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「国家がピンとこない」
という言葉は、橋本治さんの
「今私たちが考えるべきこと」
という本の中の言葉です。
この本は、平成16年に書かれた本で、文字通りの「今」ではないのですが、
管理人には、いろいろ思い当たることの多い本です。
「橋本治という行き方」
という本もあって、その中で、ドラマに対しての文章で
(引用開始)
その土壌がろくなものを生み出さない「悪い土壌」だとしても、その土地と向き合わなければ、土壌改良だってやれない。「あ、こんなとんでもない土壌だったんだ」もまた、「あ、そうなんだ」という実感である。
(引用終わり)
という一節があって、
「自公維新を大勝させちゃう日本の土壌って、どういうものなの?」
を、考えなくちゃいけないなあ。。 と、思ったりします。
大雑把な考えですが、
自分の身さえ安泰なら、後はどうでもいい
昔の官僚貴族や、武士官僚 の考え方と
商売に精を出すから、難しいことは、お上に任せる の
江戸時代にできた町人の考え方 と
ともかく、租、庸 ,調から始まって、ともかく厳しく税を取られ続けた
農民の、「お上は恐ろしい。お上に逆らうな」
と、そういう系譜はあると、ぼんやりと、思っていました。
だから、いきなり、民主主義と言われても、ピンと来ないのかも?
なんて、選挙の間も、余分なことばかり思い浮かんでいたんですね。
「国家がピンとこない」というのは、イラク戦争に関連して出て来ます。
アレは、戦争とはいえなくて、アメリカなどが、
「独裁して圧制をしているフセインは、けしからん。 成敗してやる」
で、国連の賛成が得られなかったので、義勇軍でやった。
一番、大きな問題であった、「石油の利権」は、独裁体制の悪さみたいな
ことに隠されちゃっていた。
今になって(本を書かれた当時)は、大量破壊兵器は、見つかってない。
イラク国民は、国を侵略させまいと戦ったという話を聞かないし
戦争が終わってみると、イラクという国をどういう国にしたいか という
イラク国民の声が聞こえない。
元々、イラク国民は、国家が、ピンとこない人たちだったのではないか?
と言う話から、続きます。
(引用開始)
160ページ
独裁体制の土壌は、「国家がピンとこない」である。ピンとこない人たちが多くて、その人達が容認しなければ、独裁体制が生まれっこない。そういう人たちが、容認して、そのことによって「支える」を結果的に実践するということでもなければ、独裁体制は拡大への門口になんか辿りつけない。「普通の人が独裁体制を支える」という形は、こう言う形でしか成立しないだろう。
161ページ~162ページ
「あれは、悪い独裁者かもしれないが、真面目に生きているコッチには、直接関係がないから、あれでもいいや」である。
融通のきく生活者は、そのように考える。イラクの不思議はこういう人の存在を考えないと理解できない。
マインドコントロールの効かない、融通の効く人たちは、それゆえに確固とした自分の生活現実を持っている。関心は自分たちの生活現実に限定されて、そこから離れた、遠い面倒なことはどうでもいい。自分たちの生活現実が、確保されていれば、そういう人たちは状況の悪さを気にしない。
「気にしない」という回路が逆用されて、袋小路に入った、独裁政権さえも支えてしまうのである。
そういう生活現実を前提として生きる人は、硬直した思考に、時として耐えられない。だから、反抗する気がないまま、独裁政権を批判するような結果になってしまう。「批判された」と理解して、独裁政権は牙を剝く。そういう人たちは 「独裁政権に脅されて怯える人」にはなっても、「独裁政権に騙される人」にはならない。独裁政権にだまされるのは、「哀れで幼稚な愚か者」で、その数がそんなに多いとは思えない。独裁政権を支える多数派は、独裁政権の脅しを知って、怯えて耐える普通の人なのである。
だから、こういう人間達は、独裁政権が倒れたときに、ほっとする。ほっとするが、どうしていいかは分からない。なぜかと言えば、そのはじめに「ピンとこない国家を独裁者に委譲する」をやってしまっているからである。だから
独裁者が倒れて、「自分たちの国家」を考える時になっても、一向にピンとこない。 「イラクの不思議」はここにあって、それはつまり、「国家がピンとこない」なのである。
私がこんな風に考えるのは、「2003年のイラク」を見ながら、「日本のこと」を考えているからで、私の「イラクで思うこと」とは、つまり「日本のこと」なのである。
(引用終わり)
今になってみると、大量破壊兵器はなかった。 イラクの民間人は大量殺戮された。 劣化ウランなどで、汚染もされた。 で、軍産複合体による金儲けのための侵略に過ぎなかった。。
というのは、わかっているんですけど、国家がピンとこないというのは、
長い植民地時代とか、民族や宗教の違いとか、風習の違いとかがある中で、独立しました。国家です。
と言われて、「ヤッター 独立だ」と喜んだとしても、どうしていいかわからないから、フセインみたいな人にに任せちゃった ってことですかねえ。。
日本も、戦争に負けました。
条約で 表向き独立国になったけど、実は違ってて。。
日米安保でもめたあと、「所得倍増計画」で、高度成長。。
スリーマイル島とかで 核反対が盛り上がっても、経済成長。。
みたいなので、国家権力の及ぼす数々の悪
徴兵で戦争というものを
忘れさせられたのかもしれませんね。
最近、実感された「国家の及ぼす悪」が、「労働者派遣法」だったので、政権交代が起きたわけですけれど、 これは、自己責任みたいに感じちゃっている方が、まだいるんでしょうね。
誰も就職できなければ、「国が悪い」は、明瞭ですが、
「ある程度就職している」のなら、「自分の努力が足りなかったのか?」と
疑う余地も残されるし。。
これは、平安時代の下級官僚にされた手口と同じで、通常従四位で終わ りだけど、頑張れば、正四位の身分にしてあげるよ。。
上級官僚は、最初から、従三位だけどね。。みたいなもんです。
管理人も、国家というのがピンとこないのですが、「徴税」と「徴兵」とか、戦時国債の割り当てとか、「徴用」とか、こういう話が、「耳タコ」で、こびりついていますんで、悪影響だけには、敏感です。
お年寄りは、「保険で医者にかかれるようになった」と、言っている方もいますが、これは、国民同士の「相互扶助」であって、それを吸い上げて私物化して、ナイナイと言っている国というものを糾弾すべきなんでしょう。。
いま私たちが考えるべきこと
の最初の方には
「自分のことを考えろ」と言われて
「自分のことだけ考える」人と
「他人のことを考える」になってしまう人というのが出て来ます。
「自分のことだけを考える」というのは、エゴイストなんですが、
「他人のことを考える」人にもいろいろあって
生活現実があるから、他人から見た自分を考える人。
所属する集団。(あるいは、所属していると誤解している集団)は、どう考 えるかばかり考えて、自分のことはそこに含まれちゃう人。
などですね。
実はもう少し詳しく複雑に書いてあるのですが、
例えとして、高速道路を今度は自分のところに作って欲しい。
(自分のことだけを考える)
でも、財政は厳しいのに無駄かなあ。。自然環境も破壊するし。。
(他人のことも考える)
という局面になったときに、
マスコミや政府の 財政は厳しい というミスリードが一つあって、
次に、 まともな人が考えそうな、
(じゃあ、高速道路を作らないで、既存の道路を修理することで雇用、地域 を豊かにしよう。 余ったお金で、子育て支援して若い人を呼び込もう」
という案では、国の補助金が出ないし、地方は起債できない。
など、偏った情報と、制度の縛りというネックがある。
さらにいえば、その道路の仕事がなければ、その地方の会社はバタバタ
潰れるというところまで追い込まれていれば、選択肢が限られてくる。
ゆとりがあれば、他人のことを考えて、投票ができても
困窮してくれば、わかっていても、食える方を選ばざるを得ない。
に、追い込まれるということもありますね。
(引用はじめ)
2012年12月15日
選挙区内の辺境にある某市(といっても人口3万)では、今日にあってもいまだに区長(自治会長)になると自動的(強制的?)に自民党に入党させられ、選挙になると上から「〇時〇分に候補者が行くから最低10人以上は集めておけ」と指示がなされ、候補が分刻みで自治会を回っていくというシステムが健在。
隣組による相互監視体制が健在なため、民主党候補の個人演説会などに出ようものなら、即区長から警告あるいは脅迫が来るという。
これでは「若者が地域に根付かない」などと主張したところで、まったく説得力がなかろう(爆)
同じ市の幹部出身者は「秘書課にいたときは業務時間内に候補者の日程管理を、選管にいたときは自民党のポスター貼り用の地図作りをさせられていた」と証言。地方行政と自民党の露骨な一体化は私の想像以上だった。
とはいえ、自治労が社会党・民主党を支援していることを思えば、変とは言えないのかもしれないが。
やはり田舎の選挙は貴重な体験だ。
隣組による相互監視体制が健在なため、民主党候補の個人演説会などに出ようものなら、即区長から警告あるいは脅迫が来るという。
これでは「若者が地域に根付かない」などと主張したところで、まったく説得力がなかろう(爆)
同じ市の幹部出身者は「秘書課にいたときは業務時間内に候補者の日程管理を、選管にいたときは自民党のポスター貼り用の地図作りをさせられていた」と証言。地方行政と自民党の露骨な一体化は私の想像以上だった。
とはいえ、自治労が社会党・民主党を支援していることを思えば、変とは言えないのかもしれないが。
やはり田舎の選挙は貴重な体験だ。
(引用終わり)
コレは、田舎に限ったことではなくて、東京でも、こういうところあります。
町会なり、自治会なりの「組織に帰属」して、その組織のために動く。
過去に良くしてくれたからと言う理由で。。
今がうまくいっている人は、変革を望まないん でしょうね。
権力と影響力について でも書きましたが、権力は、誰にでも及ぶものな んですよね。 その権力を執行する方を除いて。。
そういう国家権力の恐ろしさについて、考える余裕もなく、明日、食べるも のがないという恐怖の方が、勝ったのかもしれません。
マスコミが、選択肢を見せない。見せても歪めて報道する。
選択する余地もないほど困窮している。
国家権力がピンとこないので、自分には及ばないと思っている。
帰属する集団の考えで動く。
などなどの、こういう土壌を、考えてみる必要があるのかもしれません。
マニフェストで選んだら、嘘ばかりになった。
で、今までのつながりで、人で選んだら。。
思いがけない公約だった。。
このどっちつかずを上手く利用されたようにも思います。
帰属する集団=その人の神 と考えれば 誠天調書さまの言う、
「多神教文明人」であることを、「一神教カルト」に利用された選挙である と、思います。
難しいですね。。
御来訪ありがとうございました。