さい。
 
使用済み核燃料を、全量直接処分、一部リサイクル、全量リサイクルで 比較検討した内容と、そのリサイクル方法などが検討されています。
 
26ページ 被爆について。
       人体に影響が少ない分量であるとしながらも、リサイクルでは
       バックエンドの被爆量が増大する恐れがあるとしています。
 
39ページ 再処理等積立金
42ページ 経済性
       全量再処理   9.5兆円
       部分再処理   9.5兆円+9.4兆円
       全量直接処分  7.8兆円~7.9兆円
 
65ページ 時経済性(1)の評価方法
       2011年までの費用は考慮しない
 
66ページ 経済性(1):将来を見通して発生する費用ベースの核燃料サイクル      の総費用
      ここでも、全量直接処分が一番安い。 といっても 12.0~12.8兆円      ですが
 
 彼らは、わかっているのに、進めているのだということがよくわかります。
 
(引用はじめ)
 
アクチノイド燃焼
 
 
 <更新年月>
 2007年09月
  高レベル放射性廃棄物に含まれるマイナーアクチノイド(MA)などは、アルファ線を放出し、放射性毒性が強い。これら長寿命の放射性核種を、非放射性あるいは短寿命の核種に変換することを核変換処理という。原子炉による核変換処理では、中性子による核分裂反応や捕獲反応を利用して核変換を起こさせる。専焼高速炉や酸化物燃料高速増殖炉金属燃料高速増殖炉を用いた核変換処理方法が、旧日本原子力研究所(現日本原子力研究開発機構)、旧核燃料サイクル開発機構(現日本原子力研究開発機構)、電力中央研究所においてオメガ計画に基づいて進められていた。現在、高速炉を利用する核変換処理については、日本原子力研究開発機構が中心になって研究を行っている。
 
 
 
2013年02月28日

「核のゴミ」の寿命を縮める 「オメガ計画」、10万年から30年に短縮 京大

 
長いので途中省略しています。全文はリンク先で)
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye5268131.html

「核のゴミ」の寿命を縮める 世界初の実験

 イギリスから日本に運ばれてきた高レベル放射性廃棄物を閉じ込めた核のゴミ=「ガラス固化体」です。政府は、この「核のゴミ」を放射能が弱まるまで地中深くに埋めることを検討していますが、その期間は実に10万年です。捨て場も決まらず、たまり続ける「核のゴミ」。その解決に向けた取り組みを取材しました。

(中略)

 将来にわたって頭を悩まし続ける核のゴミ。その解決の道筋につながるかもしれない世界初の実験が日本国内で行われています。その現場にカメラが入りました。京都大学・原子炉実験所。ここで、ある研究が進められています。核のゴミを地中に埋める期間を10万年という気の遠くなる年月から一気に数百年まで短くしようというものです。

 「潜在的毒性を減らすということは、もともと危ないものを本質的に少なくすることができる」(京都大学 山名元教授)

 放射能には「寿命」があります。原発から出る使用済み核燃料には、放射能が半分になるまで2万4000年もかかる、寿命の長いプルトニウム239などが含まれています。この寿命を人間の手で短くしてしまおうというのです。仕組みはこうです。加速器を使い、「陽子」を光の速さに近いものすごいスピードで鉛の入った金属に衝突させると、大量の「中性子」が発生します。その「中性子」を寿命の長いプルトニウム239などにぶつけると、核分裂が起きて寿命の短い別のものに変わるといいます。核のゴミから寿命の長いものだけを取り出して、この技術を応用すれば、放射能が半分になるまでに30年もかからない寿命の短いものばかりになり、地中に埋めておく期間も一気に短くなります。

 「陽子を実際に原子炉の手前まで持ってきて照射するという結合実験は世界初」(京都大学 山名元教授)

 京都大学では、実際の原子炉に加速器をつなげた世界で初めての実験を行っています。
 「ここでやっているのは、出力をあまり上げないで、加速器と原子炉を結合した特性がどう動くかというのを研究している基礎段階」(京都大学 山名元教授)

 実は、この研究は20年以上も前に国が「オメガ計画」という名前で立ち上げました。しかし、ゴミ処理に特化したこの計画は、発電を主体とする高速増殖炉もんじゅの開発の陰に隠れて、研究予算も十分確保されてきませんでした。実際、どの程度の確率で寿命を短くできるか、その精度が十分でないなど課題が多く、実用化は2050年頃とされています。

 「原子力発電が今後なくなっていくか、使い続けるかというディシジョン(決定)はこれから議論されていくけど、どちらにおいても、そういった放射性の長寿命のものを減らしていく技術を追求し続けていく姿勢が必要」(京都大学 山名元教授)

 現在、日本にある使用済み核燃料は1万7000トン。すでに処理を終えたガラス固化体1400本とともに処分先が決まらぬまま積み置かれています。世界初の実験は「核のゴミ問題」の解決への一歩となるのでしょうか。(27日17:15)

http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye5268131.html
 
 
 
 408(千円/運転時間1時間/1ビームライン
 
 
 
ばぜどん@tutinoue7時間
「「核のゴミ」の寿命を縮める 世界初の実験」 News i - TBSの動画ニュースサイト ← これって、まるまる高速増殖炉じゃないのかな? 周囲に飛び散らないのかな?
 
 
 
 アクチノイド燃焼 → FBR 高速増殖炉 - Wikipedia
 
 アクチノイド燃焼 →  LWR-FR  
 
 
 
強会メモ(2012.2.14)
 
その他、勉強会の議論で決定した資料1.1の主な修正箇所は以下の通り(JAEAの関係する部分を中心)
• P18のrLWR-FR(アクチノイド燃焼)J で、3行目、「欧州で開発。二階層概念が有効」は削除。
• P27のrLWR-MOX限定サイクル」、rLWR.MOXリサイクJレ」の記述で、「これまで・・・」以降の記述は削除する。ここは理想的な計算結果を記し、シナリオ依存の話は別途、シナリオの検討時に提巧きするとととする。→ シナリオの定量評価の際1;:、ウラン利用効率を算定する必要がある。
 
-ステップ1でFBRの効果が大きいととを示し、FBRの選択肢を残すべきという結論は得られるはず。
・よって、ステップ2の入口で、敢えて、FBRを集中的に議論する必要はない。
• FBRの議論を早めに実施すると、時間軸のフェーズが合わなくなる可能性があり、議論がわかりにくくなる。
・また、特定施設の是非に議論が行く可能性があるため、さらっと、FBRの意義!を認識し合う程度に留めるのが良い。
 
 
勉強会メモ(2012.2.1
2.放射性廃棄物発生量について(ステップ1技術選択肢・評価軸の一部)
o Jj四Aより5つの技術選択肢に係る放射性廃棄物発生堂、処分場面積の試算結果及び計算条件を説明。電事連等に計算条件をザッと確認、してもらい試算し、2114勉強会でのコメントを受け図修正したもの。2/16の小委員会では1枚文章のみ提示済み。
O 数値、条件、出典について各自確認・コメント。下記宿題。
• LWRサイクル関連のデータについて数値・出典を確認(Jj切A→電事連、内閣府、JNFL
 
(引用終わり)
 
 
TBSのニュースは消えていましたので、こちらを引用させていただきました。
 
LWR-FR
 
の意味がわかりませんでした。
LWRだけだと 
 
(引用開始)
 
軽水炉
 
日本では戦後に軽水炉による原子力発電が導入されることが決まり、自主開発と海外(主に米国)からの技術導入の2つの方針が採られた。電力会社による商用炉についてはPWRとBWRの併用による海外技術の導入と決まり、電力会社・プラントメーカー・サポートする大学の組み合わせは以下の通りとなった。
この枠組みは現在でも変わらず、後年原子力発電に取り組んだ電力各社もこのどちらかのグループに従っている。
 
 
 
 
これは明治時代に、海外の議論(電流戦争)に触発されて起こった、東京電燈大阪電燈間の直流・交流論争がきっかけであった。関東では、当初1887年から直流送電を行っていた東京が、交流の優位性の高まりに対して直流から交流送電への転換を決め、50Hz仕様のドイツAEG発電機 (AC 3kV 265kVA) を導入し、1893年浅草火力発電所を稼動させた。しかし関西では、1888年に設立された大阪が当初から交流送電を選択し、60Hz仕様のアメリカGE製発電機 (AC 2.3kV 150kW) を採用していた。
 
標準周波数50Hz - 北海道電力東北電力東京電力標準周波数60Hz - 中部電力北陸電力関西電力中国電力四国電力九州電力沖縄電力
 
(引用終わり)
 
 
FRは、fragment (分解する) などの略でしょうか?
 そうすると、今の原子炉を利用して、トリウム原発に。。とあった
 資料にも合致しますが。。
 
 勉強会メモ は、資料作りのメモみたいで、データが電事連など
 身内から来ていることがわかりました。
 
 一番上の資料の中にあったことが、ニュースになったので合わせて載せてみ ましたが、核分裂というのは、危険なんじゃないでしょうか?
 
 調べていると、次々と、知らないことが出てきます。
 
御来訪ありがとうございました。
 
 
 
 
 

資料 陽子加速器による核変換処理

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 御来訪ありがとうございます。
 
 
(引用開始)
 
 
 
全てが放射性元素で、半減期が短いものが多い。トリウムウランには半減期が数億年以上の長命な同位体が存在するためにまとまった量が天然に存在するが、他の元素は天然には全くまたはごく僅かしか存在せず、ほとんどが人工的に作られたものである。特にウランより重いネプツニウム以降の元素のことを超ウラン元素といい、ほぼ自然界には存在しない。
 
 
アクチノイドに属する超ウラン元素のうちプルトニウムを除いたものをマイナーアクチノイド (Minor actinide) もしくはマイナーアクチニドと呼ぶ。使用済核燃料に含まれ、放射性廃棄物処理を考える上で大きな問題となる。
 
 
 
(引用終わり)
 
 
 
も参考になりますが、
 
 
「核のゴミ」の寿命を縮める 世界初の実験
 
のほうは
 
(引用開始)
 
 
 原子力委員会が1987年に制定した「原子力開発利用長期計画」に基づいて、翌1988年に「群分離・消滅処理技術研究開発長期計画」がとりまとめられた。この計画は「Options Making Extra Gains from Actinides and Fission Products」から「オメガ(OMEGA)計画」と呼ばれている。オメガ計画の全体像を図1に示す。
 
 
1998年度から1年以上にわたって、原子力委員会によるオメガ計画のチェック・アンド・レビューが行われた。審議の結果、日本原子力研究所では加速器駆動システム(ADS)を利用した長寿命核種の分離変換技術(P-T)の開発研究を継続して実施することが了承された。
 
 
 日本原子力研究所では、ADSによる分離変換技術開発の分野でオメガ計画を推進するとともに、スイス・ポールシェラー研究所で行う1MWの鉛ビスマス核破砕ターゲットの実証を目指すMEGAPIE国際共同実験に参加、また、フランス原子力庁との研究協力については、2007年9月までの実施取り決めの延長に合意した。
 
2002年度、「加速器による分離変換技術の新たな展開」についてのワークショップを開催し、地層処分の観点から見た分離変換技術の意義などについて議論した。また「加速器駆動核変換システムとアジアADSネットワークの設立」について国際シンポジウムを開催し、海外のADS開発の主導者との協力を深めた。
 
 
 
 
これら長寿命で有害な放射性核種を非放射性核種あるいは短寿命核種に変換することを核変換処理という。核変換処理に原子炉を用いる方法と加速器を用いる方法が研究対象となっている。
 
加速器による核変換処理では、加速器によって高エネルギーまで加速した粒子やその2次粒子による反応を利用する。加速する粒子や利用する反応によってさまざまな方法が 考えられるが、高エネルギー陽子による核破砕反応を利用する方法が最も有力である。
核破砕反応では、入射陽子1個当り数個の鉛やタングステンなどの重い標的核が破壊され、数10個の中性子が放出される。エネルギーバランスを改善し、効率的な核変換処理を行うために、核破砕反応だけでなく、それによって発生する多数の中性子による核分裂反応や捕獲反応も利用される。典型的な加速器核変換処理システムは大強度陽子加速器、核破砕ターゲットと未臨界炉心(あるいはブランケット)から構成されている(図2)。
 
 
 
陽子加速器による核変換処理のほかに、電子加速器を用いる核変換処理も提案されている(図3)。この方式の欠点はエネルギーバランスが悪いことである。高エネルギー電子ビームの制動輻射で発生するガンマ線を利用した核分裂生成物(ストロンチウム90およびセシウム137)を(γ,n)反応で核変換する方法の研究開発が核燃料サイクル機構(現日本原子力研究開発機構)によって進められていたが、現在中止されている。
 
.核変換処理の研究開発
 
 一方、わが国では日本原子力産業会議(現日本原子力産業協会)が「放射能クローズドシステムの構想」を1973年に提出し、長寿命核種の分離と核変換処理の研究開発の重要性を指摘した。この提言を 受けて、わが国の原子力研究開発機関において基礎研究として、分離・核変換処理の研究が進められてきた。
日本原子力研究所(現日本原子力研究開発機構)では、1979年頃から高エネルギー陽子による核破砕反応を利用した加速器核変換処理システム概念の検討を行ってきた。
1987年に、「原子力開発利用長期計画」に沿ってとりまとめられた「群分離・消滅処理研究開発長期計画」が原子力委員会で了承されて、新たにオメガ(OMEGA)計画(Options Making Extra Gains from Actinides and Fission Products)として分離・核変換処理の研究が推進されることとなった
 
 
1990年から、わが国の提案によってOECD/NEAのもとで分離・核変換処理に関する国際情報交換計画が開始された。これを契機として、分離・核変換処理に対する世界各国の関心が高まり、IAEAおよびEC(欧州共同体)のもとにおいても国際協力が開始された。最近の大電流加速器技術の著しい進展をもとに、米国、韓国、ロシアなどにおいても加速器による核変換処理の研究開発が活発になってきている。
 
.陽子加速器による核変換処理
 日本原子力研究所は、使用済み燃料からウラン、プルトニウムを回収する商用発電炉サイクルとは独立したサイクルとして、高レベル廃棄物の分離変換を行う階層型燃料サイクル概念を提案している(図4)。 長寿命放射性核種であるマイナーアクチノイドを燃料とする未臨界炉を陽子加速器で駆動する加速器駆動核変換システム(ADS:Accelerator Driven System)の研究開発を進めている
 
 
また、燃料加工の必要性がなく、連続的に反応生成物を除去する方式の流体(溶融塩や溶融金属)ターゲット/燃料を用いた核変換処理システム概念の検討も行われているが、材料、分離方式等の開発課題が多い(図6)。
 
 
4.2 米国の動向
 
米国では、持続性、経済性、安全性、環境負荷低減性、核不拡散性を追求した第4世代原子炉の研究が各国を巻き込んで進められており、ADSは、先進的燃料サイクルイニシアチブ(AFCI:Advanced Fuel Cycle Initiative)プログラムの中でロスアラモス国立研究所(LANL)を中心に検討されている。マイナーアクチノイド燃料の開発、LANSCEの陽子加速器を用いた材料開発、加速器駆動試験施設(ADTF)の設計などを行っている。
 
 
 
原子核変換(げんしかくへんかん、英語Nuclear transmutation)とは、原子核に他の核子を高速で衝突させたり、自然条件下で放射性崩壊が進行したりすることにより、他の原子核が生成すること
 
 
 
マイナーアクチニドは高速炉では直接核分裂が可能であるが、熱中性子炉の場合中性子を捕獲させ核分裂性物質にする必要があり、発電炉の場合炉の設計、特に安全特性に影響を及ぼすため燃料として使えなかった。これに対し、高速増殖炉核燃料サイクルの中で処理する方法や、加速器駆動未臨界炉や専焼高速炉による階層処理が考えられている。
 
原子核(核) 原子核反応原子核分裂原子核融合核破砕反応プルサーマルオメガ計画
 
 
 
 
 
 
 
 
中性子爆弾は、戦術核兵器として使用後の占領時に市街の建造物やインフラ設備を利用できるようにするために爆発力を縮小させており、主として自軍地上部隊の行動を視野に入れた運用が考えられていた
 
放射線を強化した核兵器の概念は1958年にローレンス・リバモア国立研究所で考案され、最初の実験は1963年にネバダ核実験場で行われている。1970年代にはスプリント弾道弾迎撃ミサイル用のW66に中性子弾頭が使用された。これは当初、中性子線による電子機器への障害発生を用いて、弾道ミサイル迎撃に用いる手段として考えられたためである。その後、1ktの弾頭ならば、被害半径を1,000m程度に抑えられることもあって、戦術核兵器としての利用が考えられた。これによりMGM-52ランス短距離弾道ミサイルW70-3も1980年代に開発され、W79核砲弾にも使用された。
軍事機密とされ一般に知られなかった事から、70年代〜90年代の創作作品(宇宙鉄人キョーダインバビル2世など)においては、未だ現実には実用化されていない未来兵器・超兵器の扱いがなされていた。
 
 
泊原発が定期検査 国内の全基停止
2012/05/06 22:32
 

この理論を応用すれば、拡散した放射性物質に高出力の粒子加速器から中性子をぶつけて崩壊を加速する事が出来る訳で、「コスモクリーナーも夢じゃない?」なんて思ってしまいます。

しかし中性子を照射するという事は中性子爆弾と同じですから、放射性物質以外(例えば周辺の植物とか)の原子も壊してしまう訳で、物理学の素人の自分にはどう応用すれば「コスモクリーナー」が出来るのか皆目検討がつきませんが、そういう技術が確立されない限り、原子力は人類にとってまだ「子供の火遊び」としか言えないと思います。
 
(引用終わり)
 
難しくてよくわかりませんでしたが、管理人と同じようなことを考えた方がいらっしゃるみたいです。
 
 中性子爆弾の仕組みと似てる?!
米国では、ロスアラモスで研究されているそうですが、
中性子爆弾ででてきた ローレンス・リバモア国立研究所
 
(引用開始)
 
 
ローレンス・リバモア国立研究所Lawrence Livermore National Laboratory; LLNL)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州リバモアにある、アメリカ合衆国エネルギー省(DOE)が所有する国立研究所である。
ローレンスリバモア国立研究所 (2005)
 
1952年核兵器の研究開発を目的として設立され、物理学、エネルギー、環境、バイオテクノロジーなど研究を行っている。管理はカリフォルニア大学が行っている。「水爆の父」ことエドワード・テラーが所長をつとめたこともある。
2009年3月31日には世界最大のレーザー核融合施設である「国立点火施設」(National Ignition Facility; NIF)が完成した[1]。実験装置の一部には、HOYA USAから、大型レーザーガラスが導入されている[2]。また、磁気浮上式鉄道の一種であるインダクトラックの研究も行われている。
 
(引用終わり)
 
 こちらは、核融合の方だそうです。
 最近、この研究所の近辺で、地震があったようです。
 
 
2013年2月13日
 
 
 
 上記の資料を見ると、日本の方がやる気まんまんのようで、戦前、核兵器を作ろう としていたという理化学研究所の亡霊を見ている気がします。
 現場の研究者は必死なんでしょうけど。。
 
 補足のつもりが長くなってしまいました。
 
 御来訪ありがとうございました。
 引用させていたみなさまに感謝します。
 
 
 

メモ  ショール・アイゼンベルグ ①

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御来訪ありがとうございます
 
(引用開始)
 
檄!客家中国史3 サッスーンと日本軍【20091016
 
で、英、印、中国(清)の三角貿易で阿片戦争が起きる。
英国の勝利、上海、香港を本格的拠点として、阿片にとる欧米のアジア進出の図式は決定的なものになる。
その代理店が、当時の上海で支店「E・D・サッスーン・カンパニー」を開いていたサッスーンなのである。
で、アヘン貿易の利益をプールする役割を持ったのが、ジャーディン・マセソン商会、ベアリング商会などと共に作った香港上海銀行、今のHSBCである。サー・フィリップ・サッスーン。
 
簡単に、平たくして言うとこんな感じ。
 
 
しかし、サッスーン=アジア進出のロスチャイルド組織は、イオリア・シュヘンベルグ・・・・じゃなかった、ショーン・アイゼンベルグによって乗っ取られる事になる。
イスラエルの諜報組織、モサドを作った一族であるアイゼンベルグは、ロスチャイルド子飼いの部下、戦前から中国アヘンを仕切って来た中国在住のサスーン一族を皆殺しにしているわけです。
 
この時、阿片ネットワークの乗っ取りも行われ、これは当時の関東軍及び、日本人も関係している。中国阿片王である里見甫である。
そして旧三井と三菱の軍事産業のところが、この乗っ取りに協力したわけである。
ここらへんの一部は、ハリマンと満鉄の関係に繋がります。
アイゼンベルグ社の大株主が、アメリカの副大統領をつとめていたディック・チェイニーであることでも、アメリカ軍事産業=ロックフェラー=アイゼンベルグの図式になっている証明でもありますね。
 
 
 
2012-07-28 09:06:57
 http://blog.goo.ne.jp/yamanooyaji0220/e/d6070925e98eb89842b44bd0585801ac
 
 
キッシンジャーとは何者か


 
 いずれにしても、アイゼンベルグとキッシンジャーの両者について言えるのは、二人のナチス・ドイツから脱出した経緯、そして後に情報合戦の国際舞台で大きな役割を果たすようになったことを考え併せるとき、もともといかなる基盤もなかったところからどうしてかかる権力者の地位にまで上りつめることができたのかが、不可解だということである。ところでキッシンジャーは大々的に名前が売れ、世間の脚光を一身に浴びているのに対し、アイゼンベルグの方は全くその逆である
 
 
 
 
(中略)
 
上海は、当時の主だった情報機関のために働いていた工作員や情報提供者、スパイたちの巣窟だった。そして亡命ユダヤ人の多くは、コミンテルンやGRUの情報組織のメンバーだった。イギリス人のために活動した者もいたし、日本人のために働くようになった者も一部いた。


 ゾルゲと共に日本潜入


 ソ連が上海で行った極めて重要なスパイ工作は、アメリカ人女性のアグネス・スメドレーを使ったものである。裕福なアメリカの上層階級出身のスメドレーは、共産主義運動に参加し、その後極東におけるソ連の諜報活動の中でも最も重要な工作に従事するため上海へやって来た。彼女を操っていたのがかの悪名高いソ連スパイ、リヒャルト・ゾルゲだった。ゾルゲは当初コミンテルンのために働いていたが、後にGRU第四局に移った。当時の日本の政策を潰すために、彼は日本人だけではなく中国人の共産主義者、ドイツ系ユダヤ人、その他のヨーロッパ人たちを採用した。

 1920年代から1930年代にかけ、従来からあった上海のソ連情報組織は、この工作によって強化された。共産主義者は様々な政治工作を仕掛け、第四局も極めて巧妙な秘密工作を行った。それによってクレムリンは、この地域における日本軍の作戦に関する詳細な情報を入手することができた。彼らは日本による真珠湾攻撃に関する情報も事前に入手していた。

 リヒャルト・ゾルゲは、ソ連のGRU第四局の中心的工作員であった。アイゼンベルグがゾルゲの率いる諜報グループの一員だったという直接的な証拠はないにしても、ゾルゲが東京の在日ドイツ大使館におけるソビエト・スパイのトップになったときに、彼が日本に移ったことは極めて深い興味をそそる事実である。ゾルゲは、日本に入り込むために、それまでの8年間を自らの偽装のために費やしている。彼は日本国内での活動のために人脈を作り、要員を徴募し、訓練を行っていた。その人脈の中にショール・アイゼンベルグも含まれていたと思われる。
 
 
 
 永野重雄氏とのコンタクト

1940年に来日した彼は、日本財界の大物の一人である永野重雄氏と出会う。永野氏は新日本製鉄の創始者で、戦後における日本経済の復興を指導した人物である。
 
戦時中アイゼンベルグが何を行っていたかについての記録はないし、彼もそれを明らかにすることを拒んでいる。だが終戦直後、永野氏との関係を通じてアイゼンベルグは、当時の日本で大手としては唯一の金属と武器のスクラップ会社を設立した。

 アイゼンベルグは日本国籍を有していた。アメリカ進駐軍当局は、占領下の日本人がある種の事業を始めることは禁じていたが、アイゼンベルグに対してはそれを全く自由に始めて良いと認めた。彼が一大事業集団を築き上げることになった手初めの大プロジェクトは、オーストラリアとフィリピンから鉄鉱石を買付け、それを日本の鉄鋼メーカー、とりわけ新日本製鉄の前身である八幡製鉄に売るというものだった。彼の事業は急拡大し、また日本の製鉄業界と進駐軍双方に持っていたコネを通じて、アイゼンベルグは日本財界による戦後初の訪米を計画た。彼はアメリカ政府との交渉においては日本の製鉄業界を代表して事に当たった。

日本発進の網をはる


 
そういう中で、アイゼンベルグが一躍世界的なビジネス・コネクションを手に入れるきっかけとなったのは、イギリス政府が同国の国有会社であるインぺリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)の日本での代表者として彼を指名したことだった。

 イギリスの大手国有企業の例にもれず、ICIもイギリス情報機関の秘密工作やスパイ活動に利用された。アイゼンベルグがICIの仕事をすることになった時、イギリス情報機関は日本国内での活動にはある程度の歯止めをかけた。というのも、ダグラス・マッカーサー将軍がイギリス人や彼らの情報活動に対し終始敵意を抱いていたからである。

 
戦時中、マッカーサーはイギリスのアメリカ国務省への政策介入を非難したことがあっし、戦略事務局(OSS)がつくられた裏にイギリスの意図が働いていたとして、南西太平洋地域での軍事作戦にOSSが介在することを拒否した。日本の情報記録を調べてゾルゲ一味の背景と実体を暴いたのも、マッカーサー配下の軍情報部だった。マッカーサー側近の軍情報将校だった人によると、その関係者の中にショール・アイゼンベルグという名前が挙がったことがあったが、ビジネスの絡みから、彼の件は別にされてしまったという。
 
日本財界ヘの深き恨み


 アイゼンベルグだけを他から切り離すことによって、アメリカ政府筋はアイゼンベルグの日本での事業をさらに拡大し、韓国にまで展開する途を開いた。実際、彼にとっては韓国の事業拠点の方が日本の拠点より重要になった・アイゼンベルグが最初に韓国に行った時は、オーストリアのパスポートを使っていた。彼はオーストリア人ではなくなっていたのだが、「ユダヤ人」と言われることを恐れて義父が彼のためにオーストリアのパスポートを用意してやったのである。

 引退したアメリカの外交官の1人が、アイゼンベルグの活動について次のように語っている。

 「当初、韓国へは一種の国際金融業務を行う形で入った(アイゼンベルグが韓国で事業を開始したのは停戦後の1953年だった)。アイゼンベルグは成功する見込みの無いことに手を出し、これに資金を注ぎ込むことによって、彼が利用しようと目を付けていた一部の地元人士の信頼を勝ち取ろうとしていた。

 アイゼンベルグは韓国で建設とエネルギー業務に進出し、それによって得た利益で韓国産業の発展に大きな貢献を果たした。彼が韓国への進出を決意した理由は、アメリカによる軍事占領が終った後、今日でもアイゼンベルグ自身が憤慨している通り、日本の大手企業の多くが彼を追い出しに掛かったことにある。

 
1982年1月14日付 『ニューョーク・タイムズ』 紙に載ったアイゼンベルグの数少ないインタビュー記事の一つの中で、彼は日本との関係を次のように述べている。

 「我々は日本で数多くの新しい事業に着手したが、日本人がその成果を横取りしてしまった。25年あるいは30年前には日本人は我々を必要としたが、今では我々を必要としていない」と。

 
アイゼンベルグは、今なお日本人に対する恨みの気持ちをはっきりと持っている。1950年代に日本人が彼を追い出してしまったことをアイゼンベルグは決して許してはいない。アメリカの情報関係者の中には、アイゼンベルグの恨みから、ADLのジャパン・バッシング計画は徹底したものになると見る人たちがいる。


 アイゼンバーグとADL


 1950年代、60年代にわたって、アイゼンベルグは原材料の手当や資金調達に自分が持っている南米コネクションを利用し、それによって極東における自らの帝国拡大を図った。彼の大がかりな帝国の中枢となっている企業は、1960年にパナマにおいて設立されたユナイテッド・ディべロップメント・コーポレーションである。
当時の彼の事業は、電力、製鉄、鉄道、電話、セメント、繊維、化学、潅漑、コーヒーの各分野にわたっていた。また彼の事業は約40ヵ国にも及んでいた。アメリカにおける彼のコネクションは、シオニスト・ロビーの大物たちが関係する金融ネットワークに及んでいるが、その中でも鍵となる人物は、フィリップ・クラツニックである。

 フィリップ・クラツニックは、アメリカのシオニスト・ロビーの中でも最も力のある人物の一人である。彼はカーター大統領の下で商務長官を務めたばかりではなく、ブナイ・ブリスとADLを今日のアメリカの社会の中で最強の組織に変身させた人物でもある。
ブナイ・ブリスの会長を20年間務めた後も、シカゴに住むクラツニックは、企業や金融機関とのコネクションを通じてティッシュ一族と同等の力を依然有している。シオニスト・ロビーがアメリカの政治を締め付ける力を強固なものにすることができたのは、カーター政権時代のことだった。クラッニックは、ソル・リノヴィッツをカーター政権内に招き入れた。リノヴィッツは、クラツニックとアイゼンベルグの友人であるだけではなく、彼らの仕事上でのパートナーでもある。

 見えざるユダヤ組繊の網


 個々の人物たちのこうした強力な結び付きは、単に強いコネを持った人たちが存在しているというだけではなく、世界中に及ぶ巨大な組織の存在によって裏打ちされているということである。

 カーター政権の財務長官だったウェルナー・マイケル・ブルメンソールという一人の人物がいる。中国の上海で育ったブルメンソールは、ナチから逃れたドイツ系ユダヤ難民の1人である。今日、ブルメンソールは、ミシガン州に本拠のあるべンディックス・コーポレーションのトップであり、今も国際通商政策を陰で操っている。彼が上海にいた時、アイゼンベルグとは親しい友人の間柄だったのではないか、という質問については2人ともそれを否定する。だが、2人が同じような経歴をへていることと、互いに密接に関係するようになっているという事実は、何かがあることを示唆している。

 個々の人たちがこのように結び付き、政治的経済的連携を図ることができたのは、ロックフェラーやロスチャイルドの後ろ楯のおかげである。彼らの情報活動の拠点は、今日でもアメリカ、イギリス、イスラエルの三ヶ国である。

 
(後略)
 
 (引用終わり) 続きがあります。

 
 

メモ  ショール・アイゼンベルグ ②

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(引用開始)
 
June 17, 2007
オルタナテイブ通信より転載(1) CIAと中共政権の蜜月
 
2007年02月21日
CIA=中国共産党・・日本独立のための第7章
1941年、創立と同時にCIA(当時はOSS)は、中国に
おいて急速に勢力を伸ばしつつあった中国共産党の
実態調査に取りかかる。

中国に全くコネクション(つながり)の無かったCIAは、
ボスである英国諜報組織MI6に依頼し、MI6の中国に
おける出先機関であった麻薬密売組織サスーン財閥に
協力を要請する。

しかし中国国民党と連携し中国南部に帝国を作ろうとして
いたサスーンは、共産党とは関係が険悪であり、結局
中国南部の帝国建設でサスーンに協力していた
アイゼンベルグをCIAに紹介する。


アイゼンベルグと共に満州建国資金をアヘン売買で稼ぎ
出していた里見甫(注:佐野真二著「阿片王」2006参照)の元に、CIA局長ワイルド・ドノウ゛ァン
から派遣されて来たのは、ドノウ゛ァンの親友で部下でもある
ウィリス・バード中佐と北京語の通訳としてパレット大佐
であった。

[続きはここから]


アイゼンベルグと里見は、後にCIAの中国支部の事務所が
設置される延安にバードを連れて行き、中国共産党の諜報
組織の代表、恵生に引き合わせる。

後に中国共産党の諜報組織、中国特務機関(中国のCIAに
該当する)の長官として戦後長く君臨し、中国共産党の秘密
警察、暗殺部隊の指揮官として中国の政治家・官僚達に
恐れられる事になる中国共産党の「影の実力者」恵生である。

結局パレットの通訳では時間がかかり過ぎるため、英語の
出来る通訳として、この会談には江青女史が同席する事に
なった。

毛沢東夫人の江青である。会談では、日本軍と戦闘を繰り
返す中国共産党に米軍とCIAが全面的に協力する事が決定
される。
(山極晃著「米戦時情報局の延安報告と日本人民解放連盟」
大月書店) 

米軍にとっても日本軍は敵であり、CIAと中国共産党は
利害が一致していた。


世界の動きが見えていた里見は、石油も鉄鉱石もなく米国
との戦争に突入して行く日本政府の無能さに軽蔑しか
感じていなかった。

日本の国の枠から飛び出し、アイゼンベルグと共に英仏と
協力しながらアヘンを売買していた里見は、もはや日本人
ではなく「帰るべき故郷」の無い国際人になっていた。

満州は里見にとって自分の作った芸術作品であり、日本国家
とは何ら関係が無かった。無能な日本国家が滅亡する事を
里見は嘲笑していた。


そしてこの時に始まった中国共産党とイスラエル・
アイゼンベルグ、CIAの協力関係は、2007年現在まで
絶える事なく継続し続けている。

71年の米国、中国の国交回復、CIA出身のヘンリー・
キッシンジャーによる米国、中国の経済協力関係等は、
この諜報における中国と米国、イスラエルとの一体化の
ごく一部が表に出たものに過ぎない。

米国が中国にミサイル技術を供与してきたイスラエル・
ルートがこれである。(売ったのはCIA放送局と異名を持つ
CBSTV社長ウィリアム・ペリーである。)

戦後、中国共産党の核兵器開発を担って来たのは
アイゼンベルグ社である。

事実上、中国をボスとしている北朝鮮の核兵器開発の技術は
パキスタンから学んだものであったが、パキスタンの核兵器
開発を担ってきたのがアイゼンベルグであり、そこに北朝鮮
を同席させて「学ばせた」のはアイゼンベルグである。

特に軍事面では、中国共産党とはアイゼンベルグの事である。
この中国共産党、CIA、アイゼンベルグの協力関係は
41年に始まっていた。


恵生、アイゼンベルグ、CIAの会談では、中国共産党が
その活動拠点の山間部、農村でアヘンを生産し、CIAと
アイゼンベルグ、里見がそれを売り捌く事で一致を見る。

この会談後、中国共産党は特に福建省南部、江西省の
井崗山地域でアヘンを大々的に生産し始める。その利益は
中国共産党、イスラエル・アイゼンベルグ、CIAの間で
折半される。

この構造は2007年現在まで変わらない。アヘン販売ルート
を支配しているアイゼンベルグとCIAは、中国共産党には
無くてはならない協力者である。

このアヘン取引を基本に、イスラエル・アイゼンベルグは
核兵器技術と最新鋭の通常兵器を中国共産党に販売し、
CIAも中国に兵器を販売し続けて来た。

中国共産党は、アヘン売買の利益を兵器購入代金に充てて
来た。中国共産党、イスラエル・アイゼンベルグ、CIAは
皆「同じ商売仲間」である。


70年代初頭、ベトナム戦争により中国政府と米国政府が
対立していた時も、中国特務機関とCIAのビジネス・
パートナーには何ら変化は無かった。

敵と結ぶ、それが諜報である。

(中略)


第二次世界大戦中はこのアヘンの利益は3等分され、
一方では満州帝国を壊滅させようとする中国共産党と
CIAの武器購入費用となり、他方では里見の満州帝国を
守るための武器購入費用となった。

敵国同士の資金源が同一である矛盾など、中国共産党も
アイゼンベルグもCIAも里見も誰も問題にせず、
矛盾などとは考えない。

それが諜報というものであり戦争というものである。
これが「当然の常識」であるという認識がないと、
「世界の実相」は 遂に最後まで見えて来ない。


注)上に出てくるアイゼンベルグですが、私は、この人物ではないかと考えるものです。 「ショール・アイゼンバーグ 」 「ユダヤの告白」より

(中略)
オーストラリアとフイリピンから鉄鉱石を買い付け、それを日本の鉄鋼メーカーに、とりわけ八幡製鉄に売るという大プロジェクトに着手、事業急拡大
 
 
 
 
2010-04-20
ナチス、FEMA、日本の防衛省、公安の背後にはイエズス会=CSIS
 
CSISは1964年、中国共産党諜報部の喬石長官との協力の下、中国国内の麻薬製造地帯のネットワークを「整備」し、世界各国に中国産麻薬の販売網を「形成」した。

この麻薬販売の利益で兵器を購入し、CSISは1972年から、南アフリカの黒人人種差別体制を維持するための軍備として提供し、またイスラエルが中東戦争を実行するための兵器として供給してきた。

CSISは、南アのスパイ組織=国家安全局BOSSと協力し、南アの金塊・ダイヤモンド・ウランと、中国製麻薬の利益=兵器と「バーター取引」を行う、諜報・スパイ組織であった。

またCSISは、イスラエルに兵器を供給し、中東戦争によって「石油価格を高騰させる」、石油王ロックフェラーのための「石油価格コントロール」センターであった高騰した石油の利益で中国産麻薬が購入され、麻薬の販売利益で兵器が買われ、その兵器がイスラエルに渡り、中東戦争を起こす。そして石油が高騰する。

これが、米国=中国=イスラエルによる、「現在にまで続く」戦争経済の仕組み、戦争マシーンのシステムである。

 現在、CSISは、米陸軍・海軍直系の軍事戦略研究所でもあり、米軍の持つ膨大な数の生物化学兵器の管理センターともなっている。
 
 
 
 
 
 
永野家
瀬戸内海、広島県呉市沖に浮かぶ下蒲刈島浄土真宗本願寺派の名刹・弘願寺
 
 
 
(長兄)護の帝大時代の親友が財界の巨頭・渋澤榮一の子息だったため勉強相手という名目で謝礼を頂きそれが郷里への仕送りとなった
 
 
1924年大正13年)に卒業後、貿易会社浅野物産に入社。気乗りしない会社で10ヶ月で退社。翌1925年(大正14年)、護を通じて渋澤の子息・正雄の依頼を請け倒産会社、富士製鋼の支配人兼工場長となりこの会社の再建を遂げる。これが機縁で一生鉄屋商売に足をどっぷり漬けることとなった。1934年昭和9年)、製鉄大合同で富士製鋼が日本製鐵に統合されて日本製鐵富士製鋼所となると同工場の所長に就任。1941年(昭和16年)、鉄鋼統制会に理事として出向。北海道支部長で終戦を迎える。
 
1946年(昭和21年)、日本製鐵に常務取締役で復帰。1947年(昭和22年)、六高の先輩・和田博雄長官の強い要請で片山内閣経済安定本部副長官(次官)となる。この時、次官仲間の池田勇人大蔵省)、佐藤栄作運輸省)と親交を結び政界に強い財界人の素地を作った。しかしGHQの命令で天下り禁止法が作られることになり、鉄屋に戻るため1年半で役人は辞めた。創立直後の日本経済団体連合会(経団連)の運営委員。1948年(昭和23年)、日本経営者団体連盟(日経連)常任理事。
同年、GHQが強力に推進した戦前体制一掃政策により日本製鐵が過度経済力集中排除法の指定会社となり八幡製鐵富士製鐵に二分割されると、1950年(昭和25年)に発足した富士製鐵社長に就任。この年、米軍が戦時に攻撃を避け占領後のため残したといわれた日本最大・最新鋭の広畑製鉄所が日本側に返されることになった。
吉田茂の側近・白洲次郎ドル獲得のためイギリスに売却を主唱、また地元関西系3社も生き残りを賭け激しい争奪戦が繰り広げられたが重雄は全社員を集め「取れなかったら腹を切る。将来の日本経済のため、製鉄業を外国資本に任せられるか」と啖呵を切ってあらゆる人脈を使いギリギリで広畑の外資売却案を潰したことで、広畑を獲得した会社は大きく飛躍した。
白洲とはその後銀座のクラブで取っ組み合いの大ゲンカとなった逸話も残る[1]1959年(昭和34年)、東京商工会議所会頭と日本商工会議所会頭に就任。桜田武小林中水野成夫とともに「財界四天王」と呼ばれ同郷の池田勇人の総理誕生にも尽力した。
 
1963年(昭和38年)、日本鉄鋼連盟会長に就任、1965年(昭和40年)、同名誉会長に就任。1970年(昭和45年)、得意とする政治力で大平正芳、佐藤栄作、三木武夫ら有力政治家を動かし八幡製鐵との戦後最大級・世紀の大合併を実現させ新日本製鐵を設立、会長に就任した。この時合併をめぐって藤井丙午副社長と対立し1973年(昭和48年)、藤井の政界転身と同時に自らも取締役相談役に退く。戦後日本経済の牽引車的役割を果たした経済人の一人である。1981年(昭和56年)にはロナルド・レーガン大統領就任式に参列。また道州制の提唱や第二パナマ運河の構想など、経済界の日本代表として国内外で活躍した。長きに渡り財界に君臨したため「財界フェニックス」との異名をとった。商工会議所会頭の仕事では、1973年(昭和48年)の小企業等経営改善資金融資制度の発足により、日本経済の基盤である中小企業育成に尽力。また日米欧委員会日本委員会委員に就任
 
 
1956年(昭和31年) 産業計画会議委員(議長・松永安左ヱ門)就任。
 
 
親族
兄は政治家(運輸大臣他)・実業家で政界との橋渡し役をした永野護、弟の四男・永野俊雄五洋建設会長、五男・伍堂輝雄海軍中将商工大臣などを務めた伍堂卓雄の養子となり日本航空会長などを務め六男・永野鎮雄は参議院議員、七男・永野治は国産ジェットエンジンの開発で知られ石川島播磨重工会長となった。また護の子・永野厳雄は広島県知事永野健三菱マテリアル社長及び日経連会長になるなど揃って政経財界で活躍し、永野六兄弟、永野一家などと呼ばれ日本最大・最強の閨閥地図を作り上げたとも言われた。
 
(引用終わり)
 

 

ショール・アイゼンベルグ③

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御来訪ありがとうございます。
 
 部分的に引用しています。ぜひ、全文をご覧下さい。
 
(引用開始)
 
2012-07-28 09:06:57
 http://blog.goo.ne.jp/yamanooyaji0220/e/d6070925e98eb89842b44bd0585801ac
 
麻薬帝王 里見甫(はじめ)



米国最大のマフィア組織であるアイゼンベルグと、日本の大物右翼、ヤクザである里見甫はここで出会う。

ショール・アイゼンベルグは、1940年に新日鉄(当時の八幡製鉄)の会長であった永野重雄の娘と結婚している。

中国大陸のアヘン市場は、アヘン戦争以降、英国軍部と結び付いたイラク出身のサスーン財閥の独占市場であった。

里見は三井、三菱を背後にした資金力と飛び抜けた商才で、中国の地下経済を支配する青パン、紅パンと呼ばれる秘密結社にまで幅広く人脈を広げ、一時期は英国を始めとしたアングロサクソンを排除し、中国のアヘン市場を支配下に置いた。

その背後には、サスーンを中国アヘン市場から追い出し、次の世代の中国アヘン市場を狙うアイゼンベルグ社(後にイスラエル建国の中心となる)と里見との提携があった。 
 
この昭和通商で、里見甫の部下として「金儲け」のため麻薬売買を担った人物達の中に、吉田茂、右翼の大物、児玉誉士夫、そして岸信介、佐藤栄作、池田勇人がいた。
 
第二次世界大戦中、中国大陸で満州帝国国務院に勤務する一方、里見甫の経営するアヘン密売会社「昭和通商」で、吉田茂等と共にアヘン密売に従事し、満州帝国建設資金を調達していた岸信介は、戦後、戦争犯罪人として巣鴨拘置所に収監される。

巣鴨から釈放されると岸は、満州帝国の日本語新聞「大陸新報」の社長であった福家俊一と密談を重ね、日本に新しい政党を作る準備を始める。

福家は満州時代、アヘン密売を巡り里見の情報屋として、新聞「大陸新報」の情報ネットワークを駆使し他のアヘン密売組織を「摘発」し、里見は福家の情報の下、他の密売人を次々に殺害して行った。

福家は戦後、里見のアヘン資金を日本の政界に持ち込むエージェントとして、岸首相、福田赳夫首相、美濃部亮吉東京都知事の選挙資金を拠出する「政界仕掛け人」と呼ばれる事になる。
 
このときのサスーン追い出しは、早い話が、「殺人株式会社アイゼンベルグ」がサスーン関係者を皆殺しにしたということである。以来、中国のアヘン市場はアイゼンベルグ社が独占している。その本拠地はイスラエル。
 
ロッキード事件では、なぜか田中は逮捕されたが、同様にワイロを受け取っていた後の首相中曽根康弘は、全く逮捕されなかった。中曽根は現在も、日本の政界の「大御所」として生き残り、「ご意見番」となっている。

この同じ「ワイロ」を受け取った中曽根と田中の、日本の政界・マスコミ、そして警察の「扱いの違いは」、余りに異常である。同じ犯罪を犯しても、一方は刑務所、一方は後に首相。

この中曽根にワイロを渡していたのは、第二次世界大戦中、中国で麻薬密売を行っていた右翼のボス・児玉誉士夫であり、児玉は後に病気により死期が近づいた時、「自分はCIAの対日工作員であった」と告白している。

児玉の第二次世界大戦中の中国での麻薬密売、そのボスであったのが、後にイスラエルを建国するショール・アイゼンベルグであり、児玉が中曽根に渡した資金は、このアイゼンベルグの資金であった。

アイゼンベルグ社は現在、北朝鮮の核兵器を製造している、世界有数の核兵器・原子力発電メーカーであるが、日本に原子力発電を導入したのが中曽根であり、中曽根は科学技術庁長官時代、「密かに日本の核兵器開発を指示した」人物である。

核兵器・原子力発電所メーカー=アイゼンベルグから、ワイロをもらい、日本に原子力発電を導入し、核兵器開発を指示した中曽根。

田中は航空機購入を巡る「ワイロ」で逮捕されたが、原子力発電所・核兵器・購入を巡る「ワイロ」は、「揉み消された」。

アイゼンベルグと、それをバックにした中曽根には、恐ろしくて誰も手が出せない?


 
1942年 OSS(アメリカ戦略諜報局)設立
 
 第2次世界大戦中、スパイ組織の必要に迫られたルーズベルト大統領は第1次大戦の英雄ドノヴァンに創立を依頼する。ドノヴァンは.英国スパイ組織MI6の協力と、後にイスラエルの建国者となるショール・アイゼンベルグにスパイ技術の指導を受け、OSS(後にCIA)を創立する。
 
戦後、ドノヴァンはCIA創立の経験から世界各国でスパイ組織を創立。スパイの養成担当として活躍する。CIAの資金で電電公社(後のNTT)を創立する時、日本側代理人として創立を指揮したのがドノヴァンである。
アイゼンベルグは後に英国スパイ組織MI6と協力し、イスラエルのモサドを創立する。

モサドは後に、MI6の「スパイ技術指導者」となる。米国CIAは、このMI6の下部組織として形成される。

吉田茂、岸信介、池田勇人(と、その末裔達)、イスラエル(アイゼンベルグ=日系イスラエル人)=モサド、中国共産党、スエズ=ドレフュス(つまりロスチャイルド)は、現在も、アジアの麻薬流通のパイプに「共に、ぶら下がった」仲間である。

このパイプが、今後、ロスチャイルド・アジア帝国の動脈になる。

 もちろん中国にも、この帝国に反対する者達が居る(生粋の共産主義者のように)。イスラエル・米国にも、この帝国建設に乗り遅れたネオコン派=ブッシュ一族が居る。


 
 
 
 
 
このABTと、そのボス=アイゼンベルグ社の経営幹部が、前ブッシュ政権の副大統領ディック・チェイニーである。
 
 
◆豚インフルエンザを生物兵器として開発した、アメリカ・メリーランド州フォートデトリック陸軍生物兵器研究所は、第二次世界大戦中から、生物化学兵器の研究開発所として、英国のウィンストン・スペンサー・チャーチル首相から、マスタード・ガス等の毒ガスの「注文」を受け、製造を行っていた。

フォートデトリックの生物兵器研究所は、ロングアイランドのハリマン優生学研究所から、生物兵器研究を引き継いだが、この優生学研究所の創立メンバーであるハリマン一族の、エイブリル・ハリマンが、ブッシュ一族のブラウン・ハリマン銀行の経営者でもあった。

ハリマン研究所の後継であるフォートデトリックに、チャーチルが毒ガスの「注文」を行うネットワークは、ハリマンと、チャーチル2世の「妻の共有」と言う閨閥という連携によっても継承されている。
 
このハリマン=パメラ=チャーチル2世の、パメラが、クリントン大統領の大統領選挙の資金責任者であり、パメラが、政治家クリントン夫妻の「生みの親」である。
 
 
 
 
 
 
バーナード・バルークは、「自分以外の人間が、核兵器原料の販売・流通を行わないように」、核物質の「国際管理」を提唱し、IAEA国際原子力機関を創立する。バルークと、チャーチルのネットワークは、英国の核兵器開発のネットワークとなる。
 
 
 
チャーチルの政治家としての富は、カナディアン・マフィアのブロンフマン一族、アメリカン・マフィアのアイゼンベルグ一族の作る、スコッチ・ウィスキーを、禁酒法時代の米国で密売する事で形成された。
アイゼンベルグは、イスラエルに渡り、核兵器企業となり、2012年現在、北朝鮮の核兵器を製造している。
 
 
 
 
 
 
◆1 
当時、武器・弾薬・食料等の戦略物資に不足し困窮した日本政府は、インドシナ(ベトナム・ラオス・カンボジア)方面指揮官である陸軍少将澄田頼四郎に対し、「インドシナ方面のフランス軍とは戦闘を交えず、友好関係を維持せよ」と指示を出していた。
 

 
2. 日本軍は、戦争資金調達のため中国大陸で大々的にアヘン売買を行い、日本軍のスパイ組織である満州鉄道調査部がアヘン密売を仕切り、アヘン生産地でもあるフランス領インドシナに大きく依存していた。
 

 

 
4. 澄田の息子は日本帰国後、大蔵省に入り留学エリートとして着々と出世して行く。1980年代日本はバブル経済により、あり余った資金で次々とアジア各地の企業・不動産を買収して行く。
 
フランスは、ニュージーランド沖を自国の領土であるとして核実験を行う等、アジアを自国の「庭」とも考えていたが、ジャパン・マネーニュージーランド、オーストラリアの企業・土地を次々と買収して行った。
 
 
澄田の息子、澄田智は日銀総裁に就任すると公定歩合を8%に急上昇させ、長期金利は10%を超える高金利となった。危険な株式不動産よりも安全な銀行預金で高い利息が得られる事になり、投資家は一斉に資金株式不動産から引き上げた。日本のバブルは崩壊し、それ以後20年に及ぶ大不況が日本に訪れ、毎年3万人を超す自殺者が生み出される結果となった。

 
ジャパンマネーアジアから撤退し、フランスは自国の「庭」の「防衛」に成功した。官僚在任中に特定企業の「便宜」を計った官僚は、退職後「便宜」を計った企業に天下りする。営利企業は、自社に何等「便宜」を計ってくれなかった官僚を高額な給与で受け入れたりはしない。営利企業だからだ。

 澄田智は退職後、ドレフィス社の銀行に最高顧問として高給で天下りしている。澄田は、スパイ学校留学時代から日銀総裁時代そして官僚退職後まで、一貫してフランス政府=ドレフィス社の社員として「働いて」いた。
 
5. 1840年代からアジアの麻薬生産を担ってきたサスーン一族は、戦後になり次々と麻薬担当者が殺害され、麻薬取引の表舞台からは消えてゆく。 
 代わってアジアの麻薬支配者として姿を現したのが、イスラエルを本拠地とする得体の知れない企業、パーミンデックスである。取締役には澄田智のボス、ルイ・ドレフィス、ロックフェラーの本拠地ジョージア州アトランタのモルモン教牧師一族モーニー・コリンズ等が座っていた。

 
 
このイスラエルのパーミンデックスは、インターネット盗聴ソフト・プロミス製造会社でもあり、その営業担当者、法律顧問であった次期大統領候補ヒラリー・クリントンのボスでもある。
 
6. チェイニー前副大統領が社長であったハリバートン社は、パーミンデックスの出資者であり、同時に大手傭兵会社ブラウン・ルートを所有しているが、ブラウン・ルートの特殊部隊部門の技術指導は、パーミンデックスが行っている。

7. イスラエル建国資金を出したのがレウミ銀行とランベール銀行だが、レウミの経営者はウォーバーグ(デル・バンコ)とドレフィスである。
 
そしてランベールの大株主がドレフィスである。ウォーバーグの系列下のリーマン・ブラザースの取締役がドレフィスの会長ナサニエル・サミュエルズである。
 
 
既報のように、米国とEUのボスになりつつあるイスラエルの頂上付近に、こうしてドレフィス社が君臨している。だがドレフュスも巨大金融コングロマリット、イーグルスターの傘下にある。そしてイーグルスターの経営陣には、イスラエルの諜報組織モサドと英国諜報(スパイ)組織MI6のメンバーが延々と顔を並べている
 
 
北米NAFTA(自由貿易協定)、EUのようには一見まとまっていないアジアイスラエルはどのように「統一」して行くのか。
 
麻薬ディーラーとしてアジアの地下経済に通じたイスラエルは、アジアの「統一支配者」李一族と既に提携している。
 
 
台湾の李登輝元首相一族、中国李鵬元首相一族と李先念国家主席一族、中国・香港の支配者李嘉誠(リカシン)一族、シンガポールの元首相李光耀(リークアンユー)一族。
これら李一族は全て同一血族であり、アジアの表経済、地下経済は李一族とパーミンデックスが既に固めている。
 
その下部組織ドレフィスは、中国華北、東北(旧満州)の水田を既に独占契約し終わり、韓国・日本へのコメ輸入自由化WTOの圧力を強めている(韓国では農民が抗議の焼身自殺を計っている)。
 
 
(引用終わり)


 

 ドレフェス ブロンフマン 客家など

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一部を引用しています。ぜひ、原典をご覧下さい。
 
(引用開始)
 
世界の真実の姿を求めて!
 
 
オルタナティブ通信より転用

今後100年世界を支配する者
 1920年代のアメリカ、禁酒法の時代はマフィアの全盛期であった。有名なマフィア、アル・カポネは、この時代カナダからのウィスキー密輸で富を成し、全米に権力を振るった。

 そのカポネにウィスキーを提供していたのが、カナディアン・ウィスキーの最大手メーカー、シーグラム社であり、その経営者がカナディアン・マフィアのブロンフマン一族であった(注1)。

 ケネディ大統領の父も、後にFBI長官になるエドガー・フーバーも、ブロンフマンの部下としてカポネにウィスキーを運搬し、一族の代表が政治家として出世する資金を形成した。

 アメリカのマフィア、そしてアメリカの政治権力者の「故郷」はまさにカナダにあり、その育ての親はブロンフマン一族であった。

 カポネにウィスキーを提供していたエドガー・ブロンフマンの妻アン・ローブは日露戦争資金を日本に貸付けた銀行クーン・ローブの経営者の娘であった。この銀行が2007年現在、日本の郵便局を「乗っ取った」リーマン銀行=ゴールドマン・サックスとなる。この銀行は、ブッシュ大統領一族により経営されている(拙稿「郵便局=北朝鮮」を参照)。

 エドガーの子息には、ミンダ・ブロンフマンのようにオーストリア貴族アレイン・ド・ギンズブルク男爵、つまり穀物商社ドレフュスの経営者と結婚した者が居る。

 また、フィリス・ブロンフマンのようにランベール銀行経営者の娘ジーン・ランベールと結婚した者が居た。後にイスラエル建国資金を提供するCNN・TV、米国NO.1のメディア企業AOLタイム・ワーナー・ランベールの経営銀行ランベールである。

 
1898年にルーマニアからカナダへ移住して来たブロンフマン一族は、故郷ルーマニアが共産主義国になりソ連の支配下に入った事に激しい怒りを持ち、後にウクライナ独立運動がソ連により弾圧され、ウクライナのガリツィア地方から膨大な数の難民が亡命を求めた時、世界中が難民受け入れを拒否する中、ブロンフマンのアルバータ州だけが難民を受け入れる事になる。こうしてカナダのアルバータ州がウクライナ・マフィアの故郷となる(注2)。

 アルバータ州は世界最大のオイル・サンド(原油を含む砂)生産地でもあり、エネルギー産業が発達した地域でもある。アルバータ州単独でのオイル・サンドの埋蔵量は、原油換算で2007年現在の「世界全体の原油埋蔵量」を上回る。今後、世界の石油大国はロシアでもサウジアラビアでもなく、アルバータ=ウクライナ・マフィアとなる。

 穀物商社ドレフュス、カナディアン・ウィスキー=エタノールエネルギー産業、核兵器産業、マフィア。これ等ブロンフマンの「資産」の全てが、ソ連=ロシアの穀物、原油、天然ガス、核兵器を密売するウクライナ・マフィア形成へと引き継がれて行く。

 また、米国にウィスキーを密売して来たブロンフマンの部下のマフィア達は、後に創立されるCIAの実働部隊として雇用され、ブッシュ大統領一族を影から支える事になる。

 ブロンフマンの親戚となったランベール一族は、後にイスラエルを建国し、アラブ諸国を威嚇する核兵器ミサイル企業アイゼンベルグ等の創立に関与して行くが、このイスラエルの核兵器ミサイル産業で営業・開発を担当していたリチャード・パールという男が、2007年現在のイラク戦争の計画をブッシュ大統領の国防政策会議議長として策定する事になる。
ソ連=ロシアの石油、穀物、核兵器、麻薬を密売した利益をロシアン・マフィアが自由にイスラエルに持ち出せるようにしたジャクソン・バーニック法は、このパールとブロンフマン一族が作成する事になる(注3)。

 バーニック法により、ウクライナ=ロシアの穀物、原油、天然ガス、核兵器等の「資産」は、イスラエルの支配下に置かれた。それをコントロールしていたのは、カナダの穀物、エネルギー、核兵器マフィア、ブロンフマンであった。このカナダを拠点にしたドレフュス、カーギル(世界最大、石油王ロックフェラーが経営)等が米国の穀物、エネルギー、核兵器を支配下に置く事になる。
 
 
 
オルタナティブ通信
2011年02月09日
 
南北軍の戦争を、アオリ、両者に兵器を売りつける、戦争商人が、リーマン・ブラザースであった。



 2011年、世界中を大不況に陥らせた、デリバティヴ・ヘッジファンド取引には、必ず、買い手と売り手が存在する。

ニューヨーク株式のダウが、11000ドルを「超える」に、1000兆円賭けるリーマン・ブラザースと、「超えない」に、1000兆円賭ける銀行ゴールドマン・サックス。

このギャンブルの契約書を「証券化」し、世界中の政府・銀行に売り付けたリーマン・ブラザース。

そして、ゴールドマン・サックス、リーマン・ブラザースは、ニューヨーク・ダウの先物を、徹底的に「共同し、売り」、ダウは11000ドルを「超えない」。リーマン・ブラザースは、1000兆円損をし、倒産する。1000兆円分の「証券」を買っていた世界中の政府・銀行が、累計1000兆円の損失を出し、倒産の危機に追い込まれる。

このギャンブル投機に勝利した、ゴールドマン・サックスは、1000兆円の利益を得る。この「利益」が、世界大不況の原因である。大量の失業者、第3次世界大戦の危機の原因である。

そして誰も、ゴールドマン・サックスと、リーマン・ブラザースが、「事実上、同一の会社」であった事を指摘しない。ゴールドマン・サックスが、ニューヨーク・ダウの先物を大量に売り浴びせ、ダウが11000ドルを「超えない」=ゴールドマン・サックスの勝利を生み出した、その先物の売買の資金を、ゴールドマン・サックスに与えていたのは、リーマン・ブラザース本人である。

リーマン・ブラザースは倒産して姿を消す。姿を消したものは、誰も非難できない。「自己責任で、倒産し、ギャンブル投機の責任を取った」、と評される。

南軍と戦争を行う北軍の「味方」をしつつ、敵軍に兵器と資金を提供していた、リーマン・ブラザース。

南軍と、北軍は、資金源と兵器の供給源が「同一」であった。

ゴールドマン・サックスと、ギャンブル投機で戦争を行う「敵」であったはずのリーマン・ブラザースが、ゴールドマン・サックスに資金を提供していた。ゴールドマン・サックス=リーマン・ブラザースは、資金供給源が、「同一」であった。

ゴールドマン・サックスは、1000兆円を、「持ち逃げした」。世界中の政府・銀行が、その1000兆円の赤字で、倒産しつつある。

現在、倒産したリーマン・ブラザースの、旧経営陣は、「別の名前の、新しい会社を作り」、ギャンブル投機を再開している。この旧経営陣の「新しい」ギャンブル投機会社は、当然、ゴールドマン・サックスの、ビジネス・パートナー企業である。
 
 
 
 2013年03月03日
 
宗主国サマってのは、ゴールドマンサックスってな感じの認識でいいです。
CSISやヘリテージ財団メロン財閥(軍産複合体)とやらは、ほとんどよく似たモン(同一の箇所も多い)ですが、少し右側にあると思えばいいです。
宗主国ってのから、少し左側にあるのがオバマ・アメリカです。
金融ネットワークによって作られた人工国家アメリカですから、資本からの支配脱却は難しい(まぁ、他の国にもいえますが)。
脱却ってのは、アレですね、距離をとるとゆー事。
で、そのオバマ・アメリカにもっと宗主国サマへ軍産へ近寄らせろと、命令を受けパシリになって生贄持参でハァハァしてるのが”アベノクソミソ”です。


ちと違うかもしれませんが、そのまま進めますw


ロシアを見ると、やはり宗主国サマ系がご活躍をされていたようなので、プーチンデモの偏向報道なんかは、新しいところですね。
ニホンのロシア外交を見ると、親イスラエルが目立ちますねw
まぁ、そーゆー事なんですが。
ロシアはイスラエルモサドと関係がそぅ悪くない。
イイ距離とってるんですよね。
毎回、スタクソなんかのサイバー菌(イスラエルモサドCIA)をいち早く発見するのが、ロシアKGBのカスペルスキーラボ。
右手と左手。
 
 
 
麻薬のための増税とマフィアのための禁酒法【20091110】
 
 
共産主義と満州鉄道【20090423】
 
 
檄!客家中国史6 客家に食い込むのロック【20091019】
 
最初はコミンテルン→共産党と中国国民党だったが、客家とコミンテルンとの対立、それは客家のアンチ共産党に繋がる。しかし今は中国共産党=客家でもある。
 
このように中国は、両勢力が、交互に国際金融資本に踊らされていたり、勢力が替わる恐ろしい国なのである。
 
さらに面白い話をしようか。
 
副島やらの左翼とか新左翼の歴史観でも、サッスーン=麻薬の具体的な話は、核になる部分の話が出てこない。
中国国民党よりだったサッスーンからアイゼンベルグが乗っ取るために、共産党と日本軍の連系、その背後にはアイゼンベルグ=ロックフェラー陣営がいたというわけだ。
 
つまり中国国民党などの繋がりで言えば、台湾などの「アンチ中国共産党」は「ロックフェラー陣営を恨んでいる」という図式でなければならない。
 
ところがどっこい、2ちゃんなどの統一教会工作員よろしく台湾が大好きである。
賀屋興宣→天川コネクションという日本版CFRが、このような主張になってるのは、ちゃんとした理由がある。
 
中国人らしいっちゃ、らしいが蒋介石は掌返しをやっている。
台湾に逃げて、自分たちの麻薬コネクションを潰した張本人、ロックフェラー陣営の番頭、CIAと協力関係になったのである。
 
これは孫文のホノルル客家系の財閥ルートで出来上がった。
リョウ承志という孫文のホノルル興中会の発足に関わっている人物がいる。
彼は、日中友好協会会長も務めた事がある広東省系の客家で東京生まれで早稲田→中国共産党入りをした人物である。ゾルゲなどでお馴染みの早稲田、ロス茶系の路線。
 
彼の姪にあたる陳香梅が最重要人物であり、ここからは逆に、共和党→国民党路線が読み取れる。。
1947年に彼女は、CIA職員である米国人クレアー・シェンノートと知り合い、結婚する。
当時、CIAは中国共産党政権下に、スパイ工作の実行中であった。
世に名をとどろかす、お笑い工作、プロジェクトタイガーの隊長が、このクレアーである
 
クレアーと陳香梅、この夫婦の子供2人の名付け親が蒋介石である。
孫文からのネットワークが、窮地に陥った中国国民党→CIA援助で、このような人脈がネットワークで出来たわけである。
中国国民党とCIA米共和党路線の、掛け橋となるのである。
1947年以降などのCIAと中国国民党コネクション、それ以前の客家がそれよりも多く、サッスーンの麻薬利権を奪い取るために暗躍した中国共産党とロックフェラーコネクション。
 
それだけではない。小平などのフランス留学(グラントリアン)のロスチャイルド客家コネクション。
 
(引用終わり)

処理後汚染水を海に放出計画 トリチウム

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(引用開始)
 
 
福島第1原発:東電 処理後汚染水を海に放出計画
毎日新聞 2013年03月05日 21時49分(最終更新 03月06日 08時05分)
 
福島第1原発の敷地内にある汚染水は約36万立方メートル。このうち1〜4号機の原子炉建屋に約8万立方メートル、他の建屋などに約4万立方メートルあり、残りが貯蔵タンクの約24万立方メートル(ドラム缶約118万本相当)だ。
 東電は現在、セシウム吸着装置を使い、汚染水から放射性セシウムなどを除去。その後、淡水と濃縮塩水に分離し、淡水は溶融燃料の冷却に再利用し、濃縮塩水をタンクで貯蔵している。
 建屋地下には毎日約400立方メートルの地下水が流入しているとみられるが、流入経路は特定できていない。東電は2015年9月までに貯蔵タンクを増設し、容量を計70万立方メートルにする計画だが、敷地内での増設も限界に近づいている。
 
さらに、貯蔵タンクの濃縮塩水や冷却に使う淡水には、セシウム以外のストロンチウムなど多数の放射性物質が残る。原子力規制庁幹部は「貯蔵タンクから、一般環境中に漏れ出す危険性が常に潜んでいる」と懸念。次々と浮上する課題が、廃炉作業にとって足かせになってきた。
 そこで、「海洋放出は考えなければならない選択肢」(東電の小森明生常務)となった。放出をにらみ、東電は新浄化装置「アルプス」を導入。規制委の検討会は2月21日、「アルプス導入で汚染水問題の危険性を低減できる」との見解を示し、試運転を了承した。東電は近く試運転を始める予定だ。
 
しかし、これまでに検出された放射性物質63種類のうち、設計上は62種類を除去する能力を持つが、放射性トリチウムは技術的に分離できない。汚染水などのトリチウムの濃度は、1立方センチあたり約1300ベクレル。国の排出基準値の同60ベクレルを超えていて、規制委はアルプスでの処理後も濃縮塩水を敷地内に貯蔵するよう求めた。
 
 トリチウムに詳しい田中知(さとる)・東京大教授は「カナダで除去装置が稼働しているが、福島事故のように大量の汚染水から除去するには非常に巨大な装置が必要になる。除去は非現実的で、仮に海洋放出するとしても、薄めて基準値以下に濃度を下げるしかない」と話す。東電はトリチウムの処理方法について、「現時点では検討中」としている。
 
 各事業者は地元自治体と安全協定を結び、国の基準値以下に薄めて海洋放出している。
 
 
質問なるほドリ:トリチウムってどんな物質?=回答・奥山智己
毎日新聞 2013年03月06日 東京朝刊
 
 
◇放射性水素の同位体 「安全」でも情報公開必要
 なるほドリ 放射性トリチウムってどんな物質なの?
 
記者 水素(すいそ)の「放射性同位体(どういたい)」です。同じ元素なのに、原子核(げんしかく)を構成する中性子(ちゅうせいし)の数が違うため、質量が異なるものを「同位体」と言い、放射線を出すものが「放射性同位体」です。
 
Q 水素の兄弟のような関係なの?
 
A その通りです。通常の水素の原子核は陽子(ようし)1個で構成されていますが、トリチウムは陽子1個と中性子2個でできています。質量は水素の3倍。三重(さんじゅう)水素とも呼ばれています。
 
Q 放射性って言うくらいだから、原発から出るんだね。
 
A 原発からの排水にも含まれますが、自然界にも微量に存在します。宇宙線という宇宙から飛んでくる高速の陽子や中性子が、大気中の窒素(ちっそ)や酸素(さんそ)と反応して発生します。日本原子力研究開発機構などによると、年間に地球上で約200グラムが発生し、それに伴う年間被ばく線量は0・39ミリシーベルトになります。
 
Q 自然界のどこに存在するの?
 
A トリチウムの99%はトリチウム水という液体で存在し、空気中の水蒸気や雨水などに含まれています。水と同じような性質で、水から分離するのが非常に困難です。
 
Q 身近な存在だとしても、なんだか怖いね。
 
A 放射線は細胞に損傷を与え、障害を起こす恐れがあります。ただ、トリチウムが出す放射線の一種「ベータ線」のエネルギーは非常に弱く、皮膚を通過できず、体の内部まで入ることはできません。放射能の強さが元の半分になるまでの時間、つまり半減期(はんげんき)は12・3年です。
 
Q 飲んでも問題ないの?
 
 A 体内に取り込んでから排せつによって量が半減する生物学的半減期は、トリチウム水が10日ほど、トリチウム水を含む有機物の場合は約40日です。放射性プルトニウムは体内に入ると骨や肝臓などに蓄積しますが、トリチウムは水として存在しているので、体内組織に蓄積することなく水分として尿と一緒に排出されます。
 
Q そう言われても安心できないよ。
 
 A 科学的に「安全、大丈夫」だとしても、地元の合意なしにトリチウムを含む水を海に放出すれば、新たな風評(ふうひょう)被害を招きかねません。福島第1原発で増え続ける汚染水の現状などをきちんと情報公開し、国民が納得する形で決着させていくことが大切です 
 
 
 
 
 
放射性物質トリチウムの危険性は、ワーストNo.1!!(atom-tokyoさんのブログ) プルトニウムよりやっかい
http://www.asyura2.com/11/genpatu17/msg/509.html
投稿者 スカイキャット 日時 2011 年 10 月 15 日 21:03:25:
 
 

生物の基本構造であるDNA、RNA、蛋白質、酵素を構成する巨大分子は、水素結合に依存しており、水素結合は、酵素を橋渡し支え、DNAの螺旋構造を一つにまとめあげている。

 

水素結合を構成する水素の放射性同位体トリチウムが、β崩壊して、ヘリウムに元素転換する。つまり放射性崩壊過程で、別の原子に変化してしまうのである。

 

トリチウム原子が不活性で、化学結合を担えないヘリウム原子への突然の崩壊し全く別の原子になることで、巨大分子の機能や通常のプロセスに対して、壊滅的な影響を与える可能性あるのである。

だから、元素転換を起こす水素の放射性同位体であるトリチウム(三重水素)は、危険度が他の放射性同位体と別次元の破壊力を持つと考えられる。

 
ワーストNo.1と言える理由は、遺伝子を直接被曝するのとともに、水素がヘリウムに元素転換し、生物の基本構造である水素結合を、全く別のものにしてしまう放射性同位体という独特の特徴からきている。
 
 
【誠天調書】
2013年01月26日
 
 
トリチウム取り扱い技術の開発 平成15年3月20日
この時には、国内で20箇所もトリチウムを研究している。
 
 
(引用終わり)
 
 新聞の大嘘。。
 アレバなどの除去装置は、ロクに機能せず、アルプスでもトリチウムは除去できない?!
 って。。
 トリチウムだけとっとくためなんじゃないの?
 
(引用開始)
 
 
解説
核融合炉トリチウム水処理システムの研究開発動向
原稿受付:2007年2月25日)
 
(管理人注、文字列を受けてくれないので抜粋
トリチウムをIETRの燃料として再利用するための濃縮についての研究です。
初期の濃縮は、マンハッタン計画のときにはもうあったそうです。)
 
 
カナダ,ダーリントン原子力発電所のトリチウム除去装置(TRF
 
 
フランス,ラウエ・ランジュバン研究所の高中性子束炉の減速材からのトリチウム除去・濃縮装置
 
 
発電用重水炉「ふげん」の「重水精製装置
 
 
カナダのCRNL(チョークリバー原子力研究所)におけるトリチウム回収装置のパイロットスケール装置
 
 
 
平成21年2月6日
 
16ページ 重水系・ヘリウム系等の汚染の除去工事
 
 
① 残留重水回収
② トリチウム除去(重水乾燥)
 
(引用終わり)
 
 規模が違うかもしれませんが、内部被爆を防ぐために、トリチウム水の処理 やってるじゃないですか?
 
 
 だいたい、ヘンだと思いませんか?
 他の放射性物質は、除去できるのに、トリチウムだけ除去できないなんて。。
 わざと、トリチウムだけ残して、IETR(核融合)の材料にする。。とか、勘ぐりた くなります。
 
 バカ高い機械、買わされるんですかねえ。。
 
 さらにいえば、海にも放出して、漁業再生の芽をなくして魚介類を輸入させた り漁業権を買い叩いたり、それを食べて応援させて遺伝子損傷を増やして病 人も増やし、製薬会社を儲けさせる とか、悪辣なことがいくらでも想像でき  ちゃいます。
 
 第4世代原子炉っていうのがいくつかありますが、みんな「核を持つことの免  罪符」みたいなもんで、発電の格好がついたら、不良品を押し付けて、燃料  やテロへの脅しで縛るつもりなんでしょうねえ。。
 
 
 御来訪ありがとうございました。
 
 

テロ予報が欲しい。。

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御来訪ありがとうございます。
(引用開始)
 
 
 2013年03月03日
 
 
宗主国サマってのは、ゴールドマンサックスってな感じの認識でいいです。
CSISやヘリテージ財団メロン財閥(軍産複合体)とやらは、ほとんどよく似たモン(同一の箇所も多い)ですが、少し右側にあると思えばいいです。
宗主国ってのから、少し左側にあるのがオバマ・アメリカです。
金融ネットワークによって作られた人工国家アメリカですから、資本からの支配脱却は難しい(まぁ、他の国にもいえますが)。
脱却ってのは、アレですね、距離をとるとゆー事。
で、そのオバマ・アメリカにもっと宗主国サマへ軍産へ近寄らせろと、命令を受けパシリになって生贄持参でハァハァしてるのが”アベノクソミソ”です。
 
 
(引用終わり)
 
 
 
ふーん。。そうなんだ。。
 
 
 
(引用開始)
 
 
2012-07-28 09:06:57
 http://blog.goo.ne.jp/yamanooyaji0220/e/d6070925e98eb89842b44bd0585801ac
 
 
もちろん中国にも、この帝国に反対する者達が居る(生粋の共産主義者のように)。イスラエル・米国にも、この帝国建設に乗り遅れたネオコン派=ブッシュ一族が居る。
 
(引用終わり)
 
 
浮世風呂さまの 
 
「帝国建設に乗り遅れたネオコン=ブッシュ一族」
 
 
というのが 「デスペのはんなり日記」様の 
 
 
 「CSISやヘリテージ財団メロン財閥(軍産複合体)とやらは、ほとんどよく   似たモン(同一の箇所も多い)ですが、少し右側」
 
 
 と、いうことなんでしょうか?
 
 
(引用開始)
 
 
晴耕雨読2013/2/25
奴隷根性丸出しの安倍首相  孫崎 享 」  TPP/WTO/
 
 
CSISでの政策スピーチを聞く聴衆はよほど、貧弱な層だったのでしょう。
主な来客が、ハムレ、アーミテージ、グリーンです。
とても一国の首脳が行う時の主要ゲストのレベルではありません。
現役の政治家や政権担当者が挨拶には不在なのです。
よほどこうした人々には安倍首相の関心はないのでしょう。

ハムレ氏 は米戦略国際問題研究所(CSIS)所長 と言っても、
元米国防副長官レベルです。

アーミテージ氏は元国務副長官ですが、2003年7月に、CIAリーク事件で
糾弾された人物です。

ウイルソン元大使が、イラク戦争に関して2003年7月6日付けの
ニューヨーク・タイムズ紙に、イラクの核開発についての情報が
捻じ曲げられていると寄稿して世論に訴えた。

2003年7月14日ウイルソンの妻がCIAエージェントであると報ずる
制裁措置をとったが、結局このリークはアーミテージが関与したことを
認める。こうしてアーミテージの威信は一気に低下した。

マイケル・グリーン氏はジョージタウン大学外交政策学部准教授に
過ぎません。

ナイもハーバード大学名誉教授であっても、
公的には国務次官補経験者にすぎません。
 
(引用終わり)
 
 
 安部総理が、感謝している人たちは、アメリカでは「もう終わった人」という
 のが、孫崎氏です。
 
 安部氏も、麻生氏も、アイゼンベルグ氏のネットワークの末端にいるはずな  のですが、オバマ氏と食い違っているわけです。
 
 オバマ氏の 「それより少し左」 って、なんなんでしょうね?
 他の国だと、「距離」が取れるのか。。。
 日本だと、べったりなのか。。? その違いか?
 
 そして、オバマ氏の立ち位置に対応して、日本から交渉できる人を
 「出させないようにする」 というのが戦略だったのでしょうか?
 
 
 
 スロウ忍さまの 「シオニスト」と、「米英帝」 は、どこを指しているんだろ   う? 
 
 
(引用開始)
 
 
 
【スロウ忍ブログ】
2012年03月02日
 
ちなみに、此れは飽くまでも俺の妄想だが、神戸のシオニスト勢力を狙って米英帝勢力が引き起こした人工地震が“阪神淡路大震災”であり、其れに対するシオニスト勢力からの報復が、霞が関を狙った“オウム地下鉄サリン事件”だったのではないかと考えている。

そして、“東日本大震災”と“福島第一原発事故”という、一見繋がっている様に見える二つの事案でさえも
 
 
 
2012年5月31日木曜日
蒸し返されるオウム真理教と石原慎太郎の関係。
http://surouninja.blogspot.jp/2012/05/blog-post_4416.html
 
まぁ、石原慎太郎がシオニスト勢力のパシリであることは既にバレバレなわけで、そんな石原が同勢力の手先であるカルト宗教と密接な関わりがあったからって今更“意外”などと驚く程の事でもあるまい(プ

石原が煽っている北朝鮮問題や尖閣問題も結局の処、世界のシオニスト勢力同士のマッチポンプであり、シオニスト勢力と官僚組織の複合体に国民の血税を垂れ流すための“売国プロレス興行”であろうことなど容易に想像が付くわけである(プ

こういう一族(石原ファミリーや其の親戚の小泉ファミリー)を支持する愚かな日本国民は、自らの手で息苦しい日本社会を作り上げているという現実にいい加減気付くべきだろ(プ
 
(引用終わり)
 
 
米英帝って、なんなんだろう?
 
 
 小泉ファミリー。。
 
鈴木宗男さんの本に 
 
「小泉氏は、今まで、全く関心を示さなかった靖国参拝に言及をすることによ って、遺族会の支持を得て、総理になれた」
 
 
 という記述がありまして、 遺族会というのが、まあ、極右だとすると、元から 支持をされていたのは、シオニスト勢力ってことなんでしょうか?
 
 
 
【誠天調書】
2012年10月27日
DL刑事罰という治安維持法が実効状態にある現状で 其の強化を目的とした「人権擁護法案」なのだから、石原の特攻をも陽動に利用する情報系 + 法務系の官僚や最高裁事務総局や関連の政治家の動き を考えてしまうよね。
http://mkt5126.seesaa.net/article/299229323.html
 
 
大東亜戦争の以前 ニホンジンのコッカのニホンには2つの宗派が有った、皇道派と統制派である。
皇道派 王政 王の徳治を狂信する 2.パラノイア
統制派 貴族政 ↑を口実に利用する 3.詐欺師
支配統制されては搾取 掠奪 凌辱 の暴政と暴虐の限りを受けまくる社会共同体の一般民衆の側からすれば
そんな話は ドーデモイイ でしかなく、聖書の解釈論争 と全く同義な話のネタにしか感じない。

大東亜戦争後は

A. 統制派 貴族政 ↓を口実に利用する 3.詐欺師 と 宗主国サマ↓民主政を与える(笑)
B. 皇道派 王政  王の徳治を狂信する 2.パラノイア →飼う→ 1.大馬鹿野郎 
という構図へと微妙に変化する。

A.が 親米保守 つまり「シンベイホシュはウツクシイ」と叫ぶ集団である
B.が 天皇陛下万歳 つまり 「テンノウヘイカバンザイ」と叫ぶ集団である

 
ただ宗派の違いでしか無いので明確に分化している訳ではなく 両派に跨る者も少なくない。

いずれにせよ 巨額な戦費の拠出が無くなった極東の一諸島における中間支配層のニホンジンのコッカのニホンは
被支配者層な「極東の一諸島の社会共同体の一般民衆」の特質
「無垢な善性 (社会秩序維持への余計な経費が少ない ←多神教で文明人としての成熟)」
「勤勉さ (経済拡大 ←文明人で多神教としての成熟)」
という江戸時代に築かれた素養が肌感覚として染み付いているからこそ
爆発的な経済成長を遂げる事になった。
それは 搾取 掠奪 凌辱 の暴政と暴虐の限りを受けまくっても まだ余り有るものだった。

だが“永遠に成長を遂げられる世界”は無い。
爆発的な経済成長が終われば 搾取 掠奪 凌辱 の暴政と暴虐の異常さが表面化するのは自明の理である。
その富の略奪を これからも続けたい連中 それが宗教右翼カルトの連中である。
これからも永遠に美味しい搾取 掠奪 凌辱 の暴政と暴虐がし続けられる と勝手に思いこむ連中である。

親米保守 つまり「シンベイホシュはウツクシイ」と叫ぶ集団な統制派は
宗主国サマと一緒に あらゆる詐欺詐術詭弁を弄していく、如何なる暴政と暴虐も辞さないままに。

天皇陛下万歳 つまり 「テンノウヘイカバンザイ」と叫ぶ集団な皇道派は
搾取 掠奪 凌辱 なでのカネモウケが減った以上は 何故“宗主国サマと一緒に”が必要なのか? とは言いだすが 
如何なる暴政と暴虐も辞さないままな事には変わりが無い。
 
2013年02月02日
せめて少しでも人間らしく
http://mkt5126.seesaa.net/article/317510315.html
 
 
今から眺め直すと
植草先生の話を知っている人達からすれば分かりやすいんだけど
りそなを軸にした詐欺事件で
 
統制派なコイズミやケケ中に近い連中からすれば 皇道派へ流されるカネが面白くない
という事に端を発している、もっと言ってしまえば
 
ユダヤイスラエルシオニストにしてみれば
 米共和党系へ流されるカネは(まだマシにしても)面白くないのに
 
皇道派へ流されるカネなんかは更に面白くない
という意味合いに端を発しているようにしか見えないんだよね。

 
(引用終わり)
 
皇道派 と 統制派 これも調べてみなければ!(苦笑)
 
 
宗主国がゴールドマンサックスで、何もかも言いなりなら、内紛は起こらない わけで、揉め事の裂け目が知りたいんですよ。 なぜか?
 
 
 
私は社会を考えるが、社会は私を考えてくれない
 http://blogs.yahoo.co.jp/umebaze/7656932.html
 
近代が前近代のエゴイズムを強化する
 
エゴイストは、自分の既得権を奪って行った「権利」という概念を、自分の上にも適用すればいい。そうなったとき、エゴイストにとっての「権利」という概念は 「人から何かを奪い取ることに有効な武器」となるのである。
かくして、古くからのエゴイストは「権利」という近代設備で武装した「近代のエゴイスト」になる。こういう人間が大いなる力を持てば、「なるほど権利という概念はそういう使い方をするものなのか」という、概念の横流し状態が一般的になる。
 
 
 
 
で、引用させていただきました、「権利という概念」が横流しされている相 手はどこか?
 
 ということを、知りたい。
 
 
次に、どことどこが、争っているかを知ることによって、危険を回避したい。
 
 最近でも、吉祥寺で刃物による殺人がありましたが、どうやら 近くに
 要人の自宅があったそうです。
 
 また、爆発事故などは、三菱系でなく、三井住友系が、狙われたようで     す。
 
 まあ、日本にいて、世界中でも、「安全」なんて所は多分、庶民にとってはどこ にもないんでしょうが、相手の出方が予想できれば、生存率が高まるか   も??
 
 PM2.5の拡散予測のすばやさを見て、放射性物質の拡散予測の遅さ
 いい加減さを怒った方も多いことでしょう。
 
 
 予測、予報は、「備える」ためにあるもんで、テロ予報が欲しいんですよ    ね。自分の中で。。
 
 生命力、微弱なもんで。。
 
 
御来訪ありがとうございました。
 
 
 
 
 

[ 引用)憲法第九条と日米インナー・サークル

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(引用開始)

YS/2004.08.14
最新日本政財界地図(12)憲法第九条と日米インナー・サークル
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k6/160815.htm
 
■憲法第九条とのバーゲニング(取引)■「銀杯一組」の行方
またこれに関連して白州次郎が興味深いコメントを残しているので「風の男白州次郎」(新潮文庫、P130)より紹介しておきたい。
 
重ねて書くが白州は当時の日本におけるインナー・サークルの中心人物に深く関係している。樺山愛輔伯爵は白州の義父、そして牧野伸顕伯爵の娘婿である吉田茂の三女和子と麻生セメントの麻生太賀吉を結びつけたのも白州である。
白州は「週刊新潮」の回想の中で、マッカーサーがオーストラリアの地で日本本土侵攻作戦を開始した時に、すでに新憲法草案は着手されていたと推測していた。白州によれば、新憲法が公布されると、政府はこれを記念して「銀杯一組」を作り、関係者に配ったという。
 
白州がその銀杯をホイットニーに届けた際に、ホイットニーはこの贈り物を喜んだ。そして、「ミスター・シラス、この銀杯をあと幾組もいただきたいんだが・・・」と言いだした。
 
その日、ホイットニーの部屋には、ケーディス以下何人かのスタッフが詰めていたが、彼の言う幾組という数字は、このスタッフの数をはるかに上回っていた。白州はその点を問いただすと、ホイットニーはつい口を滑らせたのである。
「ミスター・シラス、あの憲法に関係したスタッフは、ここにいるだけではないんだ。日本に来てはいないが、豪州時代にこの仕事に参加した人間が、まだほかに何人もいるんだよ」
「日本には来てはいない」という点で食い違いもあるが、豪州時代からマッカーサーと行動を共にしたのはホイットニー以外に、「43年9月にオーストラリアのマッカーサー司令部に派遣され、統合計画本部本部長、そしてマッカーサーの軍事秘書、司令部内の心理作戦部(PWB)部長として、日本人に対する心理作戦を立案、実行」したボナー・F・フェラーズもいた。フェラーズやその部下達の家に「銀杯一組」が飾られていないのだろうか。
 
■「裕仁とフーヴァー、非常に重要」文書
フェラーズと河井道には共通する日本人観があった。「戦争における日本人の残虐性は、精神的なよりどころとなる神が存在する西洋と異なり、そういった神が存在しない日本の宗教に起因する。そのような日本人を精神面から変える必要がある。」(フェラーズ文書「ピース・フロム・ザ・パレス」)という面で考えを共にしていた。
 
ジョセフ・グルーもマッカーサーも敬虔な聖公会の信徒であった。クエーカーのフェラーズとは敬虔なプロテスタント系クリスチャンという点で共通している。そして、彼らすべてが共和党員であった。
 
また、フェラーズの背後には共和党の重鎮がいた。それがハーバート・フーヴァー第31代大統領だったのである。フーヴァーとフェラーズは極めて親しい関係にあり、その交流はフェラーズの陸軍大学在籍中に始まっている。そして、なによりもフーヴァーもクエーカーであった。  
このフェラーズやフーヴァーの意向を受けて、極めて戦略的にクエーカーの理想を憲法第九条に反映されたと考えるべきだろう。そして天皇もしくはその周辺も受け入れた。
その証が上の文書であり、さらに皇太子(現天皇)の家庭教師としてのエリザベス・バイニング(バイニング夫人)の起用にもつながる。 
この皇太子に米国人家庭教師をつける発案は昭和天皇ご自身のものであったとするのが定説になっている。
1946年3月に謁見した米国教育使節団団長ジョージ・ストッダードに対し、その場で依頼したとされている。この時天皇は家庭教師の条件として、米国人女性であること、クリスチャンが望ましいが狂信的ではないこと、昔から日本のことを知っている「日本ずれ」した者でないこと、年齢的には50歳前後であることなどをあげたと言われている。フェラーズはこの年の1月頃に行われた吉田外相との会談で同様の提案をしていた。 
そして選ばれたのがクエーカーに属し、フェラーズの知り合いでもあったバイニング夫人だったのである。 
■フェラーズ周辺の日米インナー・サークル 
「シカゴ・サン」のマーク・ゲインは「ニッポン日記」(ちくま学芸文庫、P529)の中で、『「側近(インナー・サークル)」の人々は、長年にわたって、この一「寵児」マッカーサーと共和党の強固な保守的孤立主義者の中心とに密接に結び付いた政治的機関として活動を続けていたのである。
この結合の中心役割をつとめたのはフェラーズだった。彼はハーバート・フーヴァ(注=ハーバート・フーヴァー)やシアーズ、ローベックの取締役会会長でかつて「アメリカ第一委員会」をひきいたR・E・ウッド将軍の友人である。』とも書いている。 
 
R・E・ウッド将軍はロバート・ウッド将軍のことであり、シカゴに拠点のある米最大の小売業シアーズ・ローバックの副社長、社長、会長を歴任し、ファースト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴ(FNBC、後にファースト・シカゴ、バンク・ワンとなり2004年JPモルガン・チェースによって買収される)やFRBシカゴなどの取締役を兼任したシカゴ財界の代表格であった。 
このフェラーズ、フーヴァー、ウッド将軍とシアーズ・ローバックは、ともにマッカーサーを大統領候補に推すキャンペーンに加わっている。彼らは、アンチ・ニュー・ディーラー、アカ嫌いという点でも共通しており、フーヴァーからフェラーズに宛てた手紙の中で「国務省から日本に送られている人間の中には、元共産党員や共産党のシンパがいる」と注意を呼びかけている点は興味深い。 
なお参考までに付け加えれば、前述した国際文化会館の松本重治が書いた「昭和史への一証言」にもフェラーズが登場している。
45年9月に松本は高木八尺とともにフェラーズを訪ねている。この時、松本はフェラーズに「戦争を始めたのはどちらなのか」とたずねると、フェラーズが「ルーズベルト・ウォンテッド・エイ・ウォア」といきなり大きな声でどなった。
この時松本は、悪いのは日本だけではなかったとの思いを強くしたと書いている。そして、松本は、パールハーバーも「ルーズベルトは少なくとも数時間前には知っていた。しかし、それをキンメル(太平洋艦隊司令長官)に連絡しなかった。だまし撃ちのかっこうにしたほうが、アメリカ人の日本への敵がい心を高め、世論を統一できるからです。」と書いている。 
このフェラーズと松本の見解は当時のフーヴァーやグルーなどがいた共和党インナー・サークル、そして彼らと戦前から密接につながっていた樺山愛輔伯爵や牧野伸顕伯爵(実父は大久保利通、吉田茂の義父にあたる)などがいた日本のインナー・サークルの共通認識だった可能性が極めて高い。
 
 
 
日本国憲法の誕生
 
3章 GHQ草案と日本政府の対応
 
3-2 「日本の統治体制の改革」(SWNCC228) 1946年1月7日
1946(昭和21)年1月7日、国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)が承認した日本の憲法改正に関する米国政府の指針を示す文書(SWNCC228)。
この文書は、マッカーサーが日本政府に対し、選挙民に責任を負う政府の樹立、基本的人権の保障、国民の自由意思が表明される方法による憲法の改正といった目的を達成すべく、統治体制の改革を示唆すべきであるとした。
 
すでに極東委員会の設置が決定され、米国政府は憲法改正問題に関する指令権を失うこととなったため、マッカーサーに対する命令ではなく、「情報」の形で同月11日に伝達された。
のちにGHQ草案の作成の際に「拘束力ある文書」として取り扱われ、極めて重要な役割を演じた。米国政府はこの文書の中で、改革や憲法改正は、日本側が自主的に行うように導かなければ日本国民に受容されないので、改革の実施を日本政府に「命令」するのは、「あくまで最後の手段」であることを強調している
 
極東委員会(FEC)
 
日本占領管理に関する連合国の最高政策決定機関。FECは、Far Eastern Commissionの略称。1945年12月にモスクワで開かれた米・英・ソ3国外相会議で極東諮問委員会(FEAC)に代わり、日本の占領管理に関する機関として設置が決定。本部はワシントンに置かれた。委員会は、13か国(米国・英国・中国・ソ連・フランス・インド・オランダ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・フィリピン、1949年11月からビルマ・パキスタンが加わる)の代表で構成された。

 
 
委員会が決定した政策は、米国政府を通じて、連合国最高司令官に指令として伝達された。委員会の決定については、米・英・中・ソの4か国に拒否権が与えられていたが、緊急を要する問題については、アメリカ政府に、委員会の決定を待たずに指令を発する権限が与えられていた(中間指令権)。ただし、日本の憲政機構、管理制度の根本的変更および日本政府全体の変更については、必ず委員会の事前の決定を必要とした。
 
 
 
対日理事会(ACJ)
連合国最高司令官に助言・協議するため東京に設置された日本占領管理機関であり、極東委員会の出先機関。ACJはAllied Council for Japanの略称。
 
1945年12月にモスクワで開かれた米・英・ソ3国外相会議で、極東委員会のワシントン設置とあわせて対日理事会を東京に設置することが決定された。理事会は、米・英連邦(オーストラリアが英国・オーストラリア・ニュージーランド・インドを同時に代表)・ソ連・中華民国の4か国で構成され、議長には米国代表である連合国最高司令官(またはその代理)が就任した。
 
 
 
 
16.極東委員会と対日理事会 - KENBUNDEN
http://kenbunden.net/constitution/files/shiryou_ver002/16_071129_a.pdf#search='%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A+%E6%86%B2%E6%B3%95'
 
 
前述のとおり、終戦当初の日本での施策は、連合国が行うこととなっていたが、事実上は米国の単独占領のもとに置かれていた。この状況に変化が生じるきっかけとなったのが、1945 年12 月16 日から26 日まで開かれた、モスクワ外相である。
この会議は、現状では対日施策に関わることのできていない英・ソなどの意見により開かれ、会議の結果、日本占領管理機構としてワシントンに極東委員会が、東京には対日理事会が設置されることとなった。極東委員会は日本占領管理に関する連合国の最高政策決定機関となり、GHQ もその決定に従うことになった。特に憲法改正問題に関して米国政府は、極東委員会の合意なくしてGHQ に対する指令
を発することができなくなった。
・極東委員会と対日理事会
 
第一回の極東委員会の会合は、1946 年2 月26 日ワシントンで開かれた(対日理事会は4 月5 日)。
この2 委員会が、今後日本占領の重要な政策決定を行っていくこととなったのである。
特に、憲法制定に関して大きな影響力を行使したのが、極東委員会である。つまり、マッカーサーは極東委員会が始動し、日本の新憲法制定に本格的に介入してくる前に、日本側が自主的に、民主的な憲法草案を作成したという既成事実が必要だったのである
 
(引用終わり)

 
 
 

メモ 憲法のインナーサークル

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(引用開始)
 
 
 
 
伊勢神宮の神官であった父が失職し北海道に移住。1900年、新渡戸稲造の勧めでフィラデルフィアブリンマー女子大学(北米クエーカー主義)に入学。1904年、ブリンマー女子大学を卒業し帰国。1912年日本YWCA同盟総幹事に就任。
 
 
 
ボナーフェラーズ
 
  
 
 つまり、1945年4月に「対日心理作戦のための基本軍事計画」に明記したように、「天皇に関しては、攻撃を避け無視するべきである。しかし、適切な時期に、我々の目的達成のために天皇を利用する。天皇を非難して国民の反感を買ってはならない」というオペレーションになる(同前、67-69頁)。
 
 
4 象徴天皇制の起源と小泉八雲=フェラーズ
 
 
第二に、そこでGHQマッカーサー司令部が中心的役割を占めたにしても、米国本国のトルーマン大統領、国務省、国防省、陸海空軍、情報機関等各国家機関の思惑や世論も作用しており、国務省のジョージ・ブレイクスルー、ヒュー・ボートン、ジョゼフ・バランタインらの検討でも、1943年には「天皇の利用」政策が明確になっていた(五百旗頭真『米国の日本占領政策』中央公論社、1985年)。筆者自身の研究では、米国初の本格的情報機関戦略情報局(OSS)を中心とした米国心理戦共同委員会「日本計画」において、すでに開戦半年後の1942年6月には「天皇を平和の象徴として利用する」方策が明確にされ、それは当時オーストラリアのマッカーサーにも伝えられていた(加藤『象徴天皇制の起源』平凡社新書、2005年)。
 
つまり、米国の国益に沿ったグローバルな戦後世界の設計こそフェラーズの情報将校としての主任務であり、日本での天皇利用は、1942年6月「日本計画」に沿ったその一環であった。
 
 
第四に、小泉八雲をクエーカー教徒フェラーズに紹介した一色ゆり、フェラーズがマッカーサー宛「覚書」作成で頼った河井道は、必ずしも小泉八雲の崇拝者ではなかった。河井道はもともと新渡戸稲造に学んだ教育者であり、新渡戸の晩年の英語著作『日本 その問題と発展の諸局面』(1931年)には「天皇は国民の代表であり、国民統合の象徴である」と、日本国憲法第1条と酷似した表現があった
 
 
 
 

 
薩長因縁の昭和平成史(7)
ビックリ憲法をめぐる因縁
 
 
吉田狸も『回想十年』(中公文庫)の中で日本の再軍備の話が初
めて真剣に出たのは朝鮮戦争が起こる直前だったとしている。そし
て、50(昭和25)年6月25日に朝鮮戦争が勃発、同年7月7
日に国連軍最高司令官に任命されたマッカーサーは、翌8日、吉田
に警察予備隊創設と海上保安庁増員を指令する。7万5千人の警察
予備隊の創設と海上保安庁の8千人増員を指示し、後の陸上自衛隊
と海上自衛隊の母体となった。この時の吉田とマッカーサーの曖昧
な対応が「自衛隊は軍隊か否か」という不毛の論議を半世紀以上に
わたって繰り広げる素地を作ったのである。

 保守的な共和党員であったマッカーサーは大統領就任への野心を
抱いていた。48(昭和23)年の大統領選に出馬することを考え
たマッカーサーはGHQ内のニューディーラーを利用する。民主党
支持票の取り込みを狙ってリベラル派が好みそうな「下からの改革」
を日本で推進したのである。その象徴として財閥解体があった。マ
ッカーサーはこの時の予備選で大敗しても野心を捨ててはいなかっ
た。そのために軌道修正が行われ、中途半端な再軍備準備や幣原発
案説へとつながる。いわば自衛隊も幣原発案説も朝鮮戦争の落とし
子であった。

 
 
堤は象徴天皇制と戦力放棄を鈴木貫太郎、幣原喜重郎、吉田茂の
三人による連携プレーであり、昭和天皇もプレーヤーの一人に違い
ないと書いている。鈴木はヨハンセン・グループの一員、幣原も息
子をフレンド・スクールに通わせ、縁戚に三菱本家と澤田家がいる。

 
 
プレーヤーはまだまだ存在した。ビックリ憲法もまた元祖「コン
シェンシャス・オブジェクター」の日米クエーカー人脈と元祖「反
ソ・反共」の薩摩系宮中グループが仕組んだ見事な戦略によって生
み落とされた。薩摩系宮中グループはクエーカーを利用し、クエー
カーもよろこんで利用されたに過ぎない。

 
日米クエーカー人脈と薩摩系宮中グループが完全に合体したのは
牧野伸顕の存在がある。新渡戸と薩摩系宮中グループの関係は牧野
の文部大臣時代にまで遡ることができる。新渡戸を名門一高の校長
に推したのが牧野であった。また国際連盟の初代事務次長就任にも
牧野と珍田捨巳、それに後藤新平が関わっている。新渡戸の人生の
転機に必ず牧野の姿が確認できる。

 
牧野のキリスト教への理解は三菱本家の岩崎久弥(ペンシルベニ
ア)と同じくフィラデルフィア留学時代のキリスト教徒との出会い
があった。牧野は『回顧録』に「フィラデルフィアはクエーカー宗
徒の平和主義的な気分が強く、そこにいたのでアメリカは非常に平
和的なピューリタン主義な国だという印象を受けた。」と書き残し
ている。

 
おそらく牧野や岩崎、松平恒雄、それに幣原喜重郎も米国滞在中
にクエーカーの平和主義を象徴するコンシェンシャス・オブジェク
ターを見聞きしていたに違いない。
 
 
それでは受け手である当時の日本を見てみよう。日米クエーカー
人脈が戦後続々と憲法制定機関に舞い降りてくる。米国からはヒュ
ー・ボートンの他に国務省東洋課長代理時代に第一次教育使節団の
一員として再来日するゴードン・ボールス、それに戦略事務局(O
SS)心理作戦計画本部からはマッカーサーの軍事秘書として来日
するボナー・F・フェラーズの3名が登場する。ボールズもボート
ンと同じく国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)の極東
小委員会(SFE)特別委員会に関与していた。しかも二人は兄弟
同様の付き合いで占領政策について完全に思いを一つにしていた。

 
そして、彼らを米国の地から操っていたのはフーヴァー元大統領
である。フーヴァーはフェラーズと極めて親しい関係にあり、マッ
カーサーにとっても野心を実現する上で最も頼りになる盟友であっ
た。フーヴァーはアメリカン・フレンズ奉仕団(AFSC)への協
力を惜しまなかった。なぜなら、このフーヴァーこそが歴代に二人
しかいないクエーカー大統領だったからだ。そして、フェラーズは
フーヴァーがマッカーサーに送りこんだお目付役のような存在であ
った。

 
日本からは関屋貞三郎が枢密顧問官として復帰して昭和天皇の無
罪証言集めに奔走し、御用掛の寺崎英成やフェラーズと共に弁明書
としての「昭和天皇独白録」を作成する。そして、薩摩系宮中グル
ープからは吉田茂首相、白州次郎終戦連絡中央事務局(CLO)次
長が登場、米国からはジョセフ・グルーが見守っていた。
 
関屋が就任した枢密顧問官とは明治憲法56条に「枢密顧問ハ枢
密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議ス」
と定められている。枢密院は「憲法の番人」とも称される天皇の最
高諮問機関である。それにもかかわらず現行憲法制定過程での枢密
院の役割はこれまでほとんど無視されてきた。

 
この枢密院で1946(昭和21)年4月に「帝国憲法改正草案
枢密院審査委員会」が設置されているが、この委員には関屋の他に
幣原の兄・幣原担がいた。新憲法案を採決した同年6月8日の枢密
院本会議では、三笠宮が「マッカーサー元帥の憲法という印象を受
ける」と批判的な意見も述べながらも非武装中立と戦争放棄を支持
する意見を表明したことはよく知られている。三笠宮は採決時棄権
したが、結局この本会議で可決され衆議院へ送付された。

 
この本会議にクエーカー人脈と薩摩系宮中グループから少なくと
も吉田、関屋、鈴木の3名が出席していた。その後衆議院本会議、
貴族院本会議、衆議院本会議可決を経て、最後に再度枢密院本会議
で10月29日に可決され、11月3日に公布された。

 
驚くことに10月29日の枢密院本会議にはクエーカーをよく知
る樺山と松平恒雄が枢密顧問官として出席していた可能性が極めて
高い。樺山も松平も6月10日より枢密顧問官に就いていた。この
事実とこの意味を研究者のほとんどがこれまで見逃してきた。

 
堤は昭和天皇もプレーヤーの一人に違いないと書いた。実はこの
枢密院人事に昭和天皇の関与を示唆する文献も存在する。『昭和天
皇二つの「独白録」』(NHK出版)に収載されている元侍従長・
稲田周一備忘録の46年6月2日付日記にはこう書かれている。

「宮城に於ては、ひる、牧野伯をお召。枢密院議長就任に付、御話
があったと承る。」

 
 
昭和天皇は牧野に枢密院議長就任を要請した。しかし、牧野は実
際には就任していない。牧野の代わりに親英米派の樺山と松平が6
月10日に枢密顧問官に就いたのだろう。この人事の背景に現行憲
法の制定を誰よりも押し進めたかった昭和天皇の意志が読みとれる。

 
当時の枢密院にはクエーカーをよく知る幣原、樺山、松平の重鎮
3名がいた。しかも、貴族院で憲法改正審議を行った小委員会には
新渡戸の弟子である高木八尺と高柳賢三がしっかり名を連ねていた。
大平駒槌枢密顧問官が残した当時のノートには「戦争を放棄するな
んて、幣原の理想主義だ」と書かれている。ボートンの人脈から考
えれば、日本側の調整窓口になっていたのは高木であろう。その意
味ではボートンから高木を仲介にした幣原間接発案説もあったのか
もしれない。


 吉田は「昭和天皇免罪工作」が象徴天皇性として結実したことを
ほくそ笑み、それでもネチネチうるさいソ連やオーストラリアを黙
らせるために憲法九条を利用した。吉田もまたフーヴァー元大統領
が喜びそうな憲法九条によって日本が良心的参戦拒否国となったこ
とを世界にアピールして見せたのである。吉田は5月29日に行わ
れた憲法改正草案枢密院審査委員会ではっきりこう述べている。

「マ(マッカーサー)司令部との交渉の経過を述べれば第一条によ
つて陛下のpersonが守られる。又畏れ多いことではあるが戦争責任
からも陛下をお救ひすることができると云ふ考へである。」

 

 
吉田は昭和天皇の無罪が確定し、日本周辺の脅威が無くなればさ
っさと改正することも考えていた。同時に戦前からの元祖「反ソ・
反共」の吉田は共産主義の脅威を見抜いていた。米ソが対立し、そ
の対立が長期化することも予測していた。なんせ日本はロシア相手
に勝ったことがあるのだ。日本が軍隊を持っていれば、米国によっ
て存分に利用されることになる。同じ日の委員会で吉田はこう話し
ている。

「九条は日本の再軍備の疑念から生じた。これを修正することは困
難である。(略)軍備をもたざる以上、例へばソ聯に対しては、英
米の力を借りるより他ないと思ふ。」

 
 
被占領国が占領国の力を借りちゃうのである。ここにドイツも羨
む吉田のトリックがあった。これが後に米国が批判的に用いる「安
保ただ乗り論」になっていく。吉田狸は憲法九条が楯としてバック
・パッシングの道具になることに気付いていた。本来なら敗戦によ
ってバック・キャッチャーの運命を背負ったはずの日本が、憲法九
条のおかげでバック・パッサーの立場に置かれたのである。
 
(引用終わり)


 

 
 
 
 

メモ ヨハンセングループ インドネシア

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(引用開始)
 
 
 
ネクスト・ルネサンスを見据えた投資日記
 
2012-02-23日露戦争以降の政治経済史メモ(随時更新)
 
 
ヨハンセングループとは 『天皇のインナー・サークルとしての宮中内の対立構図』園田義明氏
 
近衛上奏文は近衛文麿と吉田茂率いるヨハンセン・グループ(吉田反戦グループ)の合作である。ヨハンセン・グループこそが薩摩系宮中グループである。その中心には牧野伸顕(薩摩藩士大久保利通の二男、吉田の岳父)、樺山愛輔(海軍大将・樺山資紀の長男)に吉田茂を加えた3名がいた。
 
この近衛上奏文は悲しいほどに非力ながらもヨハンセン・グループ最大の成果となった。しかもここで行われたレッテル貼りには、戦後を睨んだしたたかな戦略が読みとれる。そして、陸軍とともに長州系宮中グループもこの時点で敗北が確定した。
 
 
※ヨハンセングループとは DVD『鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密』成甲書房より転載ヨハンセン・グループというのは、吉田反戦グループといいます。それでヨハンセンとなります。アメリカ人の暗号名です。「ヨハンセンから連絡があったか?」。ヨハンセンというのは吉田と樺山愛輔という貴族と、その中に連絡係りの白洲次郎がいます。彼らがグルーからも貰うし、別のルートからもデータを貰い、まだ御前会議で戦争を遣る最後の会議の時にも、御前会議が始まると次の日にはもう、グルーを通してアメリカの上層部に日本の最高機密が流れていくわけですよ。これが日本の現実なんですね。
 
 
 
 
晴耕雨読】 
 
2009/1/23
「一つ目の御前会議機密漏洩事件とヨハンセン・グループ:薩長因縁の昭和平成史(3)」
 
 
1941(昭和16)年9月6日の御前会議の内容をグルーにリークしていたのである。

この御前会議で「帝国国策遂行要領」が決議され、その第一項で10月上旬を目途に戦争準備を完遂することを、第二項で日米交渉の継続を決めているが、この日本人情報提供者は第一項には触れずに第二項のみを伝えている。
 
 
 
 
二つ目の御前会議機密漏洩事件と松岡洋右
 
 
実はこれとはまったく別の形でこの御前会議の情報は最高指導者スターリンにも伝わっていた。

ソ連国家保安委員会(KGB)の前身である内務人民委員部(NKVD)の極秘文書から、御前会議の3日後の9月9日付「特別報告」によってソ連内務人民委員ベリヤからスターリンとモロトフ外相へ伝えられていたことが明らかになった(05年8月13日付共同通信)。
 
 
 
 
そもそも国際連盟脱退後、満鉄総裁として返り咲き、大調査部を発足させ、左翼からの転向者を大量に招き入れることで満鉄調査部内に「満鉄マルクス主義」を浸透させるきっかけをつくったのが松岡である。

満鉄調査部にはその嘱託職員であった尾崎と満鉄調査部から企画院へ出向した小泉吉雄らを加えたコミンテルン人脈、それに中西功や尾崎庄太郎らを中心とする中国共産党人脈が巣くっていた(『満鉄調査部』『満鉄調査部事件の真相』小林英夫他)。
 
筆者には中国も事前に日米開戦時期をより正確につかんでいたとの情報が入っていることから、「エコノミスト」は満鉄調査部周辺の中国共産党人脈が怪しいと睨んでいる。

中国には英国特殊作戦執行部(SOE)が深く潜入しており、コミンテルンも巻き込みながら英国・ソ連・中国間で日本情報を共有していた可能性すらある。

 
その根拠の一つとして、中国国民党の国際問題研究所(IIS=Institute for International Studies)の下部部門を英国が運営したという中英共同活動があげられる。その下部部門とはその名も資源調査研究所(RII=Resources Investigation Institute)である。どうやらコミンテルンや中国共産党、それに満鉄調査部の工作員もここに出入りしていたようだ。

日本という大敵の存在が彼らを一瞬結びつけた。それぞれの利害が複雑に絡まる中で、一致を見出す戦略目標が現れたからだ。

 
その戦略目標とは日本を米国と戦争させること、即ち日本を米国にぶつけることである。

当時蘭印の石油はロイヤル・ダッチ・シェル(生産量の74%)とスタンバック(残り26%)の支配下にあった。

スタンバックとはスタンダード・バキュームのことでスタンダード・オイル・オブ・ニュージャージー(後にエクソンからエクソン・モービル)とスタンダード・オイル・オブ・ニューヨーク(後にモービルからエクソン・モービル)の極東合弁会社である。彼らはこれに目を付けた。

 
石油で揺さぶり日本を米国と衝突させる。そして、石油欲しさの日本をロスチャイルドとロックフェラーの地へと追い込む。
 
 
日本を南進させて虎の尾を踏ませるわけだ。これによって、戦争は激化し、長期化し、日本は破滅へと向かう。

ソ連・中国としては日本の脅威を回避できる。

英国は日本憎しで国内を結束させつつ、モンロー主義の米国を世界大戦に引き込む狙いがあった。

 
 
このクレーギー電によると「天皇が東条を首相にする時、米国との交渉を続けることと戦争を避けるあらゆる努力をすることを条件にしたとの情報をさらに確認した。この話は米国の同僚(グルー駐日米国大使)には多少違う形で伝わっており、それによると陸海軍の代表は(近衛)内閣危機の時に開かれた重臣らの会合で、天皇から戦争につながりそうないかなる動きも慎むよう命じられた。しかし、天皇の介入がどんな形であれ、前例のない勇断であったことは間違いない」としている(1988年8月1日付朝日新聞朝刊)。

 
この内容からは御前会議と特定することはできないが、グルー日記の「異例の発言」を「前例のない勇断」と置き換えることもできる。

また「米国の同僚(グルー駐日米国大使)には多少違う形で伝わっており」となっていることから、グルーの入手した情報を英米間で共有していた可能性もある。

 
リークされた日時とその内容から、薩摩系宮中グループが主導した組織的な情報工作であった可能性が高い。

この時すでに敗戦後の日本の国体護持と昭和天皇の戦争責任訴追回避に向けた「昭和天皇免罪工作」が実行に移されていたと考えるべきだろう。
 
 
 
当時クレーギーと頻繁に接触していたのは松平恒雄である。この松平も薩摩系宮中グループと切っても切れない関係にあり、この時まさに薩会同盟が結ばれていた。
 
(引用終わり)
 
 
園田さんばっかりで不安ですが。。(苦笑)
 あとは、鬼塚英昭 氏の本が多いようですね。
 
 
(引用開始)
 
山本五十六の真実②吉田茂を中心にシナリオを読み解くと真実が見えてくる
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/674.html
投稿者 ♪ペリマリ♪ 日時 2011 年 11 月 16 日
 
 
 
 白洲次郎のプリンシプルとは? by 鬼塚英昭 原爆ホロコーストへの 道
 
 
 
蘭印
 
 
 
オランダ領東インド(オランダりょうひがしインド)は、かつてオランダ宗主国として支配した東南アジア島嶼部に存在した植民地国家、あるいはその領域をさす名称である。その支配領域は、ほぼ今日のインドネシア(2005年現在)の版図にあたる。
 
 
強制栽培制度の時代
 
こうしたオランダ本国の財政状態を改善するため、東インドに導入されたのが東インド総督ファン=デン=ボスによる「栽培制度」(日本では「強制栽培制度」と訳されることが多い)である。これは、現地住民に指定の農作物を強制的に栽培させ、植民地政府が独占的に買い上げるというものであった。指定栽培されたのは、コーヒーサトウキビインディゴ)、タバコなど、国際市場で有望な農産物である。東インド植民地政府は、農産物をヨーロッパなどへ転売して莫大な利益をあげた
 
 
1883年スマトラ島東岸での試掘が許可され、1885年に採掘に成功した。試掘に当たったロイヤル・ダッチ社は、今日のロイヤル・ダッチ・シェルの前身である。
 
 
 
1939年9月1日第二次世界大戦が勃発し、1940年5月15日にはドイツの侵攻をうけて宗主国オランダは降伏し、王室などはイギリスへ逃亡し亡命政府を創設した。以後、第二次世界大戦終結の直前までオランダ本国はドイツの占領下におかれた。
 
一方、オランダ本国が降伏した後も、オランダ亡命政府傘下となった在東インド植民地軍による統治が続いていたオランダ領東インドへは、1942年2月末に日本軍が侵攻した。10日ほどの戦闘の後、在東インド植民地軍は全面降伏し、オランダ人の一部はオーストラリアなどの近隣の連合国に逃亡した。以後、東インド全域は日本の軍政下に置かれた。「オランダによる350年の東インド支配」が実質的に終了したのである。
 
その後日本軍は、これまで東インド植民地政府によって弾圧され続けていたスカルノハッタなどの民族主義運動の活動家と協力体制を取り、さらにインドネシア人を軍政府の高官に登用したほか、「インドネシア」という呼称を公の場で使用することを解禁するなど、インドネシア人を差別し弾圧したオランダ人とは異なった政策を取った[5]。なお、日本政府及び日本軍は、スカルノやハッタらが求めた早急な独立こそ認めなかったものの、1943年10月には、日本軍の協力を得てインドネシア人指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本軍政下ではあったものの、インドネシア人はこれまでのオランダ統治下では決して得ることのできなかった権限を得ることとなった。
 
その後日本政府は、1944年9月3日に将来のインドネシアの独立を認容する「小磯声明」を発表、さらに1945年3月には「独立準備調査会」を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させ、8月7日にはスカルノを主席とする「独立準備委員会」を発足させた。
 
しかし、8月15日に日本が連合国に降伏したために、独立が反故になるかと思われたものの、8月17日にはスカルノとハッタが「民族の名において」インドネシアの独立を宣言した。
 
 
 
インドネシア華人財閥リッポー傘下のノブ・ナショナル・バンク、年内に新規上場
2013/01/10 22:00
 
インドネシア新興財閥CT、仏カルフールの現地法人買収で合意2012/11/25 17:28CVCキャピタル、インドネシア・マタハリ百貨店の株式売却か2013/02/20 14:28
 
 
 
C-3章 オランダ支配史
 
 
資料
昭和17年
1942年
1月

資源の宝庫
わが開発を待つ南方資源


陸軍画報掲載
                生産量       輸出量

サイザル麻109,578

 

 

 
 
 
(引用終わり)
 
アジア通貨危機との時、日本は、ドルを売って、インドネシアルピアを買っていました。
 
また、インドネシアは TPPに入らないそうです。
 
気になる因縁ですね。
 
 
 
 


古い話  小村寿太郎

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御来訪ありがとうございます。
 
(引用開始)
 
 2013年03月03日
 
 
宗主国サマってのは、ゴールドマンサックスってな感じの認識でいいです。
CSISやヘリテージ財団メロン財閥(軍産複合体)とやらは、ほとんどよく似たモン(同一の箇所も多い)ですが、少し右側にあると思えばいいです。
宗主国ってのから、少し左側にあるのがオバマ・アメリカです。
金融ネットワークによって作られた人工国家アメリカですから、資本からの支配脱却は難しい(まぁ、他の国にもいえますが)。
脱却ってのは、アレですね、距離をとるとゆー事。
で、そのオバマ・アメリカにもっと宗主国サマへ軍産へ近寄らせろと、命令を受けパシリになって生贄持参でハァハァしてるのが”アベノクソミソ”です。
 
(引用終わり)
 
 どうして、オバマさんやプーチンさんは、距離がとれるのかな?
 
 国民の支持を得ているから(苦笑) だけじゃなくて、
 不正選挙とかにもしっかり対応できるような味方が国内にもいて
 「宗主国」と、交渉できる材料があるということですよね。
 
 どこかの国は、その材料を、一部の人間のために 浪費した挙句、
 交渉もヘタで、持っていかれる一方で、国民負担と犠牲を増やすことばかり
 しているようですが。。
 
 
 渋沢栄一さんまで、考えなくても、アイゼンベルグさんで、フランスの匂いと
 結びついたんですが、遡って、なぜ? と思ったことがあります。
 
 
 小村寿太郎は、どうして ハリマンの融資を断ったのか?
 
 
(引用開始)
 
 
 
明治政府は明治初年から日清戦争後までは外債は募集しない外債非募集政策をとってきた。これは「明治の政治家が外国資本の侵略的意図に対して反発を感じ、極端なまでの外債忌避の態度をとったこと」4)があると考えられる
 
 
明治政府の外債発行について見ると、第1号は1868(明治元)年7月、英国の東洋銀行から洋銀50万ドルを借り入れたケースであった。これは幕府が横須賀横浜製鉄所を抵当として仏ソシエテジェネラル銀行より1868(慶応4)年2月借入れた負債を償却するためであったが、年15%という、とてつもない高利であった
 
 
 
1898(明治31)年に当時、正金銀行副頭取の地位にあった高橋は井上馨蔵相から外債募集の可能性を探る密命を受け、海外支店業務指導点検の名目でイギリス、ドイツ、ベルギーを訪れている。ここで出会ったパース銀行ロンドン支店副支配人のアレクサンダー・アラン・シャンドは、横浜の「バンキング・コーポレーション・オブ・ロンドン・インデヤ・アンド・チャイナ」支配人時代に少年高橋を教えた人物であり、高橋の有力な協力者、支援者となった。ほかにも、この1898年の旅行では外債募集交渉で日本の協力者となる人脈を培っている。
 
 
 
しかし、高橋はシャンドらの仲介でパース銀行を軸に交渉を進め、アジアに活躍の場を広げていた香港上海銀行を引き入れ、4月26日、27日ごろには日本政府の希望額の半分の500万ポンドを発行する案をまとめ上げた
 
 
b)シフとの出会い
 
 
発行銀行・引受人
 
(英)パース、香港上海、横浜正金、ロスチャイルド
(米)クーン・ロエブ他
(独)ワールブルク商会、ドイツ銀行他
(仏)ロッチルド・フレール
 
 
高橋がロンドンの銀行家と日本政府の希望額1000万ポンドの半額500万ポンドを発行価格93ポンド、期限7年、年6%でまとめ仮契約調印にこぎつけたのを祝い、高橋の横浜正金時代の旧友で日本に来たこともあるニューヨークの商社、スパイヤーズ社ロンドン支店長、アーサー・ヒルが5月3日晩餐会を催してくれた。この晩餐会にニューヨークのクーン・ロエブ商会首席代表、ジェイコブ・シフが招待されていた。
 
 
しかし、シフと高橋の出会いは決して「偶然」ではなかった。シフが計画的に高橋に近づいたと考えるべきである。N.W.コーエンのシフについての最新の研究によれば、日露戦争開戦直前の1904年2月にニューヨークのシフ邸で開かれたユダヤ系アメリカ人指導者たちの集まりでシフは次のように述べたという。 
「72時間以内に日本とロシアは開戦する。私は日本への資金協力を実行すべきかどうか検討している。計画を実行に移した場合、ロシア国内のユダヤ人にどのような影響を及ぼすか、皆さんの判断を伺いたい」
 
すでにこの年初め、シフのクーン・ロエブは日本への資金協力を検討し始めていた。セオドア・ルーズヴェルト大統領もアメリカ国内世論も日本寄りであった。会合でのユダヤ人指導者たちは日本への協力に好意的であったと推察されるとコーエンは述べている。
 
 
また、シフに対して、ロンドンのベアリング兄弟商会社主のレヴェルストゥク卿がニューヨークでの発行引き受けに参加するよう熱心に働きかけていた。ベアリング商会は帝政ロシア政府との関係を優先する経営戦略から高橋の交渉の際は引受けを断ったが、ニューヨーク市場の育成に関心があり、日本外債発行をその起爆剤にする意図があったといわれる。 20)
 さらに、ロンドンの有力なマーチャント・バンカーであり、英国王とも親しく、シフの親友の一人であるアーネスト・カッセル卿が日本外債のニューヨーク発行についてシフの相談相手となり、日本に好意的な説明をしたこともシフの高橋への接近の背景にあったとみられる。イギリスは、日英同盟で同盟国とはいえ、日本がロシア一国と戦うときは中立の立場をとる条約の取り決めになっており、ロンドンでの日本政府の起債活動を公然と支援することは国際法上好ましくないとの意見が国内にあった。そのうえ、英王室とロシア王室は姻戚関係にあること、白人国ロシアと戦う黄色人種日本を白人国イギリスが単独で支援することはロシアに対してはばかられることなどから、アメリカを引入れ英米共同で日本を支援することを秘かに図った。
 
 
 
 一方、シフの日本に対する支援は、アメリカ国内で他の金融機関に引受シンジケートへの参加を呼びかけることにとどまらず、ドイツをシンジケートに加えることを高橋に助言し、ヴァールブルク商会(Warburg & Co.)とドイツ・アジアティッシェ銀行(Deutsch-Asiatische Bank)グループを高橋に紹介した。シフの友人であるヴァールブルク商会のマックス・M・ヴァールブルクは、ドイツ銀行頭取と共にドイツ皇帝のヨットに乗り、皇帝から日本への投資を行うことにお墨付きを得て、1905年7月、11月の2回、高橋の交渉した英貨公債募集に参加している。
 
 
 
一方、南満州鉄道の権益がポーツマス条約でロシアから日本へ譲渡されたのを見て、アメリカの鉄道王、エドワード・H・ハリマンがその買収に動いたとき、シフは支援し日本に売却を働きかけている。この計画の青写真を書いたのは、1905年当時、ソウル駐在のアメリカ副領事ウィラード・ストレートで、満州など中国北部へのアメリカの投資を説いた。
 
 
一方、この時代、ヨーロッパからシオニズム(Zionism)の運動が燃え上がったが、シフは同調しなかった。シフは1907年7月のユダヤ人集会(Jewish Chautauqua Assembly)の席上、ユダヤ人にとっての「約束の地」はアメリカであり、パレスチナではない、と述べている。「アメリカはユダヤ人の一時的な避難所ではない」とも延べ、ユダヤ人移民のアメリカ定着に力を注いだ。
 
 
 
 
 
クリック20世紀
 
桂・ハリマン覚書
 
当時日本の政府には日露戦争の結果得た満州の権益を自力で経営する自信がなく、元老をはじめ桂内閣もアメリカ資本の導入を渡りに船と歓迎したのである。ハリマンの計画は単に南満州鉄道を買収するだけでなく、それを起点にシベリア鉄道を経てヨーロッパへ、さらに汽船連絡によって世界一周鉄道を実現するという壮大な構想であった。話合いは、順調に進み、十月十五日には、かたちだけ日米平等のシンジケートを経営体とする南満州鉄道運営に関する予備覚書が、 桂首相とハリマンの間に交換された。ハリマンは勇んで帰国の途についたが、ポーツマス講和会議から入替りに帰国した首席全権小村寿太郎は、これに猛然と反対し、ついにその契約を破棄させることに成功する。
 
小村がそうした強硬な発言ができたかげには、満鉄の自主経営を可能にする資金の手当がモルガン系銀行によって保証されていたからであるが、ともあれハリマンは船がまだサンフランシスコへ着くまえに、予備協定破棄を電報で知らされる。
 
 
 
 
 
 
 
 
2. 2 資金の調達投入
 
さて, 07 年--15 年の8 年間の特徴は, 資金調達の大宗が外国社債117 百万固によっていることである。また日本政府の出資は設立当時の現物出資にとどまっている。この時期の外債発行は一般に国家の重大事であり,満鉄の外債発行は政府の元利支払保証を与えられたばかりではなく,大蔵省・日本興業銀行・横浜正金銀行などの国家諸機関の全面的動員によって行なわれた
 
 
 
2011年04月15日
外交の天才「小村寿太郎」が日露戦争勝利後に「桂・ハリマン覚書」に強硬に反対した本当の理由は何なのか?
 
(コメント)
 
ところが小村寿太郎外相は来日したハリマンの帰国(1905年10月13日)の3日後、入れ違いに米国から帰国し、協定に驚き、小村は既にハリマンの商売敵モルガンを推していたので強行に反対し、この協定を破棄させてしまいました。モルガンとの提携は機関車やレールを買ってくれというだけのものでした。日露戦争をあれだけ支援したルーズベルト&ユダヤ資本を袖にしたわけです。
 
この頃見逃せないのが日露戦争の日本勝利にアジア諸国が喚起したことです。支那からは一万人超える支那人留学生が東京へ押し寄せています。この姿は白人達にとって脅威だったでしょう。ドイツのフォン・グレイル前駐北京大使はベルリンで会議を開き「中国の日本化が進むと欧州の権益が失われる」と主張し、「米、英と協力し、日本を押さえ込まねばならない」(ニューヨークタイムズ)と政府に警告を発しています。
 
憤慨した米国は大陸の権益を得るためにはは目の上のこぶである日英同盟をつぶしにかかり、米国は日英同盟の対象から米国をはずすようなど働きかけ、大正10年(1921年)ワシントン会議で四カ国条約により日英同盟廃止にこぎつけます。
 
 ワシントン会議ではワシントン海軍軍縮条約が結ばれ、主力艦の比率は英米日5:5:3となります。日英同盟が破棄された上では米英10に対して日本は3になったわけです。日本を孤立化させ、米国は日本を仮想的国として大陸への進出を着々と狙っていったのです。
 
 
 
 
1905年(明治38年):聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス
 
1907年(明治40年): バス勲章ナイト・グランド・クロス1907年(明治40年): ロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・グランド・クロス
 
(引用終わり)
 
 それぞれの事情があったようですね。
 
 

古い話  鮎川義介

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 御来訪ありがとうございます。
 
 住友を検索していたら、引っ掛かったものがあります。
 
(引用はじめ)
 
 
昭和8年(1933年)住友伸銅鋼管専務在任時には住友の満州進出の方針の下、満州に渡り、「財閥満州に入るべからず」と反財閥的感情の強かった関東軍首脳部を説き伏せ、翌9年(1934年)には満州住友鋼管を設立した。
 
(引用終わり)
 
 なんで財閥満州に入るべからず だったのかはわかりませんが
 鮎川 義介の日産コンツェルンが入るんですね。
 弐キ参スケ時代から、満州は悪くなった。。なんていうのも本で読みましたが。。
 
 
(引用開始)
 
 
 
 
明治元勲井上馨の姪を母とし、旧長州藩士・鮎川弥八(第10代当主)を父として、山口県氷川郡大内村(現在の山口市大内地区)に生れた。
旧制山口高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学工科大学機械科を卒業。芝浦製作所に入社。身分を明かさない条件で日給48銭の職工となる。その後、当時の技術はすべて西欧の模倣であったので、西欧の状況を体験すべく渡米。約1年強を可鍛鋳鉄工場(グルド・カプラー社)で労務者として働く。
 
 
満州国の軍・官・財界の実力者弐キ参スケの1人とされた。弐キ参スケとは東條英(関東軍参謀長)・星野直(国務院総務長官)、鮎川義岸信(総務庁次長)、松岡洋(満鉄総裁)である。鮎川・岸・松岡の3人は満州三角同盟とも称された。
 
 
 
1934年(昭和9年)、自動車製造株式会社を日産自動車製造株式会社と改称。同年『ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について』と題する論文を発表。5万人のドイツ系ユダヤ人を満州に受け入れ、同時にユダヤ系アメリカ資本の誘致を行うことにより、満州の開発を促進させると共に、同地をソ連に対する防壁とする構想を、ユダヤ専門家として知られる陸軍大佐・安江仙弘[6]、海軍大佐・犬塚惟重、関東軍のいわゆる「大陸派」(満州進出を求めた多くの軍閥)に立案した(のち河豚計画へと展開する)。これにより、関東軍の後ろ盾を得る。南満州鉄道の理事だった松岡洋右[7]ものちに河豚計画に参加。
 
 
 
満州国の経済運営で巨大な南満州鉄道が影響力を持つことを嫌った関東軍の求めに応じ、日本鉱業(現・JXホールディングス)や日立製作所、日産重工業(現・日産自動車)を傘下に持つ日産コンツェルンの総帥・鮎川義介が、満州全土の鉱業から各種製造まで一貫した計画の元に生産することを目的に、1937年にグループの持株会社である日本産業を満州に移転・改組させて設立した。
 
 
 
元来この計画は、日本政府のうちでも少数の者、及び軍当局(彼らは満州国に住民が定住する必要性を感じ、また同地に対する日本の産業及びインフラの構築を支援することが可能であった)の考えであった。この一派の主な顔触れは、「ユダヤ専門家」として知られる陸軍大佐安江仙弘と海軍大佐犬塚惟重の両名に加え、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、及び関東軍のいわゆる「大陸派」(満州進出を求めた多くの軍閥)であった
 
 
この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるドイツの反ユダヤ政策を激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。これを知ったドイツ外相のヨアヒム・フォン・リッベントロップは、駐日ドイツ特命全権大使を通じてすぐさま抗議したが、上司に当たる関東軍参謀長東條英機が樋口を擁護し、ドイツ側もそれ以上の強硬な態度に出なかったため、事無きを得た。
 
(引用終わり)
 
 パレスチナまで行ったという念のいれようです。
 ロシアも絡んでいます。ちょっと複雑。。
 
 
鮎川氏は、満州重工業に 外資を取り込もうとするのですが、ことごとく失敗したようです。
 
 
(引用開始)
 
満洲重工業開発株式会社の設立と外資導入交渉
 
四 後期の外資導入交渉一一九三九年後半から
日米開戦まで
 
(ー) ヒトラーとの会談
駐満ドイツ公使のワグネルが鮎川に「満洲の大豆とドイツの機械とのパーターを行えば,満業の計画は遂行できるのではないか」と言ってきた。
そこで鮎川はドイツ行を決心し,一九三九年一二月末,星野長官からの約一万トンの大豆のワクをもって,岸本勘太郎と三保幹太郎を帯同し,満洲
里からシベリア経由で,モスクワに立ち寄ったのち,一九四O年一月ベルリンに着いた。ドイツの工場は油脂や飼料の供給が行き詰まっていたので,鮎川は大豆のお陰で各工場の歓待を受けた。鮎川は大豆一万トンをどのように配分するかについては,最後にヒトラーの裁定を仰ぐつもりであった。来栖三郎駐独大使はヒトラーに対し,鮎川との面会を申し込んだ。ヒトラーは多忙で一度は断ったが,一九四O年三月面会に応じた。しかしヒトラーは,今ドイツは戦備が第一だ。大豆の見返りに機械を外国に出す余裕はない(49)J と鮎川の要望を受けつけず,結局,満洲の大豆とドイツ
の機械とのパーター交渉は成立しなかった
 
(引用終わり)
 
いろいろと交渉を模索しますが、結局、交渉だけでもできたのは、
 フォード、GM だけで トヨタも絡めてですが、開戦したためご破算になったようです。
 
 
 
 
 (引用開始)
 
 
Ⅲ、アメリカのユダヤ人リーダー
(1)シフとクーン・ロエブ商会
 
時代の追い風である鉄道建設は1880年代最盛期を迎え、クーン・ロエブ商会も12以上の鉄道に資金供給した。しかし、1893年の恐慌のあと鉄道会社は経営難に陥るところが続出、モルガン商会をはじめとする投資銀行が再建・整理・統合の主導権を握った。クーン・ロエブ商会の場合、ユニオン・パシフィック鉄道買収が有名で、このとき以来シフは鉄道王、エドワード・H・ハリマンと提携する。ユニオン・パシフィック買収はシフの金融業者としての名声を高めた。19世紀末から20世紀初頭にかけてクーン・ロエブ商会はモルガン商会に次ぐ地位をウォール街に確立する。
 
 
 
(3)ユダヤ人移民支援と慈善事業
 
慈善事業では、ハーバード大学、コーネル大学、アメリカ赤十字社へ巨額の寄付をしている。
 
 
 
(4)帝政ロシアのユダヤ人迫害への抗議活動
 
1917年3月、ロシアで3月革命が起こり帝政が倒れるとシフは喜んだ。シフはケレンスキー政権を支持し、ケレンスキー政権が発行する公債のうち100万ルーブルの引き受けを約束した。 44)
 
 
日露戦争時には、ジョージ・ケナンが日本国内の収容所に収容されているロシア人捕虜に帰国後の蜂起を促す革命の宣伝文を秘かに配布したとき、シフはケナンと連絡をとり、その作戦を助けている。45)
 
1917年11月、ボリシェビキによる11月革命が起きると、ボリシェビキの中にトロッキーなどユダヤ人指導者がいたため、「ユダヤ人=ボリシェビキ」とする見方が欧米で強まり、「ユダヤ人は資本主義、キリスト教国を転覆しようとしている」という“ユダヤ陰謀説”が広まった。この結果、「帝政ロシア=反ユダヤ主義」ととらえて“反ユダヤ主義戦争”を展開してきたシフたちに逆風が吹きつけることになった。シフはボリシェビキには反対であった。 46)
しかし、反ユダヤ主義の自動車王、ヘンリー・フォードは自らの支配下にある新聞、ディアボーン・インデペンデントで繰返し、「シフはボリシェビキに資金を供給した」と攻撃した。 47)
 
 
 
 (引用開始)
 
 
 
第1章 「I・G・ファルベン社」とナチス

第2章 「スタンダード石油」とナチス
第3章  「フォード社」とナチス
第4章  「デュポン財閥」とナチス (GM)
追加1  IBM」とナチス
追加3   『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』
 
(引用終わり)
 
と、鮎川氏が交渉した会社が含まれていますし、ヒットラーに会いに行っています。
 
 満鉄が強くなるのを嫌った関東軍の勢力とは、どんな人たちと結びついてい たのでしょうね?
 
 ホロコーストとは、731部隊と似たようなことをしていたのではないのか?
 
 
 また、今まで読んだことのある、「ナチス」「イスラエル建国」は、ヨーロッパの ユダヤ人を追い出すために、「一部のユダヤ人も加担した」というのが、
 信憑性を感じさせるような資料でした。
 

ニューデーラー

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御来訪ありがとうございます。
 
学校では、1929年の世界大恐慌では、アメリカのルーズベルト大統領は
公共事業を起こして「ニューディール政策」を取りました。イギリスでは、経済ブロック政策をしました。
 
 と、習いました。
 
 その時は、そのまま覚えたのですが、
 
 「公共事業? じゃあ、そのお金はどうしたの?」
 
 って、不思議です。
 
 
(引用開始)
 
 
整理回収機構の100㌫の親である、預金保険機構。
子会社として他に、企業再生支援機構と東日本大震災事業者再生支援機構がある。
モデルは、米国の連邦預金保険公社(FDIC)。

 
 
 
 
 
最初のグラス・スティーガル法は、通貨(非正貨、紙幣など)を連邦準備制度に割り当てることを許可した最初の法律であった。
 
 
1933年6月16日に通過した第2のグラス・スティーガル法は、公式に1933年銀行法(Banking Act of 1933)と命名された。そして、それらの業務(商業銀行および投資銀行業務)とそれによる銀行の種類が分離され、銀行預金に保険をかけるために連邦預金保険公社(FDIC)を設立することが規定された。それがアメリカの銀行業務規制により強い影響を及ぼしたことから、経済学における文献では通常グラス・スティーガル法として簡潔にこれに言及している[11]
 
 
 
 
 
 実は、FRBの量的緩和は1932年の3月、すなわち、まだ共和党のフーバー大統領の政権の時から実施されていた。とくに1932年3月には連邦準備法が改正され(グラス=スティーガル法)、FRBは資金供給のために財務省の発行したアメリカ国債を買うことができるようになった。
 
 ルーズベルトは1933年6月に金本位制を停止し、管理通貨制に移行した。これでFRBは金本位制の制約なしに大胆な量的緩和の実施が可能となった。財務省も、農業調整法(AAA)トーマス修正条項という法改正によって、大量の金を海外から購入する仕組みを作り、量的緩和に協力した。
 
ルーズベルトは金本位制を停止したものの、政府内には、長年採用してきた金本位制的な通貨制度を維持しようとする動きがあった。当時の財務官僚であったモーゲンソーはこれを憂慮し、右のトーマス修正条項によって大量の金購入を実施し、ルーズベルトの量的緩和政策をサポートしたのである。
 
 
 
 
 
連邦預金保険公社(れんぽうよきんほけんこうしゃ、Federal Deposit Insurance Corporation; FDIC)は、1933年グラス=スティーガル法に基づき設立された米国政府の公社世界恐慌で大量の銀行が破綻したことを受けて、預金の保護政策を迫られた連邦議会が、当時マサチューセッツ州で運用されていた預金保険基金を参考に創設した。
 
 
時の大統領であるフランクリン・ルーズベルトは、銀行経営者の責任を曖昧にするものとして、当初は個人的にこの制度に反対していたが、議会の圧倒的多数の支持を知り受け入れた。1934年、ルーズベルトは2代目のFDIC代表にウィスコンシン州の銀行家であったレオ・クロウリーを指名した。60年超を経た1996年、このクロウリーが、FDICを利用して過去の横領を隠蔽しており、ルーズベルトもこの事実を知りながら黙認していたことが明らかになった[3]
 
 
 

youkoso irasshai

2012年11月16日金曜日
緊急銀行救済法の本質
 
フランクリンD.ルーズベルト、アメリカ合衆国の元大統領が大恐慌の時代に緊急銀行救済法として知られているにも緊急銀行法または制定の原動力となった。緊急金融救済法は1933年3月9日に可決されました。この行為が再開すると、組織内の新しい変更を受けるに十分な資金を持っている銀行のためにチャンスを与えている間、銀行が関係しているとして、そのクライアントは限りもはやニーズを満たすことのできない金融機関のサービスを終了させる計画を作成しました。
 3月、1933年の第五日にルーズベルト大統領が大統領の座を取っただけで一日後、彼は4日間の銀行の懸濁液を含み、議会の特別会議を命じた連邦政府の検査官はそれらを宣言するための十分な時間を提供するために実装されるべきである再び動作する能力を持って銀行。連邦政府の検査官は、特定の金融機関が財政的に安定であるかどうかを宣言するために許可されている唯一の公式政府である。

緊急銀行救済法は、財務長官に金への接続にその値の後減少にさらされる紙幣の対応する金額と引き換えに民間人の金を押収する権限を付与している。
この法案は計り知れない意義を持っていますが、それはむしろ早すぎる議員のほとんどがそれを読む時間がなかったことを渡されました。それらのほとんどは、それが議会の書記官によってそれらに読み込まれたときにこの法案について知る機会がありました。いくつかの議員はこの法案の迅速な通過に反対していたが、それはまだ渡されました。法案の制定の10ヵ月後、5000の金融機関は、連邦政府の検査に合格しており、それらのサービスと操作を再開するよう命じられた。銀行の大半は、速やかに再開さと金融機関の人々の信頼関係が再確立されました。

しかし、この法案は、より多くの厄介な状況に一時的なソリューションでした。翌年には、1933年銀行法は、後の銀行の問題をより安定した長期的な解決を提供する渡されたが、これは連邦預金保険公社(FDIC)の作成や連邦預金保険会社が含まれています。 FDICは、預金者のお金を確保することを支援する政府機関です。この対象になる預金ためには、彼らの預金は10万を下回ってはいけません、それらの銀行は連邦預金保険公社(FDIC)のメンバである必要があります。ルーズベルト大統領は、連邦預金保険公社(FDIC)を確立するためのアイデアに反対初めて、彼は保険のこの種の唯一の無責任な金融機関に保護を与えると主張しているが、彼は議員の支持が圧倒的であったことを見たときすぐに認めた。彼は連邦預金保険公社(FDIC)の先頭に立つ1934年にレオ·クロウリー、ウィスコンシン州から銀行員を任命したときにルーズベルトの恐怖が実現しました。彼はクロウリーが彼のお金を詐欺の活動を隠すために連邦預金保険公社(FDIC)を使用していたことを知りました。クロウリーの横領は、1996年に公開されました。

1933年に緊急銀行救済法の制定は、多くの民間銀行は、クライアントが銀行業界に希望を失うことにした大恐慌時代の悲惨な年の途中でその事業を再確立に貢献してきました。
 
 
 

連邦準備制度の強化は、従来の連邦準備委員会から決定権を連邦準備制度理事会(FRB)に移し、すべての銀行を連邦準備制度に加盟させた。
銀行法や証券法などの金融関連法はたびたび改定され、ニューディールの中でもマイナーな立法と見られがちであるが、「歴史上初めてウォール街を規制し、銀行制度を中央銀行による政策コントロールを確立し、預金者保護を制度的に保障した金融制度の改革は、その後レーガン時代に至るまでのアメリカの金融制度の基礎を固め、他のいかなるニューディール立法よりも成功したものとなった。」<林敏彦『大恐慌のアメリカ』1988 岩波新書 p.137-139>
 
 
 
 
当時、ルーズヴェルトは小児麻痺性脊髄炎にかかり、不具者となっていた。ピーボティは病気と借金に悩むルーズヴェルトにロスチャイルドに魂を売るように説得した。チャーチルと全く同じように。

ジョージ・ピーボディ社はロンドンのロスチャイルド商会のアメリカ株売買のほとんどを扱っていた。JPモルガン財閥ロックフェラー財閥もロスチャイルド商会の資金を導入していた。このアメリカの両財閥を実質的に支配するのはロスチャイルドである。アメリカでのロスチャイルド商会の代理機関としては、クーン・ローブ商会が有名である。この他にもオーガスト・ベルモント商会がある。

ジョージ・ピーボティの一族は奴隷貿易を営んだ後に銀行業に転向した。ルーズヴェルトはデラノ一族で、やはり奴隷貿易で財を成した。また
アヘン貿易もしていた。

ユゼフ・ヒェロニム・レッティンゲル

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御来訪ありがとうございます。
 
オバマさんのブレーンに ブレジンスキーという方がいますね。
 
(引用開始)
 
 
 
 
 
カーター政権時の国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めたことで知られる。 ポーランド出身。カナダ育ち。
 
 
ポーランドワルシャワに「ズビグニェフ・カジミエシュ・ブジェジンスキ(Zbigniew Kazimierz Brzeziński)」として生まれる。ブジェジンスキ家は、現在はウクライナ領となっているブジェジャヌィを故地とし、3つのホルンをあしらった「トロンビィ」紋章を持つポーランドの名門シュラフタ外交官だったタデウシュ・ブジェジンスキは1931年から1935年までベルリンに赴任、ズビグニェフも父と共にドイツで過ごし、アドルフ・ヒトラー率いるナチス党の台頭とその強引な政治手法を目撃した。
 
 
ポーランド王国参政権を持つ社会階級、ないしそこに所属する人々。
 
 
 
 
 2011-06-22
 
 

■欧州統合運動の「統合者」である諜報員

実は、欧州統合運動は第1次世界大戦後まもなくから水面下で数方向のルートで進行していた。その1つがハプスブルク朝 Haus Habsburg の政治家であるクーデンホフ・カレルギー伯爵 Richard Nicolaus Eijiro Coudenhove-Kalergi(1894-1972、別名:青山栄次郎)の「汎(はん)ヨーロッパ運動」である。

伯爵は、近代の戦争は巨大な産業の力を必要とする、だから資源が共通の権威の下に置かれるならば、大国同士の紛争は避けることが出来ると考えた。つまりドイツの石炭とフランスの鉄鋼が、両国に跨(またが)る1つの権威のコントロール下にあるならこの2国の新たな戦争の回避が期待出来ると主張した。これはECSCのモデルになっている考えでもある。
 
しかし、ナチス・ドイツの台頭によりその統合計画は破綻した。第1次世界大戦で敗北したドイツ(ワイマール共和国)から生まれた最悪の独裁体制が、ナチス・ドイツ Nazi Germany である。

ナチス政権には、ニューヨーク・ウォール街やロンドン・シティの金融資本、ロックフェラーのスタンダード石油と、ジョン・F・ダレス John Foster Dulles(1888-1959、後の国務長官、企業弁護士)等のアメリカ支配層が支援(宥和政策)を行っていた(但し、ジョンの弟アレン・ダレス Allen Welsh Dulles〔1893-1969、後に1953~1961年までCIA長官を務める〕は反ナチスの立場を取った)。

アメリカとイギリスのことを一纏めにして、アングロ・アメリカン Anglo American と呼ぶが、このアングロ・アメリカンの資本家達は、そもそも20世紀前半には、ドイツ帝国牽制の為という名目で、ロシア革命 Russian Revolution に対する資金援助を行っていた。

しかし、途中でレーニン Vladimir Lenin(1870-1924)やスターリン Joseph Stalin(1878-1953)をコントロール出来なくなったのか、今度はドイツを使ってソ連共産主義を封じ込めるという戦略に移ってしまう。場当たり的な米英の行動が世界大戦の悲劇を生んだ1つの原因である。

米英はその後も同様に、自国の利益の為に何度も傀儡政権を樹立しては潰してきた。このナチス台頭についての米英財界の犯罪的関与については、アメリカの作家エドウィン・ブラック Edwin Black(1943-)の著作や菅原 出(すがわら いずる)氏の労作『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』に詳しく書かれている。

そのような中で発生した第2次世界大戦で活躍した1人のポーランド外交官(正確には諜報員)がいた。名前をユゼフ・ヒェロニム・レッティンゲル Jozef Hieronim Retinger(1888-1960)と言う。彼こそが、数多く分立した欧州統合運動を一纏めにして、亡くなるまでビルダーバーグ会議終身事務局長として、欧州政界の黒子役として君臨してきた人物である。

彼はポーランドの愛国者であった。第2次世界大戦中には、彼はポーランド亡命政権を率いた軍人、シコルスキ将軍 Władysław Eugeniusz Sikorski(1881-1943)の閣僚評議会顧問として、政治の舞台裏で活躍するようになる。

彼は、人脈のあった英国を拠点をポーランドとソ連の外交交渉に積極的に関与したが、ソ連軍がポーランド将校を大量虐殺した「カティンの森事件」の後は、反ソに傾斜していく。彼はイギリス軍の航空機に乗ってポーランド上空からパラシュートで降下し、国内の政府要人・軍人との戦略会議を行った。ところが、シコルスキ将軍が飛行機事故で死亡してしまう。

イギリスとレッティンゲルの関係は深く、戦後、彼はポーランドからイギリスに政治亡命し、以後は「女王陛下の秘密諜報員」として生きることになる。

戦争中、イギリスは、アメリカのアイゼンハウアー将軍 Dwight D. Eisenhower(1890-1969)、フランスのド・ゴール将軍 Charles de Gaulle(1890-1970)、オランダのベルンハルト殿下や連合国の情報将校が集まる拠点になっていた。これらの諜報ネットワークが戦後のCIA(アメリカ中央情報局)の誕生に繋がった。

アメリカのアイゼンハウアー政権で心理工作担当補佐官を務めた、初期のビルダーバーグの主要メンバーだったチャールズ・ダグラス・ジャクソン Charles Douglas Jackson(1902-1964)と言う出版業界の大物は、レッティンゲルを「まるでジェームズ・ボンド(James Bond)のような男だ」と評したと言う。
 
 
 
EU設立とユゼフ・ヒェロニム・レティンゲル」
http://www.polinfojp.com/kansai/umd05.htm
 
 
レッティンゲルはクラクフの郊外にて1888417日、あまり裕福でない小地主の末息子として生まれた。父親は弁護士であり、19世紀末の『モルスキェ・オコ領土所有権裁判』にてポーランド大貴族であるザモイスキ(Władysław Zamoyski)の弁護士として闘い、見事に勝訴した。現在タトリ山脈のMorskie Oko 池がポーランド領土であるのはレッティンゲルの父によるところが大きい。母はヤギェウォ大学総長Emilian Czyrmiańskiの娘であった。ザモイスキ家との関係は将来J.H. レッティンゲルに後の有力者たちとの多角的な友誼関係を持つことに大きな役割を果たした
 
 
 
ポーランドにおいてソ連の露骨な人権や民主主義的手続きへの蹂躙を目の当たりにしたレッティンゲルは欧州の未来、すなわち共産化の危惧につき真剣な分析を行い、『自由の連帯』に基づく欧州統合しかソ連の脅威に抵抗する手段がない事を提唱し始める。
 
 
 
 
 

レッティンゲルはアヴェレル・ハリマンの支持を得て、アメリカ財界とのパイプ作りを進めた。RIIAとCFRが姉妹組織であることを思えば、この行動も組織的な動きと考えられる。
 
イギリスは、大戦で深い傷を負った。イギリスの支配集団は、アメリカの支援を必要としていた。一方、アメリカの支配集団は、イギリスを含むヨーロッパへの勢力拡大を進めていた。レッティンゲルは、J・P・モルガン系でCFRの理事長ラッセル・レッフィングウェル、ネルソン・ロックフェラー、デヴィッド・ロックフェラー、ジョン・F・ダレス等へと交流を広げていった。
 CFRは設立以来、会長が全体を統括していたが、第2次大戦後、理事職を設けた。戦後初の理事長がレッフィングウェルで、次はジョン・マックロイ。その次がデヴィッド・ロックフェラーである。マックロイは、ロックフェラーの銀行であるチェース・マンハッタン銀行(当時)の頭取だった。レッティンゲルは、モルガン系やロックフェラー系の所有者・経営者に人脈を拡大していったのである。
 こうしてレッティンゲルは、欧州統合を目指し、英米連携を強めながら、舞台裏で積極的に行動した。そのような中で設立されたのが、ビルダーバーグ・クラブである。

 ダニエル・エスチューリンの「ビルダーバーグ倶楽部」(バシリコ)によると、「上流階級のカクテルパーティでは、ビルダーバーグは英国情報機関、MI6の創造物で、RIIAの指令下にあるものとささやかれている」という。また「MI6は、ビルダーバーグを機能させるには王室の権威を借りて広範な支持を集める必要があると考え、オランダ王室のベルンハルト殿下に目をつけた。欧州の王室や産業界の重鎮と幅広い深交があり、おあつらえ向きの仲介者だったからだ」と書いている。
 
MI6とは、イギリスの軍事情報部(MID)で諜報活動を担当する第6部のことである。アメリカで言えば、中央情報局(CIA)に相当する部門である。
 
 
 
エスチューリンは、レッティンゲルについてはほとんど触れず、ビルダーバーグ・クラブの構想は、二人の人物から出たものだという。
 
一人はアラステア・バカンである。初代トゥイーズミュア卿ジョン・バカンの息子で、円卓会議のメンバーである。RIIAの理事や戦略研究所所長等を歴任した。もう一人は、ダンカン・サンズである。チャーチルの娘婿で、卓越した政治家だったらしい。クーデンホーフ=カレルギーはチャーチルに欧州統合運動を呼びかけ、サンズが運動団体を作り、国際会議を主宰した。レッティンゲルは、チャーチルと親しかったから、サンズとも親しかっただろう。欧州統合を目指すレッティンゲルと、欧州統合運動を進めるサンズには、協力関係があったと思われる。
 いずれにせよ、ビルダーバーグ・クラブに至る発想は、イギリスで生まれた
 
ビルダーバーグ・クラブは欧米志向が強く、参加者の多数は西欧人である。アメリカ人は15~20%程度に過ぎない。この比率は、アメリカの国家と資本が世界経済で占める割合に比べると、アンバランスである。
 
デヴィッド・ロックフェラーは、ビルダーバーグ・クラブの創設メンバーであり、運営委員を務めている。またビルダーバーグ・クラブに対し、IBM、エクソンなどの系列企業から多額の寄付を出しているようである。デヴィッドは、アメリカでは無名だったジミー・カーターやビル・クリントンを、彼らが大統領選挙に立候補する前に、ビルダーバーグ・クラブで紹介し、大統領に押し上げた。
 デヴィッド・ロックフェラーは、ビルダーバーグ・クラブに日本を参加者に加えることを提案して拒否され、73年(48年)、独自に日米欧三極委員会(TC)を創設した。
 
(引用終わり)
 
 単にポーランドつながりで。。
 
 英米の連携でできて、西欧人が多い。。ですか。
 日本の、内務省(苦笑)は、ホントは、こっちが好きなんじゃないかな?
 
 御来訪ありがとうございました。

三極委員会 ブレジンスキー と アーミテージ論文

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(引用開始)
 
 
 
三極委員会の理論的支柱ブレジンスキー

 デヴィッド・ロックフェラーがTCを設立する際、構想を具体化し、設立を補助したのが、国際政治学者のズビグニュー・ブレジンスキーである。
 ブレジンスキーは、政治学者としてもまた政治家としてもキッシンジャーと並び称されることが多い。もちろんCFRの会員である。カーター政権で国家安全保障担当大統領補佐官を務めた。21世紀の地球で超大国アメリカの覇権を維持し、アメリカ主導で世界秩序を構築する戦略を打ち出している屈指の戦略家である、と私は認識している。次期大統領であるバラク・オバマの外交問題顧問としてオバマに助言している。
 
 
 
TC設立後の日本の再従属化

 ゲイリー・アレンは、三極委員会(TC)について、「日本をアジア太平洋連合の一員として中国近代化のために使おうとしている彼らは、渡辺武アジア開発銀行元総裁を当初の日本側委員長にした。その他の日本側委員としては、宮沢喜一、大来佐武郎、牛場信彦、佐伯喜一、土光敏夫、藤野忠次郎、永野重雄、岩佐凱美、盛田昭夫らがおり、このうち何人かは日米賢人会議のメンバーを兼ねている」という。
 そして、アレンは、TCの「日本側委員の中には一人もビルダーバーガーはいない。このことは日本人がCFRやTCの背後にある超国家的な秘密組織から完全に締め出され、知らない間に彼らの道具にとして使われていることを意味している」と述べている。
 TCの日本側委員を見ると、TC設立当時、宮沢・大来は元外相、牛場は元駐米大使、佐伯は野村総研会長、土光は経団連前会長、藤野は三菱商事前会長、永野は日本商工会議所前会頭、岩佐は富士銀行前頭取、盛田はソニー会長だった。
 このうち私が最も注目するのは、宮沢喜一である。宮沢はTCメンバーの中で最も大物であり、日本側の委員長も務めた。TC設立後、翌1974年(昭和49年)外相、77年経企庁長官、80年官房長官、86年蔵相、87年副総理兼蔵相を歴任し、91年(平成3年)に首相となり、93年(5年)にかけて日本のトップの座にあった。首相退任後も98年(10年)小渕内閣で蔵相。2000年(12年)森内閣でも蔵相/財務相を務めた。首相になっただけでなく、これだけ繰り返し、経済担当大臣を務めた政治家は、稀である。
 宮沢が活躍した時代、TCが設立されて以後の日米関係は、一層アメリカ主導になったと思う。1985年(昭和60年)のプラザ合意、89年(平成元年)ブッシュ父大統領の提案による日米構造協議に続き、93年(5年)宮沢首相・クリントン大統領間で日米包括経済協議が開始された。宮沢喜一とビル・クリントンは、ともにTCのメンバーだった。私はこの首脳会談は、TCの日本への影響を象徴していると思う。
 宮沢・クリントン会談の翌年、94年(6年)から、アメリカによる年次改革要望書が毎年提出されるようになった。2000年(平成12年)日本長期信用銀行の外資への売却、02年(14年)事実上の日本破産処理案である「ネバダ・レポート」の発表、07年(19年)小泉政権下の郵政民営化の実現等、畳み込むように、アメリカは対日外交を進めてきた。
 
 
 
世界的な政治覚醒を扇るアメリカ
2008年12月24日  田中 宇
 
http://tanakanews.com/081224awakening.htm
 
今回のブレジンスキー論文で気になるもう一つの点は「中国と日本の台頭(傑出)によって、大西洋諸国(欧米)の500年間の世界支配は終わる」と書かれていることだ。米英に代わって日中が世界を支配する時代が間もなく来ると言わんばかりである。

 実際の日本がとっている姿勢は、ブレジンスキーの予測とは正反対だ。日本政府は、1日でも長く対米従属を維持したいと考えている。たとえ今後米国の覇権が崩壊しても、日本政府は今のところ、世界の多極化には貢献したくないようだ。政治鎖国的な傾向をとりつつ米国が復活するのを待つ方が良いというのが、今の日本の姿勢である。米国の財政破綻が近いというのに、日本政府は09年度予算で「米軍再編協力費」の名目で米軍にあげるお金を3倍に増やした。外務省は「これで米国に貢献できる」と喜んでいる。米国の傀儡国の傾向をむしろ強めるのが、今の日本国の方針である。

 ブレジンスキーは1970年代から「日本は国際政治に関与する気がないので、永久に米国の属国であり続けるしかない」と言って日本を侮蔑してきたが、日本政府は侮蔑されても喜々として対米従属を堅持している。今回のブレジンスキーの「中国と日本は」というくだりは「中国」だけが本質的な主語で「日本」は、ブレジンスキーの中国偏愛を読者に悟られないようにするための当て馬にすぎないのかもしれない。

 今回の日中に関する指摘を詳しく説明したものを、ブレジンスキーはすでに1997年のフォーリンアフェアーズ論文「ユーラシア地政学」で書いている。この論文は、ユーラシア大陸を「地政学的な巨大なチェス盤」にたとえ、米国がどうやってユーラシア大陸を支配するかを書いたことで有名になった。だが、世間で取り沙汰された好戦的なイメージとは裏腹に、論文が掲げた目標は「NATOにロシア、中国、日本を入れて全ユーラシア安保体制を作る」という、世界安定化であり、その目標達成のために米国は中国との協調が必要だという話になり、1998年にクリントン大統領が、日本に立ち寄らずに中国を訪問して「中国重視・日本軽視」を見せつける「ジャパン・パッシング」につながった。

 この論文は11年前のものだが、この11年間で世界は、共和党ブッシュ政権下でいったん過激に好戦的になったのが大破綻し、今またブレジンスキーに頼る民主党政権になろうとしており、再びこの論文が有効になる事態に戻ろうとしている。その意味で、ブレジンスキーの97年の論文は、08年の今回の論文につながっている。「全ユーラシア安保」は「NATO」+「上海協力機構」+「北朝鮮6カ国協議が発展したもの」として実現していく道筋ができつつある。
 
 
 
 
 
 
 
さてはてメモ帳
オバマ・コネクション by オルタ
 
このジョセフ・ナイの書いた戦略文書が、実はブレジンスキーの「手本・教本」となっている。オバマのブレーン=ブレジンスキーのアジア・世界支配戦略文書「セカンド・チャンス」が、ナイの戦略文書のコピーである事は瞠目すべきである
 
この戦略文書をナイと共に書いている人物フレッド・バーグステンには注目する必要がある
 

バーグステンは、ドルによる世界支配を終わらせ、世界通貨を「ドル・ユーロ・中国元」に三極分解させ、日本円を中国元の「支配下に置く」と主張し、また1ドル=80円水準までドル安を誘導し、ドル1極支配を終わらせると主張し、昨今の円高を作り出している張本人である。 バーグステンの戦略通り、現在の為替は「動いている」。

 バーグステンは長年、米国中央銀行FRB議長であったアラン・グリーンスパンの金融部門のブレーンであり、日本の金融大臣であった竹中平蔵の恩師である。
 
 
 
 
この中で、カーター政権の国家安全保障アドバイザーのZ.ブレジンスキーは、「米国と中国がこの先の世界秩序を担う」という、「G-2」構想を提唱した。ブレジンスキーの狙いは中国を使って、ロシアを封じ込めることにあるが、キッシンジャーたちは既に中国に利権を持っている。「戦略」と「利害」が一致したわけだ。中国の台頭はもはや止めようがない。日本はそれと共存するしかないだろう。
 
 
2011/05/03
 
まあ、オバマ大統領の黒幕であるブレジンスキーにしてみれば、生きてちゃ困る人でしょうから、いつか死んだことにするとは思ってましたけど。。

311トモダチ作戦が終了した途端に、こういう展開になったところがポイントでしょうね。


前にも書いたように、オサマ・ビン・ラディン達アルカイダというのは、オバマ大統領のブレーンであるブレジンスキーが麻薬栽培と武器を与えて援助して育てた経緯があります
 
 
 
 
 
 
麻生と中曽根の和解、鍋はいりません?【20090408】
http://www.mkmogura.com/blog/2009/04/08/199
 
では、中曽根と麻生の和解みたいな話が出てることについて。
 
 
ま、こんなもん俺のブログの読者なら事前に説明して理解しているだろう。
小沢叩きの裏にある、キッシンジャー路線の工作員の日本代表と麻生=勝共Dロックフェラーの手打ちがあったであろうと。
 
(引用終わり)
 
駆け足で引用しましたが、アーミテージ論文を読むと、やたら、日本に対して具体的で、なおかつ、日米、日米韓で、中国に対峙すると強調されていて、日本にいて「アメリカとの関係で食っている人たち」に より近いのかな? とも思えます。
 
ブレジンスキーの方は、もっと 日本に対して突き放す感じで、戦後、吉田首相が回避したといわれる バック・キャッチャー (手先となって戦争などをさせる)に、日本をさせたい立場に近い気がします。
 
 
 オバマの 「宗主国サマより少し左」 とは、何なんでしょう?
 まだわからないままです。
 
 御来訪ありがとうございました。
 
 
 
 

仕分けは難しい。。

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御来訪ありがとうございます。
 
 
(引用開始)
 
【スロウ忍ブログ】
2013年3月10日日曜日
日米両政府が人工衛星や宇宙ゴミ等の“宇宙状況監視”分野で協力を確認するとのことだが
 


以前の俺は“米英帝系”と“シオニスト系”を明確に定義しきれていなかった部分も在ったが、
此のエントリを書いた辺りで少しづつ其れ等の違いに気付いてきた。

俺が“シオニスト勢力”と定義していたのは、所謂“三井財閥系”であり、“緊縮財政”を是とする“立憲政友会”に繋がる勢力である。米英帝WASPなのかシオニストユダヤなのか(若しくは其の両方なのか)解り辛い位置に居る“ゴールドマン・サックス”(創業者がドイツ系ユダヤ人)だが、同企業の今迄の動きから分析すれば、何方かと言えば此方も“シオニスト勢力”側ではないかと俺は考えている。まぁただ、GSは“利益相反”にならない取引であれば、シオニスト勢力という枠さえもあっさりと超えて活動するのだろうがね

そしてもう一方、俺が“米英帝勢力”と定義していたのは、所謂“三菱財閥系(+芙蓉グループ)”であり、“積極財政”を是とする“立憲民政党”に繋がる勢力である。余談だが、あの小泉ファミリーは此方側である。ただし、小泉純一郎について言えば、対立側(シオニスト勢力)に日和見していた感が強い。イスラエル・ロビーが強大化し、米英帝勢力とシオニスト勢力が融和したあの時代、小泉は“ある意味で”バランスを取った政治を行っていたのだろう。

まぁどっちの勢力も、民権政治を嫌い、血縁を尊重した君主主義を重んじ、カルト宗教とも繋がって国民を支配する、所謂“カルト保守勢力”であることには変わりは無さそうだけどな(プ
 
 
(引用終わり)
 
 スロウ忍さま、いつもありがとうございます。
 ブロガーの皆様は、 ホントに優しい。。
 
 宇宙のゴミを片付けるんじゃんくて、宇宙のゴミを増やす相談の話ですけど  ね。
 
 なんでも、「隕石」にしちゃうわけにもいかないですからね。
 
 
 
(引用開始)
 
 
名前の由来は、理論的な指導者と目される荒木貞夫が日本軍を「皇軍」と呼び、政財界(皇道派の理屈では「君側の奸」)を排除して天皇親政による国家改造を説いたことによる
 
荒木は1918年シベリア出兵当時、シベリア派遣軍参謀であったが、この時に革命直後のロシアの混乱や後進性を見る一方で、赤軍の「鉄の規律」や勇敢さに驚かされた。そのため荒木は反ソ・反共の右派的体質を身につけただけでなく、ソヴィエトの軍事・経済建設が進む前にこれと戦い、シベリア周辺から撃退し、ここを日本の支配下に置くべきであるという、対ソ主戦論者となった。
 
荒木や真崎は、日露戦争時期を理想化し、日本をその状態に復帰させることが、軍の拡大強化や対ソ戦を早く決行できる所以だと考えた。ここから、「君側の奸」を討ち、「国体を明徴」にし、「天皇親政」を実現すべしという思想が引き出される。このような思想を抱く荒木らに対し、青年将校らは「無私誠忠の人格」として崇敬した。これが皇道派である。
 
 
 
荒木貞夫
 
憲兵司令官時代から大川周明平沼騏一郎北一輝井上日召といった右翼方面の人物と交流を持っていたことから、昭和6年(1931年)の十月事件においては、橋本欣五郎から首相候補として担がれたが、貞夫自身の反対や意見の非統一から計画は頓挫した。
 
 
昭和13年(1938年)5月26日に、第1次近衛内閣の文部大臣に就任すると同時に、「皇道教育」の強化を前面に打ち出した。国民精神総動員の委員長も務め、思想面の戦時体制作りといったプロパガンダを推し進めた。この頃から、軍部の大学・学園への弾圧が始まり、人民戦線事件に代表されるような思想弾圧が行われるようになった。
 
 
妻の錦子は日本赤十字社篤志看護婦人会幹事、大日本国防婦人会副会長、陸海軍将校婦人会幹事長、東洋婦人教育会理事、柏葉婦人会評議員等を歴任。明治42年(1909年)、貞夫は錦子との間に長男の貞發を儲けた。貞發は幼少時、父がロシア従軍武官となった際、父に連れられシベリアに同行している。その後貞發はロンドン大学を卒業し、日産自動車に勤務した。
 
 
 
 
 
統制派(とうせいは)は、大日本帝国陸軍内にかつて存在した派閥。当初は暴力革命的手段による国家革新を企図していたが[1]、あくまでも国家改造のため直接行動も辞さなかった皇道派青年将校と異なり、その態度を一変し、陸軍大臣を通じて政治上の要望を実現するという合法的な形で、列強に対抗し得る高度国防国家の建設を目指した。
 
天皇親政の強化や財閥規制など政治への深い不満・関与を旗印に結成され陸大出身者がほとんどいなかった皇道派に対し、陸大出身者が主体で軍内の規律統制の尊重という意味から統制派と呼ばれる
 
 
中心人物は永田鉄山、東條英機
 
 
対立している皇道派が反ソ・反共を掲げ、右派色が強かったのに対して、統制派は南進論と中国への一撃を主張し、英米を敵とし、ソ連との不可侵条約の締結を推進した。
 
統制派は『太平洋五十年戦略方針』などの編集で細川嘉六中西功平野義太郎共産主義運動に詳しい人物を積極的に起用した[2]
 
 
 
「小沢降ろし」と南満州鉄道の線路は続くよどこまでも>米朝戦争は来週公開です! 乞うご期待!(ネットゲリラ)
http://www.asyura2.com/10/senkyo100/msg/619.html
日時 2010 年 11 月 28 日
 
戦前の日本軍では「38度線以北は関東軍、以南は大本営」と縄張りがあったそうで、それを引き継いだだけらしい。
(管理人注 満鉄調査部 - 土のうえ のブログ  ご参照ください)
 
 
 
 
 
 
本稿は戦前の天皇のインナー・サークルとしての宮中グループに
焦点をあてながら、昭和平成史を読み解くことを目的としている。
宮中グループは宮中側近グループなどとも呼ばれ、これまで定義と
してあいまいさを残してきた。本稿では宮中グループを宮中側近に
いた政・官・軍を含めたエリート集団と位置付け、これまで一括り
に論じられることが多かったこのグループを牧野伸顕中心の「薩摩
系宮中グループ」と木戸幸一中心の「長州系宮中グループ」
に切り
離し、対比している点を特徴としている。

 
 
薩摩系宮中グループは皇室との関係においては貞明皇后、秩父宮
夫妻、高松宮との結びつきが強く、昭和天皇の母君である貞明皇后
のインナー・サークルとも言える。
また、彼らは英米のエスタブリ
ッシュメントと戦前から深く結び付き、親英米派として国際協調を
重視した自由主義者であり、英米から穏健派と呼ばれた勢力である。
このため皇室と英米有力者との仲介者として宮中外交を支えた。英
米との接触の中で宗教的感化を受けてクリスチャン人脈を多く抱え
ていたことも特徴としてあげられる。その歴史的な背景はザビエル
来航450周年を記念して建立された「ザビエルと薩摩人の像」
(鹿児島市ザビエル公園)が象徴している。

 
これに対して長州系宮中グループは昭和天皇のインナー・サーク
ルとして昭和の戦争を主導した勢力である。岸信介や松岡洋右を仲
介者に陸軍統制派と手を握りながら戦時体制を築いた
。単独主導主
義的な強硬派と見なされることも多いが、アジアの開放を掲げた理
想主義者としての側面もある。戦前から靖国神社が彼らの拠り所と
なってきたこと
は、靖国神社にある長州出身の近代日本陸軍の創設
者・大村益次郎の銅像が見事に物語っている。
 
 
 
満州の地で長州と反長州が「二キ三スケ」として結合し、親密な
関係を築いていく。一時ではあるが確かに「官軍」と「賊軍」の立
場が入れ替わっていた。二人を結びつけたのは岸の関与したアヘン
密売によるカネの力であったとする説が今なお語り継がれている。
しかし、岸と東条の関係も長くは続かなかった。

 
東条の引きもあって東条内閣の商工大臣となった岸も、劣勢への
対応策として商工省が廃止、軍需省が新設された際に軍需次官(兼
国務相)に降格されたことから東条との関係が悪化、サイパン島陥
落(1944年7月)によって戦争継続を不可能と判断した岸と本
土決戦覚悟で戦争継続を目論む東条との対立が決定的となり、岸の
辞任騒動に発展、これをきっかけに東条内閣は総辞職に追い込まれ
る。


 
 
 
 
この吉田一派をポツダム体制派と見なし、反吉田旋風を巻き起こ
しながら、見事に復活したのが長州系宮中グループを受け継いだ岸
信介である。岸も賊軍の汚名を晴らすかのように国際政治の舞台に
復帰する。元祖「反ソ・反共」に対抗して、統一教会などと「勝共」
を掲げたが、所詮保守傍流に追いやられた。
 
 平成の時代になって「政治優先、対米自立、再軍備、自主憲法制
定」を柱とする岸ドクトリンのたすき掛けリレーが小泉純一郎によ
って再スタートする。
そして今、第一走者の小泉純一郎から第二走者の安倍晋三へと受け継がれた。安倍の背後にはさらに強力な第三の男も控えている。この3名すべてが岸及び岸の同志につながる家系である。

 
なお、本稿には日本国憲法における象徴天皇制及び戦争放棄に大
きな影響を与えた新渡戸稲造とそのクエーカー人脈が再度登場する

 
 
 
 
 
 
 
 

 そもそも統制という言葉が法律語として初めて登場するのは、満
州産業開発5か年計画以前の1931(昭和6)年4月に公布され
た「重要産業統制法」である。これを立法起案したのがドイツのナ
ツィオナリジィールンク(国家統制化)運動を学んで帰国した農総
務省時代の若き岸だった。その実施にあたったのが岸とその上司、
木戸であったことも『岸信介の回想』で岸本人が語っている。木戸
と岸の特別な信頼関係は農総務省時代の上司と部下の関係によって
培われた。
 
また木戸と近衛は京都帝国大学時代からの学友であり、岸を中心
とする革新勢力の期待を一身に担ったのが、近衛であり、木戸であ
る。近衛と木戸は原田熊雄(西園寺公望の秘書)とともに「宮中革
新派」を形成し、宮中内部の権力を掌握すべく、軍部や右翼と手を
握りながら牧野伸顕を支えた関屋貞三郎宮内次官を辞任に追いやり、
この関屋辞任工作によ って薩摩系宮中グループから主導権を奪い取
ったのである。
 
このヨハンセン・グループには二・二六事件で予備役へ追いやら
れた陸軍皇道派の真崎甚三郎と小畑敏四郎も関与している。皇道派
主導の二・二六事件で吉田の岳父であった牧野も狙われたことを考
えれば、吉田と陸軍皇道派の協力関係は奇妙に見えるが、吉田らは
東条率いる陸軍統制派に陸軍皇道派をぶつけるために手を組んでい
た。また彼らを結びつけたのは「反ソ・反共」であり、日本が赤化
することへの強い危惧を共有していたからだ。

 陸軍省防諜課によって監視されていた吉田は、1945(昭和2
0)年4月15日、「近衛上奏文」に関連する容疑で憲兵隊によっ
て逮捕される。この逮捕はヨハンセン・グループの反戦信任状
(『吉田茂とその時代』ジョン・ダワー)となり、戦後において極
めて有利な経歴となった。
 
(引用終わり) 
 
 

1952年から1957年

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0
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「引用開始)
 
2012-07-28 09:06:57
 http://blog.goo.ne.jp/yamanooyaji0220/e/d6070925e98eb89842b44bd0585801ac
 
 
彼が韓国への進出を決意した理由は、アメリカによる軍事占領が終った後、今日でもアイゼンベルグ自身が憤慨している通り、日本の大手企業の多くが彼を追い出しに掛かったことにある。
 
1982年1月14日付 『ニューョーク・タイムズ』 紙に載ったアイゼンベルグの数少ないインタビュー記事の一つの中で、彼は日本との関係を次のように述べている。

 「我々は日本で数多くの新しい事業に着手したが、日本人がその成果を横取りしてしまった。25年あるいは30年前には日本人は我々を必要としたが、今では我々を必要としていない」と。

アイゼンベルグは、今なお日本人に対する恨みの気持ちをはっきりと持っている。1950年代に日本人が彼を追い出してしまったことをアイゼンベルグは決して許してはいない。
 
(引用終わり)
 
1982年の30年前から25年前に何があったんでしょう?
 
 
1952
 
1月16日 - 吉田首相、中国の正統政権に関するジョン・フォスター・ダレス宛書簡を公表。
 
2月15日 - 吉田首相、日華平和条約交渉のため、河田烈元蔵相を全権とする代表団を台湾に派遣。
 
 
 
 
1953
 
2月27日 - 韓国竹島を韓国領と発表する
 
11月19日 - 来日中のリチャード・ニクソン米副大統領、日本への非武装憲法の押し付けはアメリカの誤りと演説する。
 
12月 - 米英仏首脳のバミューダ会談
 
 
1954
 
3月30日 - 改進党議員総会で重光葵総裁、緒方竹虎保守合同構想を批判
 
6月2日 - 参議院、「自衛隊の海外出動(≒自衛隊海外派遣)を為さざることに関する決議」を全会一致で可決。
 
 
7月1日7月3日 - 新党促進協議会(反吉田内閣)設立。会長に金光庸夫、事務局長に岸信介7月21日 - 第一次インドシナ戦争休戦協定(ジュネーヴ協定)調印。7月26日 - 自由党幹事長に池田勇人、総務会長に大野伴睦

 
 
9月14日 - 吉田首相、林屋亀次郎の斡旋で箱根で芦田均元首相と会談。会談後、芦田は吉田首相が外遊後の退陣する意向であると談話を発表。新党協議会は動揺。9月19日 - 東京音羽鳩山邸で鳩山一郎、三木武吉、重光葵、岸信介、石橋湛山、松村謙三らが集まり、反吉田新党結成を申し合わせ。9月21日 - 新党促進協議会、新党準備会に変わる。9月26日
 
 
 
12月22日 - 政府、日本国憲法9条について自衛権の保有と、自衛隊の合憲、自衛隊は戦力なき軍隊であるとの統一解釈を発表。
 
 
 
1955
 
1月6日 - 重光葵外相、中ソとの国交正常化に慎重な意見を表明。1月7日 - ドムニツキー駐日ソ連代表部臨時代理、チャソブニコフ二等書記官、鳩山邸を訪問し、鳩山一郎首相、鳩山威一郎らと会見。
 
 
4月1日 - 日ソ和平交渉全権委員に松本俊一を任命。4月5日 - ウィンストン・チャーチル英首相が辞任。
 
 
5月15日 - 三木武吉、東京高輪山下太郎邸で大野伴睦自由党総務会長と会談。三木は保守合同に関して大野説得に成功。5月14日 - ワルシャワ条約機構が結成される。5月27日 - 岸信介、三木武吉、石井光次郎自由党幹事長、大野伴睦の四者会談。
 
 
7月18日 - ジュネーヴで米英仏ソ首脳による四国巨頭会議が開催される
 
 
10月13日 - 日本社会党統一党大会が東京神田の共立講堂で開かれる。左右両社会党が再統一(社会党再統一)。委員長に鈴木茂三郎(左社)、書記長に浅沼稲次郎(右社)。
 
 
11月14日 - 日米原子力協定調印。11月15日 - 自由党日本民主党が合併し、自由民主党が誕生する(保守合同)。いわゆる55年体制の幕開けとなる。
 
 
12月13日 - 日本の国際連合加盟に関して、ソ連拒否権を行使。
 
1956
 
1月9日 - 松本俊一日ソ交渉全権代表、ロンドン訪問
1月28日 緒方竹虎が急死。
 
 
4月6日 - 原子力委員会茨城県東海村を原子力発電研究所建設地として選定
 
 
 
8月11日 - 重光外相、ソ連外務省にシェピーロフ外相を訪問。8月12日夜から8月13日夕方にかけて、政府与党首脳会議、臨時閣議開催。重光全権に対して日ソ交渉の中断と第一回スエズ運河国際会議へ出席することを訓令。8月15日 - 重光外相、モスクワを離れ、ロンドンに出発。
 
12月2日 - カストロらがキューバに上陸しゲリラ作戦を開始。
 
 
1957
1月31日 - 石橋湛山首相、病気のため、岸信介外相が内閣総理大臣臨時代理に就任
 
3月27日 - 欧州経済共同体 (EEC) 設立条約調印。
 
4月22日 - 社会党訪中使節団、「二つの中国を認めず」と声明。4月25日 - 日本政府、日本国憲法核兵器に関して、「攻撃的核兵器を自ら持つことは違憲」との統一見解を示す。
 
 
7月6日 - 箱根・宮ノ下の富士屋ホテルで、日豪通商条約を締結。岸首相が出席。
 
8月1日 - アメリカ国防総省、駐日陸上部隊の撤退開始を発表。8月6日 - 安全保障に関する日米委員会発足。8月13日 - 内閣に憲法調査会発足。社会党は不参加。
 
9月29日 - 日本共産党、新綱領草案を発表。平和革命方式を採用する。
 
12月6日 - 日ソ通商条約調印。
 
(引用終わり)
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